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白き狼は、森の夢を見る  作者: 唯純 楽
2/16

出会い

 春の始まりを告げる豊饒の女神イライスを称える祭りの期間中、ラーゼル王国の王都ハウルミュラーはいつにも増して賑やかな喧騒に包まれる。

 老いも若きも、富めるものも貧しい者も、十日間に及ぶこの祭りの間は生きていることを存分に楽しむ。

 あちこちの広場では、夜通し踊りの輪が絶えることなく回り、若者たちの多くは、あっけなく恋に落ち、やがてそれを失うとはわかっていても、一時の甘い夢を味わうのだ。


「何だか、わくわくしてしまいます!」


 フィオリーナは、早まる鼓動に波打つ胸を抑えながら、傍らにいるエドワードを見上げた。

 自分よりも頭二つ分背の高い、護衛役兼幼馴染は、知らぬ人が見れば無表情、フィオリーナが見ればしかめっ面で窘める。


「くれぐれも、迷子にならないで下さいよ」


 フィオリーナは、十分心得ていると頷いた。

兄の誕生祝いの祝宴に合わせて、久方ぶりに、王都郊外の小さな村にある自分の館から王都へと来ていたフィオリーナは、道中馬車の窓から目にした賑やかな祭りの様子を見て、エドワードにせがみ、途中で馬車を降りたのだ。

 人の多い場所は苦手なのだが、誰も自分に注目していないならば、気後れすることもない。


「エディ! 私、あのお店を見たいです!」


「フィオ様……くれぐれも、食べすぎないで下さいよ。それから、ご自分の身分をお忘れにならないよう。王都は、フィオ様の暮らす村とは違い、治安がいいとは言い難いのですから、話しかけられても、気安く答えたりなどしないよう……」


 ため息混じりに小言を並べるエドワードが、いつでも自分を見失うことなどないと信じ、フィオリーナは気の向くまま、美味しそうな菓子を売る屋台や美しい異国の品々が並べられた店を巡って、その内の一つで足を止めた。

東の海を越えて来たという、丸く磨き上げられた白い石に細長い蛇のような不可思議な生き物が彫り込まれたものをしげしげと眺めていると、一組の男女が横から店主に声を掛けた。


「この指輪はいくら?」


「お目が高いねぇ。そいつは東の国で作られた指輪で、永久の絆を結ぶという石だよ。結婚指輪にするのかい?」


 にかっと笑って訊ねた中年がらみの店主に、女性の方が恥ずかしそうに男性の袖を引く。


「そうしたいんだけど、俺、あんまり稼ぎがよくなくってさ」


「いやいや。幸せな二人に売るんだ。それなりに負けてもいいよ」


「本当に?」


 嬉しそうに笑みを交わす二人を見やり、フィオリーナは羨ましい、とため息をついた。

 あんな風に、恋人と甘い時間を過してみたいと思うけれど、フィオリーナが顔を合わせて親しく言葉を交わす男性と言えば、執事のマートンか料理人のジェファス、護衛役のエドワードに、時折遊びに来てくれる兄カーライル、年に一、二度王城で顔を合わせる父くらいのものだ。

 王城で生まれ育ったわけではないため自覚は薄いが、フィオリーナの身分はラーゼル王国第二王女というれっきとした王族だった。

 王族の務めとして、いずれ政略結婚をするのだろうと漠然と思ってはいるものの、御伽噺のように、素敵な騎士様や王子様と運命の出会いなどないものかと、勘違いでもいいからせめて一度くらいは恋というものをしてみたいと、ついつい願ってしまう。

 もう一度小さなため息をつき、次はいつも目深に顔を覆うために被っているショールの新しいものを見たいから、次の店に行こうと傍らにいるエドワードを振り仰いだフィオリーナは、そこに全く見知らぬ中年の男性がいるのを見て、驚いた。

 慌てて逆側を見るが、そちらには見知らぬ女性がいる。

 背後を振り返ると、信じられないほどの人波だ。

 キョロキョロ見回すが、見慣れたエドワードの砂金色の髪などどこにも見えない。


「エドワード?」


 一応無駄と分かっていても呼んでみる。

 当然、返事はない。

 フィオリーナは、一気に青ざめ、心臓が口から飛び出しそうな思いで、今来た道を戻ろうとした。

 だが、人波に逆らうことは難しく、あれよあれよという間に、見たこともない広場へ辿り着いてしまった。

 しばし頭が真っ白になったフィオリーナは、とにかく目的地である王城へ行けばいいのだと思ったが、それこそが一番難しいのだと気付いて、愕然とした。

 ラーゼルの王城は高い城壁に囲まれた上、天に向かって聳え立ち、都のどこからでもその白亜の姿が見えるのだが、真っ直ぐ王城へ向かって通じている道は一つもない。

 防衛上の理由から、王都の道は直線的には王城へは通じておらず、異国の旅人などは、王城を目の前に見ながらも、延々と辿り着けないという事態を一度は経験する。

 自分の脚で王都を歩き回ったことのないフィオリーナも、まさに異国の旅人並みに道が分からなかった。


「エ、エディ!」


 必死にその名を呼んでみるが、賑やかな音楽と喧騒に掻き消されてしまう。

 人波に揉まれているうちに靴が脱げ、裸足になってしまったせいで、足の裏が傷ついて痛い。

 どうすればいいのか見当も付かず、途方に暮れたフィオリーナは、泣き出したい気持ちを必死で堪え、城の警備隊などが通りがからないものかと、背伸びして目を凝らす。

 周りの人々は皆楽しそうで、独りぼっちのフィオリーナのことなど、誰も気に留めない。

 このままここで野垂れ死んでしまうのかと、大げさすぎる程悲観的になった時、誰かが肩に触れた。


「誰かを探しているのか?」


 びっくりして飛び上がり、振り返ったフィオリーナは、そこにいた青年を見て更に驚いた。

 艶やかな栗色の髪と深い森の色をした瞳。優しげな顔立ちは稀に見る美しさだ。

だが、その繊細な顔立ちに似ず、青年はしっかり鍛えた体格をしており、その腰には剣がある。

 騎士のように見えるが、若すぎる気もする。

 そして、とても印象的な右の目尻にある黒子は、何だか不思議な色香を漂わせている。

 まるで、御伽話の騎士のように凛々しい姿を間近に見て、フィオリーナは完全に思考が停止してしまった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「キース!」


「早く来いよ!」


 祭りの露店で、素晴らしい刀工の手による剣を眺めていたキースは、邪魔されたくないとばかりに、そっとため息をついた。

 先を行く友人たちが、あちこち寄り道しては、度々遅れるキースに痺れを切らしたらしい。

 キースは、手放すのが惜しい思いを振り切るように、今一度目に焼き付けるようにして剣を眺めた。

ラーゼルの剣よりも細身で、少し長めの白刃は、水を含んだかのように濡れて見える。

クフェルの鋼で作られているという店主の説明がなくとも、抜群の切れ味だろうと想像が着く。


「ご所望でしたら、取り置きしましょうか?」


 愛想のいい店主が揉み手をしながら訊ねるのに首を振る。


「いや、それには及ばない」


「売れてしまうかもしれませんよ?」


「その時は縁がなかったと思うからいい」


 あっさりしたキースの言葉に、店主はあからさまにがっかりした様子になる。

 剣を鞘へ収めて突き返すと、広場の入り口で待っている友人たちへと足早に歩み寄る。

眺めていた剣は、西のクフェルで取れる特別な鋼で作られたもので、実に美しい輝きを放っていたし、いいなとは思ったが、衝動的に買う程ではない。

物にせよ何にせよ、どうあっても手に入れたいという感情が、キースには希薄だった。

手にする運命ならば黙っていても手に入るし、そうでないならば何をしても手に入れられないものだと思っていた。


「折角、こんな美しいご令嬢たちと一緒なのに、他所へ目を向けられるなんて、余裕だな」


 キースが追いつくのを待っていた友人の一人、アストール・ライフォックスが脇腹を突く。

 キースは、若者らしく祭りと恋の鞘当を同時に楽しみたいという王立学院の悪友たちに唆され、王立女学院の娘たちを誘って、賑やかな喧騒で埋め尽くされた城下へ繰り出していた。


「今日、この機会を逃せば、しばらくは遊ぶ暇もなくなるんだぞ」


 アストールは、自分たちにはもう、無邪気に遊んでいる時間は残されていないと顔をしかめた。

 キースとその悪友たちは、祭りが終わる十日後には、王立学院の騎士課程を卒業し、騎士の称号を戴いて、大陸最強と謳われるラーゼル王国騎士団へ入団することが決まっていた。

第一から第四まである騎士団は、それぞれ異なる任務に就いており、キースはアストールと共に、戦場へ派遣されることが多い、第一騎士団へ入るが、どの騎士団においても、厳しい規律と任務が待っていて、殆ど自由になる時間がなくなるため、今のうちに恋人候補を作ってしまおうと、悪友たちは目論んでいるのだ。

 十六の若者の脳裏を占めるものは、恋への憧れというより、異性への好奇心。

 キースも、興味がないわけではなかったが、恋をしなくては生きていけないなどとは思っていなかったし、むしろ面倒くさいとすら思う。

 見知らぬ相手から手紙を渡されたり、宴席で意味ありげな視線を送られたりという経験はあるが、それがどういう意味を含むものなのか、理解出来ず居心地が悪い思いをしただけだ。

 キースは、出来る限り面倒事には近づきたくないと、顔をしかめた。


「おまえは、本当に見かけによらず、初心だなぁ?」


 そんなキースの心の内などお見通しだと、数居る悪友らの中でも取り分け仲の良いレイファース・ロスランがにやにやと笑いながら、首を絞めてくる。


「そんなんじゃない」


 その腕を引き剥がそうともがきながら、こちらを窺う令嬢たちから目を逸らしたキースは、ふと少し離れた広場の端で立ち尽くしている小柄な人物に気付いた。

 誰もが、祭りの華やかな衣装に身を包み、女性たちは誘惑する気があからさまな露出の多い服を身に纏っているのに、その人物はゆったりとした全身を覆う青い服と、美しい刺繍と宝石のちりばめられた青いショールで顔を覆っている。

 何かを、誰かを探しているように、キョロキョロと辺りを見回し、時折背伸びをするのだが、如何せん背が小さいために、殆ど目的を果たせていない。

 こんなに人があふれているというのに、その様子に気付いているのはキース一人だけらしく、誰かが助ける様子もない。

 見過ごせないものを感じ、キースはレイの腕を逃れると、人波を掻き分けてその人物のところまで歩み寄った。


「誰かを探しているのか?」


 肩に軽く触れて問い掛けたキースは、相手が尋常ではない怯え様で飛び上がって振り返ったのに、驚く。

 人攫いか何かと間違われてはたまらないと、慌てて言い訳する。


「いや、別に、何の下心もない。ただ、誰かを探しているようだから、手伝おうかと思っただけだ」


 目深に被ったショールから覗くのは、大きな黒い瞳。

 長い睫は、溢れかけている涙で湿っていた。


「迷子なら、城の警備隊のところへ連れて行ってやるし、連れがどこかにいるのなら、そこまで連れて行ってやる。でも、助けがいらないというのなら、大人しく退散する」

 十四、五歳といった感じの少女は、言葉も紡げぬ様子で、じっとキースを見つめる。

恐らく保護者とはぐれてしまったのだろうと思いながら、キースは怯えなくてもいいのだと、微笑みかけた。


「俺は、キース。名前は?」


「あの、そのう……」


 少女は、もぞもぞと身じろぎし、口ごもって俯く。

 その視線を追って足もとを見下ろしたキースは、少女が裸足であることに気付いた。 

 迷子になって、必死で連れを探して走り回っているうちに、靴が脱げたのだろうか。白くて小さな足には、あちこちすりむいたような痕がある。


「怪我をしているな」


 多分、痛くて歩き回れなくなってしまったのだろう。

 キースは、その足元に屈み込んで怪我の程度を確かめた後、いくつかの擦り傷は洗い清める必要があると判断した。


「あの噴水の水で、綺麗にしよう」


 見上げたキースは、思いがけずまともに見上げた少女の黒い瞳の深い闇に、しばし見とれた。

 夜の闇よりも深い黒。

 すべての雑音を飲み込んで、ただ静けさだけが広がっているような瞳。

 見つめていると吸い込まれてしまいそうな気がして、キースは慌てて首を振り、立ち上がり様に少女を抱き上げた。

 少女は、一瞬身体を離そうとしたが、危ないからとその背を強く引き寄せたので、ぶつかるようにして首筋にしがみつく。

 まるで鳥の羽のような少女の軽さにキースは驚いた。

そっと扱わなくては、壊れてしまうのではないかと思い、慎重に広場の中央にある噴水へ向かうと、その淵へゆっくり下ろした。


「少し冷たいかもしれないけれど、我慢しろよ?」


 白く細い足首を手に取って、掬った水をかけて綺麗に拭う。

 こんな小さな足で、まともに歩けるのだろうかと思いつつ、小さくて愛らしい爪が綺麗に整えられ、磨き上げられているのを見て、やはりそれなりの身分がある者だろうと見当を付ける。


「館へ戻ったら、消毒してもらった方がいいな」


 両足を洗い流した後、チーフを使って簡単に傷口を覆う。


「痛いか?」


 少女は首を振る。

 ショールに付けられている鈴が澄んだ音を奏で、まるで猫の首輪につけた鈴のようだと思い、キースは思わず苦笑した。


「猫の首輪みたいだな」


 少女は首を傾げたものの、キースの肩越しに何かを見つけたようで、慌てて立ち上がろうとする。

 その足が長い衣の裾を踏み、そのまま倒れかかる。


「危ないっ」


 少女の身体を受け止めたキースは、息が触れる程間近に見つめた黒い瞳に、文字通り吸い込まれた。

 およそ重さというものを感じさせない身体に触れた手から、今まで感じたことのない、圧倒的な力を感じさせる何かが、キースを飲み込もうと流れ込む。

 頭の片隅に残った本能が、危険を訴え、手を離せと警告するのに、黒い瞳から目を逸らすことも、手を離すことも出来なかった。

 このまま、ずっとこうしていたい。

 不意に浮かんだその思いに、自分自身が驚いたとき、いきなり首筋に冷たいものが突きつけられた。


「手を離せ」


 低い男の声には、紛れもない殺気がある。

 キースを支配していた不思議な力は消え、あたりの喧騒が再び耳に戻った。

 少女の腕を掴んでいた両手を離し、降参の印に両手を挙げる。

 不用意な真似をすれば間違いなく斬られると思い、抵抗するつもりはないことを示すためにも、大人しくしていることを決めた。


「こちらへ」


 キースの胸に掴まっていた少女は、男の言葉に従って、慌てて身を離す。


「随分、探しました。ご無事で何よりです。こんな場所にいれば、不埒な真似をしようとする輩が寄って来ます。もう引き上げましょう。おまえも……今回限りは、見逃してやる」


 男が引いた剣を鞘に納める音を聞きながら、キースは肩を竦める。


「迷子のようだったから、助けようと思っただけだ」


「ふん。それが口実ではないと、誰も証明出来ないだろう?」


 随分と過保護な護衛だと思いながら、キースは肩越しに振り返る。

 振り返った先に見たのは、砂金の髪に深い青の瞳をした青年だった。

 整った顔立ちは童顔といってもいい造作だが、その口調と態度からして、キースより三つ、四つは年上のように思われた。

 身につけているものも、その腰にある剣も、華美な装飾は一切ないが、上質なものであることは一目で分かる。

 青い外套の光沢は、間違いなく絹のものだ。

 やはり、この少女はどこかの貴族の令嬢で、この青年はその護衛役といったところなのだろう。

 情に流されて助けるのではなかったと内心舌打ちしつつ、キースは、自分は善良で無害な男であると訴える笑みを浮かべて、少女の足を示した。


「足の怪我は大したことはないが、消毒しないと後で具合が悪くなるかもしれないな」


 青年が、少女の足へ視線を向けた一瞬の隙に、キースは腰の後ろへ着けていた短剣を素早く引き抜くと、青年の首筋へぴたりと寄せた。


「人助けをして、命を狙われたんじゃ割に合わないだろうが」


 青年の目が驚きに大きく見開かれる。


「貴様……」


「こっちは、全くの親切心から声を掛けただけだ。礼を言われこそすれ、剣を突きつけられるような真似は、何一つしていない」


「何一つ? ……見つめ合い、抱き寄せただろう? それだけで、十分手打ちにすべき理由となる」


 真面目に言い返した青年に、キースは唖然とした。

 どこの世界の住人だ。

 触れただけで手打ちにされなきゃならない相手なんて、聖女か女神かと突っ込みたくなる。


「別に抱き寄せてなんかいない。そのお嬢様が鈍くさくて、転びそうになったのを支えただけだ」


「鈍くさい?……貴様、何と言う口を……」


「ここは城下だ。城中の気取ったやり取りなどする必要はないだろ」

 お高くとまった貴族が大嫌いなキースは、こういうところで身分だの礼儀だのを口うるさく言うなど無粋なだけだと、鼻を鳴らした。


「……その減らず口を今すぐ黙らせてやる」


 青年が短剣を突きつけられながらも、再び剣の柄に手をかけたのを見て、少女が慌てて止めに入る。


「だ、駄目です! エディ! こ、こちらの方は、キ、キースは私を助けてくれたのです!本当です!」


「フィオ様。それがこいつの下心だということも考慮に入れての弁護ですか?」


「え」


 絶句した少女がキースを振り仰ぐ。

 そんなわけないだろうとキースが睨み返すと、少女は俯く。

 自分の弁護をしてくれない少女にキースは苛立ち、敢えて乱暴に吐き捨てる。


「言っておくが、俺にも好みというものがある。こんなガキ相手に、何かする気なんか、これっぽっちも湧かない」


 再び、弾かれたように顔を上げた少女が、まじまじとキースを見つめる。

 その黒い瞳が潤み、長い睫が濡れ始めたのを見て、キースは即座に己の暴言を激しく後悔した。

 傷つけても構わないというつもりで、わざと吐いた言葉だが、今すぐ撤回し、許しを乞いたくなる。

 エディと呼ばれた青年は、そんな少女の様子を一瞥し、明らかな殺意を持ってキースを睨んだ。


「礼儀を教えてやる必要があるな」


 先ほどまでの怒りも吹き飛び、泣き出しそうな少女を慰めなくてはと、焦燥感に駆られたキースは、短剣を引っ込めた先に待ち受ける殴り合いもしくは、斬り合いを厭う気分になっていた。

 その表情を見たのだろう。

 怖気づいたのかと冷笑を浮かべる青年に、そうじゃないのだと言い返そうとしたキースは、いきなり横合いから腕を掴まれ、押さえ込まれた。


「馬鹿っ! こんなところで、遣り合うんじゃない! せっかく手にした称号を剥奪されるぞっ!?」


 見れば、ただならぬ雰囲気に気付いたレイが慌てて止めに来たらしい。

 レイが言う通り、騎士という身分は容易く手に入れられるものではなく、一種の特権階級だ。

 厳しい訓練の後、国王への忠誠を誓った者だけに与えられる身分であり、王族以外では城内で帯剣が許される唯一の存在である。

 だからこそ、その言動については厳しい規律が課される。

 卒業と同時に正式な称号を授与される、仮の身分である今、城外で乱闘騒ぎを起こすなどもっての他だ。


「キース。折角、あと少しで終わりだっていうのに、こんなことで将来をふいにするな」


 確かに、二年に及ぶ厳しい訓練を経てようやく得たものが、一瞬で失われるのは面白くない。

 キースは、遣り合う気が失せてしまっていたので、大人しく短剣を引いた。

 少女は、青年の腕に縋り、その背に隠れるようにして小さくなっている。

 その怯えようは、半分は自分のせいであるが、半分は目の前の過保護な青年のせいであると忌々しく思いつつ、キースはぼそっと呟いた。


「金輪際、迷子など拾わない」


 卒業間際になって面倒事を引き起こすなど勘弁してくれと嘆くレイの背を押し、仲間の待つ方へ戻ろうと促す。


「礼の一つも言えぬほど、そんなに大事なお嬢様なら、目を離すなよな」


 未だ噛み付きそうな表情で睨む青年に、捨て台詞を投げつけて歩き出そうとしたキースは、外套を引っ張られた。

 振り返ると、小さな手がキースの外衣を掴んでいる。


「何だよ?」


 小刻みに震えている手を握り締めてやりたくなる気持ちが湧き上がったが、再び護衛の青年を刺激しかねないと思い、努めて素っ気無く問い返す。

 少女は慌てて手を離したが、黒い瞳で真っ直ぐにキースを見上げた。


「た、助けてくれて、ありが……とう、ございます」


 途切れ途切れの消え入るような囁きも、それが精一杯なのだというように胸の前で手を握り締めている。

 迷子になり、とても心細い思いをした上に、突然護衛役とキースが喧嘩を始め、恐い思いをしたはずなのに、それでも律儀に礼を述べようと頑張ったらしい。

 まるで、初めて独りで外へ出掛けた子猫のような様に、キースはどうにも仏頂面を維持出来ず、震えている小さな手を軽く包み込み、少し屈み込むようにして囁いた。


「次からは、うるさい護衛から、はぐれないようにな」


 少女は、驚いたように大きく目を見開いたものの、その瞳が笑みらしきもので和む。

 どうにか笑わせることが出来たことにほっとして、キースは笑みを浮かべた。


「じゃあな」


「さ、さようなら。お気をつけて」


 それはこっちの台詞だろう。

 そう突っ込みたくなったものの、一生懸命な少女を苛めるような真似をしたくなくて、キースは笑ったまま頷いた。

 荒れかけた気持ちが和らぎ、途端に機嫌が良くなったキースに目を丸くするレイを引きずるようにして、歩き出す。


「キース。おまえ、わかってるんだろうな? あれは結構な身分のご令嬢だと思うぞ?あんなぞんざいな口をきいて……後から、何か言いがかりでも付けられたら、どうするんだ?」


「言いがかり? こっちは、迷子を助けただけだ。恩を仇で返すようなヤツに、いちいち構う必要なんかないだろ」


「あのなぁ……おまえってば、ほんと見かけに拠らずガサツだな」


 レイは、詐欺だと首を振る。


「そういうレイこそ、その御伽噺の王子様のような容貌で、詐欺を働いてるじゃないか」


 レイの思惑とその所業を良く知っているキースは、顔をしかめた。

 眩い金の髪に深い青の瞳というラーゼルの王侯貴族の特徴をそのまま体現した非の打ち所のない整った顔立ちをしているレイは、気になる相手を口説き落とし、目的を達する早さにかけては、同期の中で右に出るものはいない遊び人だ。

 常々、どうやったらあんな風に歯の浮きそうな台詞をぺらぺらと喋ることが出来るのか、キースは不思議に思っていた。


「男は、誰でもそうだろう?」


 にやりと笑うレイに、ため息を返す。


「おまえも、いい加減見た目に相応しい男になるべきだと思うぞ? キース。その面で、恋人もいなければ、女遊びもしないなんて、誰も信じやしない」


「顔は関係ないだろ!」


 キースは、噛み付くように言い返した。

 何より自分の顔立ちについて言及されるのが嫌いだ。

 艶のある栗色の髪と深緑の瞳は、まぁ、気にならない。

 だが、母親譲りの顔立ちは、どう表情を工夫してみたところで、男らしいとは言い難い代物だった。

 細めの顎に、やや口角が上がっているためいつでも微笑んでいるように見える薄い唇、すっと通った鼻筋は、高さはともかく幅が明らかに女性的で、眉も細い。

 中でも、最悪なのは目元だ。

 昔はよく、愛くるしいと例えられた丸みを帯びた目元は、目尻が下がり気味で、しかもご丁寧に長い睫で飾り立てられている上に、右目の目尻近くに小さな黒子がある。涙もろい証拠だというその黒子は、色っぽいといわれることもある。

 首から上だけ見れば、女性でも通りそうな出来栄えだ。

 肌は日焼けしているし、体格的には十分男性的だから、どうにか男装の麗人扱いはされないが、妙な視線を受けることもしょっちゅうだ。

 それでも、ついこの間までは、成長すれば自分も世の中の多くの男たちと同じように、むさくるしい生き物になると思っていた。

 だが、周りの友人たちの豹変振りを見て、これ以上の変革は望めないだろうと諦めた。


「そう怒るなよ。そういう顔の方が、警戒されずに済むだろ?」


 レイは、キースが不機嫌になる理由は十分知っているが、それを逆手に取ればいいのだと慰める。


「別に、警戒されるような真似をするつもりはない」


「ま、おまえの場合、自分で何かしなくとも向こうから迫ってくるだろうけど」


 レイは、キース目当ての婦女子が、学院の寮の前で毎日のように繰り広げていた戦いを思い出すと言って、笑う。

 レイほどではないが、キースも恋文を渡され、告白めいたことをされたことが多々ある。

 だが、結局誰にも心が動かなかったので、何も進展しなかった。

 見ず知らずの女性と付き合う意味が分からなかったし、結婚も考えずに誰かを自分の好きなように扱うなど、あり得なかった。

 責任を取れないことをするなと、常々口うるさい兄に言われていたし、自分の欲望を満たしたいと思うより、相手を傷つけるような真似はしたくないと思う気持ちの方が強かったのだ。


「キース。宝の持ち腐れって言葉、知っているか?」


「俺はおまえと違って、誰でもいいとは思わないんだ」 


 守備範囲の広いレイは、好みというものがあるのかと疑わしくなる程、様々な女性と付き合っていた。

 しかも、その誰とも長続きしないなど、キースには最早理解不能だ。


「じゃあ、誰ならいいんだよ?」


 そう尋ねられたキースは、首を傾げた。

 キースは同期の悪友たちが酔った勢いで恥ずかしげもなく語る恋というものを、まだ経験していなかった。

 誰かを想うだけで胸が苦しくなる気持ちなど、皆目見当も付かない。

 ましてや、身も心も捧げるほど、自分のことを想ってくれる相手が現われるとも思えないし、自分がそんな風になることも想像出来ない。


「キース!レイ!早く来いよ!」


 黙りこんだキースを救ったのは、アストールだ。


「キース。いきなり見ず知らずの女性を口説こうなんて、無謀だろう?」


「今にも護衛に殺されそうだったじゃないか?」


 わいわいとからかわれ、ぐしゃぐしゃと髪をかき回されながら、キースは今一度、広場を振り返った。

 既に、あの少女の姿はなかったが、耳にあの鈴の音が残っているような気がした。

 名前ぐらい、聞いておけば良かった。

 ふとそんなことを思い、そんな自分に驚いて首を振る。


「ふうん? ついに、おまえにも春が来たかな?」


「そんなんじゃないっ!」


 キースは、思い切り否定し、にやにや笑って囁くレイの首を腕で締め上げた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「もう二度と、城下へお忍びで出ることは認めません」


 ようやく見つけたフィオリーナを抱きかかえ、祭りの喧騒から少し離れた場所に止めていた馬車へと乗り込んだエドワードは、いつもの険しい表情をさらに険しくして、冷たく断言した。


「あれ程、絶対に一人でふらふらしないようにと申し上げたにもかかわらず、私が代金を支払っている間にいなくなるなど……寿命が五十年は縮まりました」


 フィオリーナは、そんなエドワードを大げさだと笑えなかった。

 いつでも冷静沈着、二十には見えないほど落ち着き払っているエドワードが、あんな風に血相を変えて走り寄って来た挙句、相手の正体も確かめずにいきなり剣を抜くところなど、初めて見た。

 心底、フィオリーナのことを心配していたのだろうし、フィオリーナ自身もとても心細かった。


「ごめんなさい」


 しおらしく詫びると、エドワードは大きくため息を吐いた。


「しかも、あんな若造に捕まるとは……何事ですか」


「わ、若造って……き、キースは、迷子になった私を心配してくれて、助けてくれようとしただけですっ! あ、足も、手当てしてくれたし、別にその……何もしていませんっ!」


 エドワードのように、冷静に大人っぽく反論したかったフィオリーナだが、間近に見たキースの深緑の瞳や、身体を支えてくれた逞しい腕を思い出すと、頬が熱くなって来て、心臓が再び妙な鼓動を刻み始める。


「カーライル様に知れたら、あの若造は、騎士になる前に抹殺されかねないでしょうね」


 そんなフィオリーナの様子を見たエドワードは、ぼそっと呟いた。


「そ、そうかしら? でも、カーライル兄様はきっとお礼をしなさいって言うと思うけれど?」


「ええ。自分がお礼をすると言い出して、あの若造を呼びつけた挙句、締め上げますね」


「……」


 フィオリーナは、そんなことはない、とも言えず口ごもる。

 いつも陽気で楽しいことが大好きな兄だが、フィオリーナの身に少しでも危険が及ぶと、豹変する姿は度々目にしていた。

 昨年、自身の誕生祝いの席で、カーライルに何の断りもなくフィオリーナに話しかけた気立てのいい貴族の青年を『妹を怯えさせた』という理由で、その場から叩き出したことは、記憶に新しい。

 あれ以来、フィオリーナはこれまで以上に、人々から遠巻きにされているのだが、見知らぬ人間と、会話はおろか目を合わせることも儘ならない身にとっては、その過保護ぶりは有難い。

 ただし、今回ばかりは親切な青年を酷い目に遭わせたくなかった。


「エディ……今日のことはカーライル兄様には内緒にしてくれないかしら? そうじゃないと、私はもう二度と王都へ来られなくなるかも」


 エドワードは、異議アリというように眉を引き上げたが、しばしの沈黙の後、渋々頷いた。


「私も、フィオ様の護衛をしくじったと、怒られ、延々と嫌味を言われていびられるのは御免です」


「ありがとう」


 満面の笑みを浮かべて律儀に礼を述べたフィオリーナに、エドワードは大きく息を吐いた。


「ところで、あの若造。キースと言いましたか?」


「えっ、ええ」


 ほっとして、今一度助けてくれた青年の麗しい姿を脳裏に思い描いていたフィオリーナは、顔を赤くして頷いた。


「キース……あれは、キースランド・ファレスかもしれませんね」


 エドワードが口にした名前に、何の思い当たる節もないフィオリーナは首を傾げる。


「知り合いですか?」


「いえ。今日、初めて顔を見ましたが話だけは聞いています。今年の王立学院騎士課程を首席で卒業する男です」


 騎士課程の首席と言えば、それこそ剣の腕が一流であるという証拠だ。

 武骨とは程遠い容貌だった青年が、未来の英雄とは信じられないと、フィオリーナは目を見開いた。


「凄い人なんですね?」


「常勝将軍と名高い、ライオール将軍の次男ですから、不思議はありませんよ。頭の方も悪くはないでしょう。兄のリーゼンラールは優秀な行政官です。ただし、とても騎士らしいとは言えぬ態度でしたが」


 礼儀正しい振る舞いを求められるのが騎士だというのに、あのキースの態度は何なのだと、エドワードは憤る。


「そうですね。とても気さくで、優しい人でした。何だか、ランディみたいでした」


 フィオリーナは、そんなエドワードの言い分を全く無視し、自分が飼っている森林狼の血を引く白い犬と同じ、深緑の瞳を思い出してうっとりした。


「それは、本人には言わない方がいいのでは」


 エドワードが、苦い声で忠告する。


「あら、どうしてですか? ランディはとっても勇敢で、とっても賢いのに」


 フィオリーナにとって、この世で一番格好いいものはランディだった。


「きっと……御伽噺でいう英雄は、あんな目をしているのでしょうね。とても深い緑の瞳の奥には、限りない力が秘められているようでした」


 フィオリーナは、どこか遠くを見つめるようにその黒い瞳を細め、囁くように呟いた。


「キースが、本物の英雄になるとでも?」


「英雄とは、なろうと思ってなれるものではなく、人々によって作られるものです。だから、その喜びも苦しみも、悲しみも、華々しい武勲しか見ようとしない人々には、見えないままなのでしょう」


「あれが、悲劇の英雄になるとでも?」


「悲劇を作り出すのは、そう導く者がいるからです。キースは……堕ちることはないでしょう。愛されているのですから」


 時折現れる自分の中にいる別人が話しているような感覚に戸惑いつつ、フィオリーナは言葉を紡いだ。


「確かに、あの顔ならば王都中の貴婦人から愛され、山のように恋文を貰っているに違いありませんね。フィオ様も一通、したためてはどうですか?」


 突然の、思いもよらぬ提案に、フィオリーナは我に返った。


「こ、恋文っ!?」


「あんなに毎日、恋愛小説を読み漁っているんですから、知識もさぞかし豊富でいらっしゃるはずです」


「よ、読み漁ってなどいませんっ!」


 恥ずかしさに顔を赤らめて言い返したフィオリーナに、エドワードは冷たい視線を返す。


「館の書斎の棚を埋めているのは、大半がフィオ様のお求めになったご都合主義の恋愛小説でしょうに?」


 現実の男は、あんな風に四六時中甘い言葉を囁いたりもしないし、どんなに魅力的な女性に言い寄られても、心に決めた女性以外には揺らがないなんてあり得ないと、酷評したエドワードに、フィオリーナは唇を噛み締める。


「まぁ、あれ程の男はその辺には転がっていませんから、初心者のフィオ様には手に負えないでしょうが」


 悔しいが、その通りである。

 現実の恋愛経験が皆無で、この先も小説のようなめくるめく恋愛には縁がないだろうが、ほんの少し夢を見たっていいではないかと、フィオリーナは意地の悪い幼馴染に言い返す言葉も見つけられずに、俯く。


「でも、会って話してみたいというのであれば、それとなく手を回してみますが? 王都にいる間なら、何とかなるでしょう」


 更に驚きの提案をするエドワードに、フィオリーナは慌て、激しく首を横に振った。


「いいい、いいです。な、何もしないでくださいっ!」 


「最初で最後の機会かも知れませんよ?」


 人の物になってしまえば、おしまいなのだというエドワードに、フィオリーナはうっと言ったきり黙り込んだが、力なく呟いた。


「運命が導くならば、また出会えるはずです」


 フィオリーナは万に一つの可能性もあるかもしれないと、淡い、それこそ儚い夢を口にした。

 きっと、未来の英雄は、堂々と人前で披露出来る恋人を選ぶだろう。 

 自分のように、郊外の館で隠居暮らしをしている、大して美しくもない、人前に出ることも儘ならない、女性としての魅力が皆無の女など、端から相手にされない。

 優しい微笑みを向けてくれたのは、自分が何者なのか、その正体を知らないからだと、後ろ向きな感情が表情を強張らせる。

 そんなフィオリーナの気持ちを感じ取ったのか、エドワードもこの話はお終いだというように頷いた。


「わかりました。では、天命を待つとしましょう」


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