特別な絆、特別ではない口づけ
キースが正式に、ただし臨時的にフィオリーナの護衛を請け負うことを、フィオリーナをはじめ、ミミやサラ、ジェファスは歓迎したが、マートンだけは一抹の不安があると難色を示した。
一番長い時間、キースと顔を合わせ、小言を喚き散らしているくせに、未だに信用してくれないのは、余程疑い深いか、もしくはソリが合わないかのどちらかだろうと、三日目にして、キースは早々と諦めた。
それでも、言いつけられた仕事はちゃんとこなしていたし、毎回マートンを部屋から食堂へ運ぶ仕事も、サボったことはない。
ただ、相変わらずマートンが担がれるのを嫌がるせいで、時間が掛かってしまうのはどうしようもない。
そのため、既にフィオリーナが席に着いていることも多く、そういう場合、マートンは非常に恐縮して遅れたことを詫び、キースを睨む。
今日も、フィオリーナが先に食堂で待っており、マートンはしきりに詫びた。
「お待たせして、大変申し訳ありません。やはり、私の分は部屋へ運んでもらう方がいいのではないかと……」
「どうしてです?食事は、一人よりも皆で食べる方が美味しいでしょう?それに、マートンの顔が見られないと、心配です」
待つことぐらい何でもないと、フィオリーナは微笑む。
「ううう……勿体無いお言葉……」
マートンは涙ぐみながら、キースが迎えに来るのが遅いのだと言わんばかりに睨む。
「何だよ。だから、担いで運んでやるって言うのに、嫌がるからだろ」
肩を貸して歩くよりは、担ぎ上げて運んだ方が早いとキースが言い返すと、マートンはそんなみっともない真似は出来ないと憤慨する。
「でも、もう大分経つけれど、容態はどうなのです?ちゃんとしたお医者様に見てもらった方がいいのではなくて?」
フィオリーナは、長引くマートンの症状が心配だと眉根を寄せる。
「いえいえ。それには及びません。大分良くなっています」
最初は寝台から起き上がるのも儘ならなかったマートンだが、今では部屋の中を動き回る程度は出来るようになっている。
キースも、あと十日も安静にしていれば全快とまではいかなくとも、かなり回復するだろうと請合った。
「一日も早く回復しなくては、あらゆることが心配で……」
キースがちゃんと仕事をこなしているかどうか、非常に気になっているのだとマートンは言う。
「キースはとっても良く働いてくれています。サラの肩揉みもちゃんとしてあげているし、洗濯物も運んであげていますし、寝台を整えるのがとっても上手です。それから、ランディの毛並みも、いつもふわふわです」
フィオリーナは心配ないと微笑んで報告したが、どれもがどうでもいい仕事だろうとキースは思う。
「そうよ、マートン。意外に、ちゃんと真面目にやってるわよ」
ミミの援護も、微妙に引っかかるところがあるものの、自分の働きを認めてくれているのは素直に嬉しいとキースは頷く。
「そうさね。いい加減そうな見た目とは違って、規則正しい生活も出来るようだし、まぁまぁいい方じゃないかい?」
朝食を運んで来たサラも、キースの肩を持つ。
マートンは信用ならないというように眉を引き上げたものの、キースがちゃんと仕事をこなしていることは確かなのだろうと認めるように、渋々頷いた。
サラとジェファスが準備を終えたところで一同は食事を始めたが、ミミが村で仕入れて来た噂話や、サラとキースの言い合いなどで騒がしいのと紙一重の賑やかさだ。
一通り食事が終わったところで、ミミはマートンの顔色を伺いながら、実は一つ提案があるのだと言い出した。
「ねぇ、マートン。ここのところ、しばらーく、フィオ様はどこへもお出かけしていないでしょ?今日は、天気もいいし、村でお祭りがあるから、フィオ様も行ってみたらどうかなって思うんだけど。キースがいれば、大丈夫だと思うし」
「それは……どうだろうな?これが、本当に信用に値するかどうかは、まだわからないだろう……先日のこともある。外出するのは、あまりいいこととは思えない」
マートンは、苦い顔で首を振る。
しかし、ミミは簡単には引き下がらない。
エドワードがいた時も、時々村へ出かけたり、大きな祭りがあるときは王都まで行ったりもしていたのだから、構わないだろうと言い募る。
「それに、フィオ様だって、たまには息抜きが必要よ!」
王都にいれば、華やかな舞踏会だってたくさんあるだろうが、こんな片田舎では楽しみだって少ないのだと、ミミは主張する。
「フィオ様のためというより、おまえのためのようだな?ミミ」
マートンの鋭い指摘に、ミミは一瞬視線を泳がせる。
「マートン。私も、ちょっと出かけてみたいです。しばらく、村のみんなの様子も見ていないですし、子羊がたくさん生まれたと聞いていますから、それも見たいですし……」
ミミが住んでいる村の人々は、フィオリーナの存在を知っており、とても丁重に扱っているし、困ったことがあれば助け合う関係だと、キースもエドワードから聞いていた。
遠出というほどの距離ではないし、エドワードが残していった護衛たちは、今も屋敷の周辺を見回っている。
ミミが村へ行き来するときにも、陰ながら付き添っているぐらいだから、フィオリーナが出かけるとなれば、必ず護衛するよう言い付かっているに違いない。
キースは、フィオリーナの黒い瞳が、期待と喜びに輝いている様を見て、苦笑した。
「昼間なら、ちょっとぐらい足を延してもいいんじゃないか?」
キースも、村の様子を見てみたいという好奇心がある。
「ね!いいでしょ?」
ミミとフィオリーナにじっと見つめられ、マートンは渋い顔をしていたものの、仕方がないというように、頷いた。
「日が暮れる前に戻るという条件付きなら……」
「やった!」
ミミは、飛び上がってフィオリーナに抱きつく。
「フィオ様は、いつものドレスじゃなくって、あたしみたいな格好をしなくちゃね!」
そうと決まれば早速準備する必要があると、ミミはフィオリーナを引きずるようにして飛び出していく。
「やれやれ……まったく、あのおてんば……」
サラは、淑やかな落ち着きなどというものが、ミミに備わる日は来ないだろうと、ため息をつく。
「跳ねっ返りが好きだという男もいるだろ。今にも死にそうな顔をしているよりは、ピンピンしている方がいいに決まっている」
キース自身、気取った淑やかな貴婦人が魅力的だとは少しも思わない。
「そりゃそうだろうけどさ。でも、まぁ……女ってのは、恋をすると変わるからねぇ。あんなミミでも、好きな男が出来れば、嫌でもしとやかになるだろうね」
豪快な笑い声を上げるサラに、キースは例外が目の前にいるのではと思ったが、それを口に出すほど命知らずではない。
「それは、フィオ様も例外じゃないだろうけどね」
あれ以上、引っ込み思案になったフィオリーナなど想像も着かないと首を捻ったキースに、サラはなぜかため息をついた。
「本当に……同じ名前ってだけだからねぇ……。あんたも、口を開かず、行儀良くしていれば、それなりに貴族のお坊ちゃんに見えるのにさ」
それは貶しているのだろうか。
キースは、複雑な面持ちでサラを見やる。
「フィオ様の憧れの騎士様ってのは、どんな男なのか、一度でいいから拝んでみたいものだよ」
それは自分だとは言えず、キースは何となく気まずい思いをしながら、頭を掻く。
「あばたもえくぼって言うからな。実際は、大した男じゃないだろ」
「あんたが言うんじゃない!あっちは、正真正銘の騎士で、英雄だよっ!大したことないなんて、あるわけないだろっ!」
物凄い剣幕でサラに怒られ、キースは首を竦めた。
「まったく!よく考えてから物をお言い!相手がフィオ様だから、そんな口調でも怒ったりしないが、普通のご令嬢なら、今頃あんたは不敬罪で打ち首だよっ!」
余程フィオリーナよりサラの方が恐い。
キースは、これ以上ガミガミ怒鳴られたくないと、唇を引き結ぶ。
その様子を見ていたマートンは、ため息をついた。
「キース。おまえは、口は災いの元という言葉を学ぶべきだな」
「キースっ!準備出来たわよっ!」
丁度そこへ、ミミとフィオリーナが戻って来たのをいいことに、キースは素早く立ち上がった。
「じゃぁ、ちょっと出かけてくる。残りの仕事は後でやるからな、マートン!」
ミミと姉妹のような格好のフィオリーナを、良く似合っていると褒めてやりながら、さっさと出かけようとその背を促す。
「キースっ!くれぐれも、危ない真似は……」
「わかっている!」
マートンの叫びに、負けじと怒鳴り返し、キースはフィオリーナに片目を瞑って見せた。「遊びに、多少の危険は付き物だろ」
ミミとフィオリーナを馬に乗せ、自分はそれを引きながら、キースは村へと続く道をのんびりと歩きながら辺りを見回した。
館から村までは、本当に散歩とも言えないほどの距離しかない。
ミミの説明では、農耕と牧羊で生計を立てているものが殆どだという村では、春の祭りは豊作を願い、実を結ぶという意味もあって、男女の出会いの場でもあるという。
その証拠に、周辺の小さな村からも若者たちが来ていて、村の中心にある広場では、陽気な歌や踊りが繰り広げられ、なかなかの賑わいだ。
広場の周囲には焼き菓子などを売る店もあり、いい匂いが漂っている。
「結構な人だな」
キースは、予想以上の人出に少し驚きながら、周辺をそれとなく見回し、エドワードの手下の者たちがちらほら見えるのを確認した。
「でも、秋の祭りの方が、もっと人がたくさん来ます」
収穫を祝う秋の祭りには、安く売られる農作物目当てに、王都からも人が来るのだとフィオリーナは説明する。
「それでも、王都の祭りよりは少ないですけど…」
当たり前だろうというように見下ろしたキースに、フィオリーナは笑みを返す。
フィオリーナは、一応、あまり目立たないように村の娘たちが被るようなフードを被っているが、その澄んだ黒い瞳は印象的だ。
何となく出会った時のことを思い出したキースは、一応フィオリーナに念を押した。
「迷子にならないでくれよ?」
フィオリーナも、今は二人だけの秘密である出会いを思い出したようで、神妙な顔で頷いた。
「はい」
「ね!フィオ様!あれ、食べましょ!」
ミミは、色気より食い気とばかりに、焼き菓子を売っている屋台へ向かって突進していく。
フィオリーナは苦笑しながら、その後を追うために歩き出すが、人波に飲まれそうになって、直ぐによろめく。
人波を縫って歩くという芸当が出来ないらしい様子に、こうやって迷子になったのかと納得したキースは、フィオリーナの手を取ると、しっかりと握り締めた。
「絶対に、離すなよ?」
フィオリーナは驚いたようにキースを振り仰いだものの、素直に頷いて手を預けた。
ミミは、既に焼きたての黄金色のパイを手にしており、その香ばしい匂いにうっとりしている。
「キース!御代はよろしくね」
「はぁっ!?」
自分は財布役もこなすのかと、驚くキースに、フィオリーナはくすくすと笑う。
「後でマートンに要求すれば、払ってくれます」
「当たり前だ。なんだって、俺がこの子ブタに餌を買い与えなきゃならないんだ」
「子ブタ?」
きょとんとしたフィオリーナは、それがミミのことだと分かると、吹き出した。
「ふがっ……ちょっとっ!……は、らひは、こ……ぶた…じゃないっ!」
頬いっぱいにパイを頬張っていたミミは、顔を真っ赤にして言い返す。
「ミミ。食べるか喋るかどっちかにしろ。行儀が悪いぞ」
屋台店主に代金を払いながら、キースはパイをもう一つ受け取り、フィオに渡したものの、甘い匂いに誘われて一口齧る。
「あっ!」
声を上げたフィオに、キースは一口ぐらい分けてくれてもいいだろうと、言い返す。
「い、いえ……その、別にあげるのが嫌なんじゃないです……」
フィオリーナは、消え入りそうな声で言い訳し、なぜか俯く。
「フィオもミミのように、リス並みに頬を膨らませて食べたいのか?だったら……」
「いえっ!一つで十分です!」
フィオリーナは激しく首を振り、手にしていたパイを小さな口で啄ばむ。
ミミが子ブタなら、こっちは小鳥かと、キースは思う。
「あっ!あっちに、焼いたルレルが売ってる!フィオ様っ!今度はあれにしましょ!」
「え、あ。ミミ……」
フィオリーナは、とてもミミの勢いにはついていけないと、ため息をつく。
「あいつの懐が心もとなくなるまで、放っておけばいい。どうせ村人たちはミミを知っているんだろう?代金を踏み倒したりは出来ないだろ」
ミミに合わせるのではなく、フィオリーナが楽しみたいように楽しめばいいのだと、キースは広場を見渡す。
あちこちで踊りの輪が出来ているし、大道芸で火を噴いたりしている者もいる。
屋台は食べ物を売っているものだけではなく、服や装飾品を扱っているところもある。
「フィオは、何をしたい?」
キースが問うと、フィオリーナはためらいがちではあるが、珍しい置物や装飾品を並べている店を示した。
その店には、南方や西方、はたまた海の向こうからやって来たという、何に使うのか皆目見当もつかない、不可思議な品々が並んでいる。
きらびやかな装飾品よりも奇怪な置物の方が、フィオリーナの興味をそそるらしい。
フィオリーナは、不可思議な物たちをしばらく眺めた後、ある物に興味を示した。
「これは何ですか?」
きらびやかな貝や石が埋め込まれた短剣ほどの長さの筒状のものを不思議そうに手に取り、フィオリーナは店主に尋ねた。
「覗いてごらん」
御伽噺の魔女ばりに、怪しげな風貌の老女は、歯のない口をにたりと笑みの形に曲げ、金細工で覆われた筒の上部の穴から中を覗けと示す。
「覗く?」
何か出てくるのではないかと、ビクビクしながら顔を近づけるフィオに、キースはいたずら心が抑えきれず、躊躇いがちに顔を寄せたフィオの背をいきなり脅かした。
「わっ!」
「きゃっ!」
驚いて危うく筒を取り落としかけたフィオは、胸を抑えてキースを振り返ると、きっと眉を吊り上げた。
「キース!何をするんですかっ!びっくりしたでしょうっ!」
心臓が口から飛び出そうだと顔に書いてあるフィオを見て、キースは笑い転げる。
「そんなに恐がる必要なんかないのに。それは、万華鏡だ」
「万華鏡?」
「北方の国では、美しい鏡が作られている。筒の内側に、鏡を貼って、その中に色んな石や砂などを入れて美しい紋様が見られるようにしてあるんだ」
呪いの道具じゃないのかと、フィオリーナは瞬きし、筒を覗き込んで歓声を上げた。
「凄い!とっても綺麗ですね!」
喜んで覗き込んでいるフィオリーナに、老女は乾いた笑い声を上げる。
値段はいくらだと仕草で問うキースに、指を三つ立てたが、あまりに喜ぶフィオリーナを見て、二つに減らす。
代金を払ったキースは、フィオリーナが覗き込んでいる方とは逆側の筒の端を手で覆った。
「あっ……見えない…」
驚いて顔を離したフィオリーナは、キースが手で覆っているのに気付くとむっとしたように唇を尖らせた。
「何をしたんです?キース?」
「これは、光がないと見えない。覗く方と逆側に、採光のための穴があるんだ」
「そうなんですか?」
フィオリーナは、筒を上にしたり下にしたりと、不思議でたまらないという様子だ。
子供並みの好奇心に、キースは苦笑を堪えきれない。
「そんなに気に入ったなら、持って帰ればいい」
「えっ?!いいんですかっ?!でも、その……代金は……お高いんでしょう?」
「あんたの恋人に、もうお代は貰ったよ」
老婆の言葉に、フィオリーナはキースを見上げ、何故か頬を赤くすると消え入りそうな声で否定した。
「こ、いびとじゃ、ありません」
「あらあ。そうなのかい。じゃ、あたしが言い寄ってもいいんだね?」
乾いた笑い声を上げる老婆に、キースは勘弁してくれと言い返す。
「ま、年寄りのおせっかいだけど、あんたたちは恋人同士だってことにしておくんだね。さもないと、村中の娘っ子や若造が殺到する」
「そ、それは……その……私は大丈夫ですけど……」
フィオリーナは、キースが迷惑ではないだろうかと、上目遣いに見上げる。
「いちいち確かめに来る野暮なヤツは、そうそういない」
「まぁ、それはそうさね……でも、お似合いだ。まるで、運命の相手というぐらいに」
老婆の笑みに、何かが含まれているような気がして、キースは何者だというように睨み返す。
「そう恐い顔をしなさんな。ラーゼルの英雄が台無しだ。黙っていりゃ、あたし好みのいい男だってのに」
自分の正体を知っている老婆に、キースは思わず剣の柄へ手を伸ばしかけたが、鋭い灰色の瞳が止めておけというように冷たく制する。
「老いぼれ相手に、物騒なものを振り回そうってのかい?あたしゃ、しがない占い師だよ」
老婆は、乾いた笑い声を上げながら、フィオリーナへ何かを握り締めた手を差し出した。
その手の甲に、青い紋様があると気づいたキースは、その印が水であり、表す意味が導きであると気付く。
「商品を買ってくれた御礼に、一つ占いをしてやろう。あんたたち二人の絆が、決して切れないものならば、ここから白い物が生まれる。だが、もしもあんたたちの絆が、一時のものに過ぎなければ、ここから黒い物が生まれる。さぁ。手をお出し、お姫様」
「フィオ」
シンファースの一族であろう老婆ではあるが、得体の知れない相手とこれ以上係わるなと止めようとしたキースだが、フィオリーナはすっと手を差し出した。
「キース。ただの占いです」
心配いらないと微笑んだフィオリーナは、真っ直ぐな眼差しで老婆を見据える。
「さぁ、見せて下さい。私たちの運命を」
「度胸があるね。さすがは…………の娘だ」
老婆の声は、節くれだった手から生まれた羽音で掻き消される。
「きゃっ!」
フィオリーナの悲鳴に、慌ててその身体を引き寄せたキースは、老婆の手から生まれた白い塊が羽ばたき、舞い上がるのを見た。
それは、真っ白な鳥だった。
「あんたはもう、お姫様のものだってことさ。キースランド」
まるで耳元で囁くように、はっきりと聞こえた声。
舞い落ちる白い羽の中、キースはたった今まで目の前にいたはずの老婆が消え、代わりに冴えない顔をした若者が、つまらなさそうに座っているのを見た。
「あのさぁ。さっきからぼーっと立ってるけど、何か買ってくれんの?」
「え、あ、いや…」
キースは、今まで自分たちは誰と会話をしていたのだと、青ざめながら辺りを見回すが、それらしき人影は無い。
「な……にが、あったんですか…?」
フィオリーナも、茫然としてキースを見上げる。
「わからん。南の方には、妖術を操る者もいると聞くが…」
「でも……悪い人じゃなさそうでした」
確かに、悪意や敵意は感じられなかったとキースも頷く。
「それに……白でした」
そう言って微笑んだフィオリーナに、白い鳩のことかと問い返そうとしたキースは、差し出された掌に、白く輝く石のついた耳飾りを見た。
「私は着けられないので、キースに差し上げます」
そんな得体の知れないものを身に着けるのはどうかと思わなくもなかったが、フィオリーナの満面の笑みを見て、断れるはずも無い。
「あ、ああ。ありがとう」
「今、着けてみてもいいですか?」
まるで、後でこっそり捨てようと思ったキースの心を見透かしたように、フィオリーナは耳飾りを摘んでみせる。
「え、いや…」
「さっさと着けちゃってくれない?結構、邪魔」
店番の若者は、自分は可愛い娘の相手も出来ずに店番で腐っているのだから、いちゃつくのもいい加減にしろと文句を言う。
「ええと、フィオ。後でもいいんじゃ……」
「駄目です!失くしてしまったら大変です!」
フィオリーナには、一度決めたら引かない強情さがあるということは、短い付き合いでも十分知っている。
キースは、渋々折れ、フィオリーナの身長に合わせてやるために、跪いた。
フィオリーナは、キースの耳に左右対称に四つずつある穴のうち、空いている一つを選ぶと、細い指で白く輝く石を嵌めた。
くすぐったくて、キースは何とか身じろぎしないよう堪えるのに、妙な汗が出そうだった。
「出来ました!素敵です!きっと、よく効くお守りのような気がします」
石に触れた感じが、とても温かくて優しかったと嬉しそうに述べるフィオリーナだったが、キースはもう引き上げた方がいいのではないかと思う。
たとえ悪意のない相手であっても、自分のこと、そしてフィオリーナのことを知っているなど、油断ならない。
だが、フィオリーナの方はたった今経験した不思議な出来事も、それを引き起こした不審極まりない老婆の正体もどうでもいいようで、怯える素振りすら見せない。
「あのな、フィオ…」
少しは警戒心というものを持ってはどうかと言いかけたキースに対し、次は何をしようかと笑う。
「今、私のしたいことをしたので、次はキースの番ですね!」
「…フィオ」
状況が分かっているのかとため息をついたキースは、ふと人波の向こうから自分たちを呼ぶ声に気付き、そこに手を振るミミを見つけた。
「ミミが呼んでいるな」
「あら、本当ですね」
フィオリーナは、無視するわけにもいくまいと、手を振り返す。
「キースっ!ちょっと来てっ!」
「キースに用があるんですね?」
「そうらしいな」
フィオリーナの手を引いて、広場を横切ったキースは、ミミが手にしていたものをいきなり押し付けられ、目を見開いた。
「何だ?これは」
「弓と矢でしょ」
ミミが押し付けたのは、簡単なつくりではあるが丈夫そうな弓と、荒削りではあるが、鋭い鏃を備えた長い矢だ。
広場の端の一角には、的が三つ並べてあり、その周囲には野次馬が群がっている。
「真ん中に当てられたら、いいものが貰えるんだって!」
村の青年たちが考えた遊び半分の腕試しらしい。
農耕と牧羊を生業にしているものの、生活のために狩猟もする村人たちは、弓の扱いに長けており、その腕前は男らしさの象徴でもあるのだと、ミミは説明した。
「で、賞品のいいものっていうのは、何なんだ?」
「向こう一年分の野菜」
これで、館の食卓がもうちょっと豊かになると、ミミは自分の思いつきを褒めてくれと胸を張る。
「でも……そういえばあんた、弓引けるの?」
傭兵だからと言って、何でも出来るわけじゃないのかもしれないと、ようやく思い至ったらしいミミが、不安そうに尋ねる。
「まぁ……剣よりは、不得手だな」
実戦では、遠方から敵を射る役割を任されることなどないため、キースが弓を扱うのは付き合いでする狩猟のときか、訓練の時だけだった。
「え。じゃ……私がやろうかな?」
「おい。おまえよりはマシに決まっている」
ミミの腕力では、的まで届かないだろう。
キースの言葉に、ミミはむっとしたように顎を上げる。
「何よ!あんたが自信なさそうだから、言っただけじゃない!」
「そうか。それは悪かったな、気を遣わせて。おまえが的になってくれれば、外す気がしないんだがな?ミミ。弓は、獲物を狩るために使うものだしな、子ブタ」
「キースっ!」
顔を真っ赤にして掴みかかるミミをあしらいながら、キースは笑ってやり取りを眺めていた若者に、何本勝負なのだと問う。
「五本。その内三本が中心に当たればいい。三つの的のうち、全部を使ってもいいし、一つでもいい」
的の中心の円は、物理的には十分複数の矢が刺さる余地がある。
だが、一つの的の中心に複数の矢を射ることは難しい。
「賞品は、向こう一年分の野菜だけか?」
それじゃ色気がないだろうと笑うキースに、若者はにやりと笑い返す。
「美女から祝福のキスが送られる」
「そうでなきゃ、誰もやる気なんか起きないよな」
キースは、ミミを引き剥がすとフィオリーナの傍を絶対に離れるなと、言い聞かせた。
「フィオから少しでも離れたら、おまえを射るからな、子ブタ」
「きーっ!あたしは子ブタじゃないっ!」
ミミの喚き声を背に、キースは無造作に縄で引かれた線の前に立つ。
的までの距離は、並みの男なら十分矢を届かせることが出来るものだ。
「見事的を射たら、望む美女から祝福のキスがもらえるぞっ!」
「頑張れっ!」
「私のキスを受け取ってっ!」
村人たちの無責任な歓声を受けながら、キースは弓の強度を確かめるように弦を引く。
多少の加減が必要なことを確かめ、一度大きく息を吐くと的へ意識を集中させ、矢を番えて息を吸い込むと一気に弓を引き絞り、素早く放つ。
観客は、一瞬何が起きたのか分からず、唖然としていたが、的を見やってその中心に突き刺さる矢を見て、歓声を上げた。
「一本目、命中っ!」
確認役の若者の声で、歓声が一段と上がる。
感覚を思い出したキースは続けて二の矢を番えると無造作に放つ。
人々は、二本目がどの的にも刺さっていないのを見て、ざわめく。
だが、確認役の青年が信じられないというように首を振って、一本目が刺さっていた場所を示した。
「二本目、命中っ!」
二本目は、一本目の矢を切り裂くようにして的へ刺さっている。
「キースっ!凄いっ!」
ミミは、フィオリーナと抱き合って喜んでいる。
嬉しそうに笑っているフィオリーナを見られただけでも、十分だ。
キースは、三本目の矢を番えると、同じ場所へと放つ。
寸分たがわず、放たれた矢は二本目の矢を切り裂いて、全く同じ場所へと突き刺さった。
「三本目っ!命中っ!」
大きな歓声が上がり、フィオリーナを引きずったミミが飛びついて来るのを受け止めたキースに、祝福の花が降り注ぐ。
「あんたって、見かけによらず、本当に凄いのねっ!」
「見かけ通りに、凄いんだ」
「どっちでもいいじゃない!これで、野菜一年分よ!」
「……でも、本当は……村の人たちで分け合う方がいいんじゃ……」
フィオリーナは自分たちのような者が独り占めするのは気が引けると、言い出す。
「勝負は勝負です!フィオ様!それに、一年分の野菜というのは、一人分のことですから大したことありません。キースは、自分で自分の食い扶持を稼いだだけですから!今度は、腕相撲にしましょう!あれで、子羊を一頭もらえます!」
既に次を決めているミミがキースを引きずって行こうとするのを、若者たちが引きとめた。
「まだ美女の祝福を受けてないだろっ!」
「そうだ、そうだっ!」
野次馬たちが、からかい、はやし立てる声を浴びせかける。
「誰がいい?選り取りみどりだぜ?」
若者たちは、キースの耳に、あれこれと美しい村娘の名を囁きかける。
「ちょっとっ!止めなさいよっ!キースはフィオ様のものなんだからっ!」
ミミの叫びに、一瞬あたりが静まり返る。
「……ミミ……」
フィオリーナは、このまま消え入りたいという様子で俯き、ミミの袖を引く。
「祝福のキスは、フィオ様からに決まってるでしょ!」
そんなフィオリーナの様子にもまるでお構いなしで、ミミはキースへフィオリーナを押し付ける。
「さっ!早くしないと、子羊がなくなっちゃいます!」
「ミミっ!」
フィオリーナは、絶対に無理だと必死に訴えるのだが、ミミにはまるで通用しない。
キースは、このまま晒し者になっているのもどうかと思い、耳まで赤くなって俯いているフィオリーナに、顔を上げろと囁いた。
「キ、キース……私にはとっても無理……こ、こんな人がいっぱいいるのに……あ、あの、でもその……祝福したくないわけじゃなくて……だから、あのう……」
「わかっている。お子様には、ちょと無理だろ」
世間一般の結婚前の男女がどのようなことをしているのか知ったら、フィオリーナは卒倒するのではないかと思いつつ、キースは騒ぐ人々に落ち着けと手で示す。
「美女からじゃなく、美男からのキスでもいいだろ?」
「はい?」
何のことだと首を傾げたフィオリーナが気付く前に、キースは屈みこむとその柔らかい頬に軽く触れた。
「よし。じゃ、次は子羊だな」
何が起きたのかわからない様子でキースを見上げていたフィオリーナは、突然上がった歓声と野次に、あっという間に頬を染めて俯く。
ミミも、茫然としていたが、キースがさっさとここを離れるぞと言い、ようやく我に返る。
「あ、ああ。次はあっちよ!」
人ごみの中へ突入したミミを追って歩き出そうとしたキースは、立ち尽くすフィオリーナを呼ぶ。
「フィオ」
「えっ、あっ!」
慌てて歩き出そうとしたフィオリーナに、キースは手を差し出す。
しばらく躊躇った後、フィオリーナはおずおずとその小さな手を差し出す。
「ちょっとした挨拶だと思え。あんなのは、キスの内に入らない」
夜眠る前に子供にするようなものだと、キースが笑うと、フィオリーナはなにやら複雑そうな顔をしたが、わかったというように頷いた。
「でも……エドワードにはくれぐれも内緒にしてくれよ?さもないと、俺はクビになる」
どうせ噂話は直ぐにエドワードの耳に入るだろうが、ミミには後で焼き菓子でも買ってやって、口止めしようと決める。
「わかりました……エディには内緒にします。キースが居なくなると、困ります」
神妙な面持ちでフィオリーナは頷く。
「あの……」
「ん?何だ?」
腕相撲をしている男たちを取り囲む人の輪の中に、ミミを探していたキースは、フィオリーナの呟きに上の空で返事をする。
「いつも……ああいうことをするんですか?」
「は?」
何を言っているのか理解できず問い返したキースに、フィオリーナは非常に言い難いというように視線を彷徨わせていたが、意を決したように顔を上げた。
「あのようなキスを、誰にでも、いつでもするのですか?」
「え………いや。そういうわけではないが……?」
「そ、その……私には良く分からないんですが、恋人同士がするキスと、何が違うんでしょうか?」
まさか真顔でそんなことを訊かれるとは思っておらず、キースはやや唖然としてフィオリーナをまじまじと見つめた。
「場所が違うんでしょうか?」
「え……いや、そういう問題ではないんだが……」
場所というよりも、中身だと言い掛けたキースは、どういう中身だと突っ込まれたら答えようがないと思い至り、言葉に詰まる。
それを見たフィオリーナは、慌てて謝り出す。
「ご、ごめんなさいっ!こんなこと訊くなんて、はしたないってマートンに怒られますよねっ?!あの、そのっ、き、気にしないで下さいっ!忘れて下さいっ!」
「……上手く説明は出来ないが、違うのは気持ちだろうな。本当に好きな相手なら、どこにどんなキスをしようと、特別に感じるものだろう」
フィオリーナは、黒い瞳を大きく見開いてキースを見つめていたが、何かを理解したというように頷いた。
「そうですね。好きな人となら……どんなことでも、特別に感じるものですよね」