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白き狼は、森の夢を見る  作者: 唯純 楽
7/16

与えられしものは、呪いではなく祝福

 荒らされた館の片付けや、死体の始末などは、エドワードが連れて来た者たちがやるというので、キースは軽く仮眠を取ってから、昼過ぎに起き出した。

 まるで何事もなかったかのように片付けられた館では、既に起き出したジェファスが久しぶりに大人数の料理を作ると張り切っており、いい匂いが漂っていた。

 あの惨劇にも動じないところを見ると、慣れているようだ。


「美味そうな匂いだな?」


 厨房を覗いたキースに、サラが玉杓子を振り上げる。


「つまみ食いは許さないよっ!」


 何でわかったのだと驚くキースに、サラは舌を鳴らして首を振る。


「エディがあんたを雇うって決めたようだけど、同じ奉公人になるんなら、きっちりこの館の規則は守って貰うからね!」


 この館の規則というよりは、サラの規則では、と思いながらもキースはわかったと肩を竦めた。


「準備が出来るまで、大人しく席でお待ちっ!」


 厳しく言いつけられ、キースはすごすごと食堂へ戻る。


「行儀良く待つことも出来ないのか……まったく…」


 低い呻き声と共に食堂のドアを開けて入ってきたのは、マートンだ。

 未だ腰が痛いようで、壁を伝うようにしてどうにか食卓へたどり着くと、ため息とともに椅子へ腰をおろす。


「無理に歩き回らない方がいいんじゃないか?」


 キースが、大人しくしていればいいものをと言うと、マートンはぎっと睨み返す。


「私が寝ていては、色んなことが滞る」


「そんなに急ぐ必要のある仕事があるようには思えないけどな?」


「馬鹿者。毎日きっちりこなしていかなくては、煩雑な仕事が山のように溜まる」


 人が暮らす以上、しかも決して小さくはない館を維持する以上、様々な業務があるのだとマートンは懐から一枚の紙を取り出し、キースへ差し出した。

そこには、箇条書きで様々なことが書き連ねてある。


「ここに、とりあえずしばらく任せたい仕事を書いた。まず……絶対に必要なのは、薪割りだ。すべての燃料は、薪で賄っている。買い付けはミミが村でしているから、運ばれて来た木材を使えるように細かく割る」


「はぁ……」


 キースは、男手がない館で、マートンは老体に鞭打って、何でもやらなくてはならなかったのだろうかと、やや同情した。


「それから……文字は読めるだろうな?」


「え、ああ」


「毎日、ミミが食材を薪と一緒に村から運んでくるから、その分の支払い依頼書を用意し、村へ帰るミミに渡して城へ送らせる。これは、絶対に遅れてはならない。それから、庭の手入れに、馬の世話。ランディの毛並みの手入れと、時々ある村の人々からの相談事への対処、二日に一度のカーライル様への近況報告、朝晩の屋敷周辺の見回りと……」


「おい……ちょっと待て。俺は、一人しかいないんだぞ?全部出来るわけがないだろう?」


 どれ程こき使う気だと、目を見開くキースに、マートンはやって当然だという表情で睨み返す。


「それから、サラの肩揉み……サラやジェファスが忙しい時は、仕事を手伝うこと。それから……部屋の掃除は、ミミと分担すること……あとは……」


「もういい。とにかく、何でもやれということだろう?今から、そんなに盛りだくさんの内容を説明されても、やる気をなくすだけだ。後で、時間軸に基づいた優先順位を考慮した上で、必要最小限の仕事だけを命じてくれ。あれこれ言われても、要領を得ないし、効率が悪い」


 マートンは、明確なキースの指示に、やや驚いた顔をしたもののわかったと頷いた。


「まずは、マートンの一日の仕事の流れを教えてくれればいい。その上で、時々必要な仕事を入れていくようにすればいいだろ?食事の前に、気が滅入るような話はしたくない」


 運ばれて来たいい匂いのスープが冷めるに任せるのは忍びない。

 ジェファスも、温かいものは温かい内に食べるべきだと大きく頷く。


「これでもまだ半分程度だ。きっちり働かないと、報酬から差し引くようエドワードに、申し送る」


 マートンの脅し文句も、呻きながらでは説得力がない。


「わかった、わかった。マートンとあの小うるさいエドワードの分と、二人分働けってことだろ?それなりの見返りがあるなら、ちゃんとやるさ」


 言いながら、運ばれて来たスープに手をつけようとしたキースだが、その手をサラが叩く。


「お待ちっ!フィオ様が来てないだろう?」


 全員揃うまで待てというのかと、キースが眉を引き上げたとき、エドワードとミミが現れた。

 キースは、何ら疲れた様子もないエドワードに驚いた。

 エドワードは、館の片づけを指示しながら、周辺の警護、逃げおおせた賊へ追っ手を放つなど、忙しく立ち回っており、昨夜も一睡もしていないはずなのに、その顔には疲れなど微塵も見えない。

 超人的な体力と気力の持ち主なのだろうと、キースは素直に感心した。


「待たせて悪い、サラ」


「ごめんね!ちょっと色々あったもんだからさ」


 ミミは遅れたことを詫びながら、呻いているマートンに、大人しく寝込んでいればいいものをと、冷たく言う。


「フィオ様は?」


 サラが眉根を寄せて顔をしかめると、席についたエドワードは、首を振る。


「そうかい……やっぱり、相当に恐い思いをなさっただろうからねぇ……」


「お一人で大丈夫なのか?」


 マートンの言葉に、ミミは頷く。


「ランディが一緒だから、大丈夫だって」


 確かに賢い犬ではあるが、部屋の中へ入れるとはと、キースが驚いた顔をすると、エドワードはマートンがキースに手渡した紙を取り上げて一瞥しながら、理由を説明した。


「ランディは、フィオ様が生まれた時からずっと一緒にいる。人間よりも、余程頼りになる存在だ」


「ってことは、結構年だろう?それとも……純粋な犬じゃないのか?どことなく、狼の匂いもするが……」


 とても老犬に見えないのは、もしかしたら別の種族との混血だからなのかとキースが問うと、エドワードはやや驚いたような表情で、頷いた。


「ああ。その通りだ。森林狼の血を引いている」


「なるほどな。賢いのも、そのせいか」


 南の密林に棲む狼は、過酷な環境で生きるために、様々な能力を持つ。

 嗅覚、聴覚、視力共に、並みの犬を上回り、強靭な肉体と狡猾とも言われるほどの知能を持ち、常に人間の裏をかく。

 生態系の頂点に位置するのは人間ではないのだと言わんばかりの存在は、南の人々には神として畏れられ、崇められてもいる。


「だが、たとえ混血でも人に馴れるのは珍しいだろ。ランディも、余程フィオが気に入っているんだろうな」


「フィオ様を嫌う動物はいないもの」


 ミミの言葉に、マートンはその通りだと大きく頷く。


「フィオ様は、実にお優しいからな」


「でも、あれこれ拾ってくるのは困りものだけど」


 ミミは、あの雛鳥の餌を捕まえるために、身の毛のよだつ思いをしたと、キースを睨んだ。


「キース。あんた、しばらくここで働くんでしょ?これからは、あんたが餌を捕まえてよ!あんたが、フィオ様に連れて帰ったらどうかって言ったんだから、責任取ってよね」


「ああ。それも書き加えなくてはならないな」


 マートンは、ペンを取り出すと、エドワードから紙を取り上げ、更に仕事を一つ書き加えた。


「マートン。本気で、キースに全部やらせる気か?」


 エドワードは、無理だろうと首を振る。


「当たり前だ。ただ、のんびりゴロゴロさせるために雇ったのか?昨夜のような護衛らしい仕事など、毎日あるわけじゃない。別の仕事は必要だ」


「それはそうだが……」


 エドワードは、真面目にやる気があるのかと、キースに目だけで問い掛ける。

 必要であれば、どんなことでもやるべきだというのが、戦場での掟だ。

 キースは、別に薪割りをしたり、ランディの毛並みを整えるのが嫌だとは思わないと、肩を竦めて応えた。


「確かに、キースは体力もあるし、教養も十分だ。マートンの右腕になるに相応しいヤツだとは思うが……こき使うのは、程ほどにしておいた方がいい。いざという時役に立たなくては困るだろう?」


「ふん。これしきで」


 マートンは、これぐらい片手間に片付けられるはずだと憤慨し、その拍子に腰を押さえて呻いた。


「こういう状況だ。しばらくは忙しい思いをすると思うが、よろしく頼む」


 エドワードは、出来ないとは言わないだろうという視線を送ってくる。

 キースは、食えないヤツだと睨み返し、テーブルの上に置かれた籠から、焼きたての香ばしいパンをつまむとかじりついた。

 その途端に、自然と頬が緩む。

 高額な報酬はともかくとして、毎日美味しい食事が食べられるだけでも幸せだ。


「こらっ!」


 行儀が悪いと叱るサラに首を竦めて、キースはお盆の上に乗せた料理を受け取ったミミに首を傾げる。

 どうやらフィオリーナのために運ぶらしい。


「フィオは、ちゃんと起きているのか?」


「うん。でも、出て来たくないんだと思う。あの雛にはちゃんと餌をあげてるし、ランディには話しかけているから、全くもって落ち込んでいるわけじゃないと思うんだけど……多分、原因は……」


 ミミの視線が自分へ向けられたのを見て、キースは自分のせいなのかと、驚いて目を見開いた。


「何だよ?俺のせいなのか?」


 自分では、フィオリーナを危機から救ったと思っていたキースは、まさか自分のせいでフィオリーナが部屋から出られないとは思っておらず、心底驚き、そしてもしかして気付かぬ内に何かしでかしたのかと、やや不安になる。


「……色々と、事情があるのだ」


 マートンは、一口では説明出来ないというようにため息をつく。

 キースは、その事情とやらに思い当たる節があった。


「もしかして……見られたくないものを、俺が見たからか?」


 昨夜のフィオリーナの取り乱しようは、尋常ではなかった。

 あれは、暴漢に襲われたからという理由だけではなかったと、思っていた。

 エドワードは、キースの窺うような眼差しに、一瞬眉を吊り上げたが、隠しても無駄と思ったのだろう。渋面のまま頷いた。


「フィオ様は、知らない相手に素顔を見られるのをとても嫌がる」


「でも……あれは、痣や怪我の痕じゃないだろ?」


 暗闇の中ではあったが、キースはフィオリーナが必死で隠そうとしたものは、醜いものではないだろうと、見当がついていた。


「ああ。だが、フィオ様はとても気にしている」


 だから、見知らぬ自分がいるから、館の中でも顔を覆うようにしていたのかと思い、キースは、そういう問題は出来る限り早く解決すべきだろうと決心すると立ち上がった。

 フィオリーナに刻まれたものが何であるのか、はっきり知っておきたいという気持ちもある。


「ミミ、食事は運ばなくていいぞ」


 フィオリーナのところへ食事を運ぼうと用意していたミミへそう言い置いて、キースは食堂を出た。

 何をする気だと叫ぶマートンの声と、慌ててついて来るミミの足音を背に、キースは一階の客間へと移ったフィオリーナの部屋まで辿り着いた。


「や、ちょっと待ちなさいよっ!キースっ!」


 ミミが止めるより先に、ドアをノックする。


「フィオ!起きているんだろう?入るぞ」


 返事を待たずにドアを開け放ったキースは、寝台の上にいたフィオリーナが、慌てて毛布に包まるのを目撃する。

 寝台の上にいたランディは、吠えるでもなくキースの足元へ駆け寄ると、よく来てくれたというように、嬉しそうに尾を振っている。


「起きているなら、食堂へ来るべきだろう?皆、心配している」


「キースっ!」


 何とか引きとめようとしがみ付くミミを引きずったまま、キースは寝台へと歩み寄ると、無造作に毛布の塊となっているフィオリーナを掴み、そのまま担ぎ上げた。


「きゃっ!」


「フィオ様っ!」


 相変わらず、重さなど感じられないフィオリーナの身体を肩に、背に掴まるミミを引きずったまま、キースは食堂へと戻る。


「わ!フィオ様っ!?」


 いきなり現れた毛布の塊に、サラはぎょっとして危うく皿を取り落としかける。


「キースっ!おまえは何ということを……」


 マートンは、無礼にも程があると叫び、青ざめ、倒れそうな様相だ。

 エドワードに至っては、怒りを通り越して呆然としている。


「具合が悪くないなら、いつまでも寝台にいる必要はないだろ」


 キースは、担いでいたフィオリーナを下ろすと、その毛布を引き剥がそうとした。

 だが、フィオリーナは固くそれを握り締めて離そうとしない。


「離せよ、フィオ。いつまでもそのままでいる気か?」


 頭からすっぽり毛布を被ったフィオリーナは、目一杯の力で抵抗する。


「い……や……」


「キースっ!無理強いしないでよっ!」


 ミミは、キースをフィオリーナから引き剥がそうと、腕にしがみ付く。


「おまえこそ邪魔するな。ミミ」


「嫌だって言ってるでしょ!」


「そうだよ、キース。お止め!フィオ様を苛めるんじゃない!」


 サラの援護を受け、ミミはキースの足を蹴りつける。

 顔をしかめながらも、キースはミミを無視して容赦なくフィオリーナが被る毛布を引き剥がした。


「きゃっ!やっ!」


 フィオリーナは慌てて、キースの手から毛布を取り戻そうとする。


「かえし……てっ……!」


「フィオ。落ち着いて、話を聞け」


 キースは、フィオリーナの手を掴み、落ち着かせようとその耳に囁くが、フィオリーナは取り乱し、悲鳴を上げる。

 あまりの暴れように、キースはその背に腕を回すと、胸の中へと閉じ込めるようにして引き寄せた。


「あっ……い、いやぁっ!やぁっ!離してっ!」


 一瞬何が起きたのか分からず茫然としていたミミとサラが慌ててキースを取り押さえようとする。


「あんたっ!何をするんだいっ!」


「離しなさいよっ!」


「やっ!止めてっ!」


「キースっ!貴様っ!」


 ようやく我に返ったらしいエドワードが剣を引き抜きかけるのを見て、キースは一喝した。


「落ち着けっ!」


 一瞬、全員の動きが止まった中、キースはフィオリーナの顎を掴み、その右頬を露にする。


「ちゃんと見たいだけだ」


「い……や……」


 フィオリーナは唇を震わせ、その黒い睫を濡らして、力なく抵抗を続けようとするが、身動きすることも適わぬ状態に、ただ泣くばかりだ。

キースはしっかりと眺めた紋様が、自分が見当をつけた通りであることを確認して納得した。


「やっぱり、シンファースの紋様だな」


 キースはフィオリーナの頬を見つめて感嘆のため息をついた。


「相当な腕前の彫師が刻んだんだろう。花と鳥……太陽と……月、風に水か?」


 紋様には、それぞれ意味があり、その複雑さと繊細さは刻むものの腕にかかっている。

 フィオリーナの頬に描かれたものは、あらゆる自然界の恵みを凝縮したような実に美しく繊細なものなのだと説明しながら、キースはそれを指先でそっと辿る。


「これ程美しくて繊細な紋様は、見たことがない」


 だが、そんなキースの言葉に、フィオリーナはわけがわからないというように、瞬きを繰り返している。


「シンファースって……何ですか?」


 自分に刻まれた紋様の由来すら知らないのかとキースは驚いて、エドワードを見やる。

 エドワードの表情からは、何も伺い知ることは出来なかったが、今更隠すのも不自然だろうし、きちんと由来や意味を知れば、フィオリーナの劣等感も拭えるのではないかと思い、キースは手短にシンファースという一族について、自分が調べて知り得たことを説明した。


 南方の密林に暮らすシンファースという一族は、二十年ほど前に起きた戦乱で滅んでしまったが、自然から様々な力を受けるため、己の身に複雑で美しい紋様を刻む習慣があり、装身具と同じように、人々は様々な紋様をあらゆるところに刻んでいたという。

 その紋様によって、自然の力を自在に操ることも出来たらしいが、今では失われてしまった技であり、紋様を刻める彫師が生き残っているかどうかも分からない。

 だから、その紋様を持つ人を実際目にすることはとても稀なことだった。


「フィオの頬には、たくさんの紋様が刻まれているが、例えば花は美しさ、鳥は自由、太陽は生命力、月は精神力を現すと決まっているんだ。だから、たくさんの紋様は、ありとあらゆる幸福を願った印だな」 


 シンファースでは、親が子供にその未来を祝福する意味を込め、願いを込めて、意匠を選ぶというから、フィオリーナに刻まれた紋様の素晴らしさには、この意匠を選んだ人物の思いの深さが表れている。


 そう説明すると、フィオリーナは、黒い瞳を大きく見開いた。


「どう…して…」


 何故そんなことを知っているのかと問うフィオリーナに、キースは右腕の袖を捲り上げてみせた。


「俺も、同じものを持ってるからだ」


 子供の頃、町で出会った不思議な男が刻んだ紋様。

 いかさまのまじないだと思っていたキースだが、二年前、騎士になったばかりの頃、突然その紋様がはっきりと現れた。

 初めは、悪い病気かと思ったのだが、南方の戦場へ派遣されたとき、シンファースの末裔だと言う酒場の店主と知り合う機会があり、それが彼らの有する紋様であることを知った。

 以来、独自に書物を調べ、シンファースのことを知る人々から話を聞いたりしたのだと、キースはこれまで誰にも打ち明けたことのなかったことを、すっかり打ち明けてしまった。

 二年前のフィオリーナとの出会いも、その時感じた不思議な感覚も、今となってはシンファースの紋様に纏わる縁があったのだろうと思える。

 出会うべくして出会ったのだと、そう素直に信じることが出来る。

 この出会いにどんな意味があるのかは分からないが、少なくともフィオリーナの気持ちを和らげ、その苦しさを拭うことが出来るのなら、それだけでも十分出会った意味があるのだろうと思えた。


「俺の場合は、たまたま知り合った人物が勝手に刻んだんだが……狼の意匠は、戦いの勝利を意味するらしい。お陰で、今のところ無事に生き延びている」


 そのまじないの効果も既に薄れているのかもしれないと思いつつ、キースはまじまじと自分の腕を見つめるフィオリーナに微笑んだ。


「俺は、この紋様が気に入っているんだ。格好いいって言うやつも多いし、自分でもそう思う。フィオの紋様だって、俺は綺麗だと思うぞ。何も知らないものほど、とやかく言うものだ。特に、城の暇な貴族どもは、人のことを噂するのが仕事のようなものだからな」


 あんなヤツラのことなど気にするだけ時間の無駄だと、キースは肩を竦めた。

 フィオリーナの大きく見開いた黒い瞳から、一度は引いた涙が、再び溢れ出し、青い紋様の上を流れ落ちる。

 一筋流れ出した涙は、止め処なく流れ続ける。

 それを見ると、キースは、自分でもわけがわからぬ焦燥感のようなものに駆られて、とにかくフィオリーナに泣き止んで欲しくて、言葉を重ねた。


「なぁ、フィオ。こんなに綺麗なものを、どうして隠すんだ?勿体ないだろう?髪だって、もっとよく見えるように上げればいい。もしも、フィオを美しくないというヤツがいるなら、そいつはかなり目が悪いか、趣味が悪いに違いない」


 女性の容貌に関しては、それ程趣味は煩くないと自覚しているキースですら、フィオリーナの顔立ちが、間違いなく美しいということぐらいは、わかる。


「俺は、こんな風に、ちゃんとフィオの顔が見られる方がいい。それに……姫君の命令とあれば、無礼な輩を懲らしめるのも護衛の役目だ。とやかく言う奴がいたら、容赦なく叩きのめすと約束する」


 キースが片目を瞑って見せると、フィオリーナの頬がかすかに緩んだ。


「キースがいてくれるなら、とても……心強いです」


 素直なフィオリーナの言葉には、何の含みもなく、真っ直ぐにキースの心へ届く。

 溢れ出したフィオリーナの涙が止まり始めたのを見て、キースは濡れた頬を指で拭ってやる。


「じゃあ、少なくとも……この館にいる限り、素顔のままでいるよな?」


 キースの言葉に、フィオリーナは少し考え込んだものの、意を決したように頷いた。


「はい。キースの前では、隠したりしません」


 それでいいとキースが笑みを浮かべると、フィオリーナも微笑みを返す。

 ほんのりと、右腕が熱を帯びたように温かくなる。

 その温もりは、キースの心をも満たすようで、不思議と懐かしい安堵感が広がる。

 辺りの音が消え、目の前にいるフィオリーナとの間にある距離が消えてしまったかのような錯覚を覚えたとき、不意に冷たい声が響いた。


「見つめ合うのは、そこまでにおし」


 サラの声は、それ以上フィオリーナに近づくのは許さないという厳しさを滲ませている。


「ったく、馴れ馴れしくするんじゃない!身の程を弁えな!」


 キースの後ろ襟を引っつかんだサラは、そのまま引き倒すようにして椅子に座らせる。


「さ、皆もさっさと席についておくれ!」


 あっという間に、深刻な雰囲気も吹き飛ばすサラの威勢に、フィオリーナは目を丸くしている。

 キースは、ガミガミと煩いサラの小言を聞き流しながら、向かい合ったフィオリーナに目配せし、唇だけを動かして「サラが煩い」と訴える。

 吹き出しかけたフィオリーナに、サラは怪訝な顔をしたものの、即座にキースを睨みつけ、いきなり耳を引っ張り上げた。


「いっ!」


「まったく! 行儀よくしないと、食事は割り当たらないよっ!」


「わ、わかった! わかったから、離せよっ!い、痛いっ!」


 キースはなんとかサラの指を引き剥がそうともがく。


「ふん!」


 ひとしきりキースを懲らしめたサラは、肩を怒らせて厨房へ戻っていく。

 その様子を見ていたフィオリーナは、堪えきれないというように朗らかな声を上げて笑い出す。

 そんな風に笑うことも出来るのだと分かり、キースは安心した。

 フィオリーナが泣くと、笑顔にさせたいと思うし、その笑顔が見られると、嬉しいと感じる。

 そんな単純な気持ちが続く限りは、ここに居るのも悪くない。

 キースは、つくづく自分は流されやすいと思いながらも、ジェファスの焼いたパンに齧りつき、相変わらずの美味しさに、頬を緩ませる。


「……単純なヤツだ…」


 マートンの呟きに、キースはむっとしたものの、言い返すことはしなかった。

 いつも険しい表情ばかり見せているマートンの頬が、少し緩んでいたからだ。

 だが、その場の和やかな雰囲気に逆らうかのように険しい表情をしたエドワードの視線は、鋭かった。

 何かを探るような視線に、キースは肩を竦めた。

 自分とフィオリーナが同じ種族に纏わる紋様を持っていたとしても、何も大それたことなど考えていない、と言うように。

 これは単なる偶然であり、人生には不思議なことが起きるものだと、知っていたからだ。

 

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