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白き狼は、森の夢を見る  作者: 唯純 楽
13/16

王都からの使者

 その日、カーライルは、朝から立て続けにやって来る珍客に翻弄されていた。

 出だしは、行政府と王族の居住区の境目を警備している、すなわちカーライルの居室の近くを警備している兵士だった。

 いつものように、朝の交替で下番の報告をしに来た兵士は、決まりきった報告 ― 何の異状もないこと ― の後、何やら言いたそうに扉の前で逡巡する様子を見せた。

 どうしたのだとカーライルが声を掛けると、僭越ながらと前置きし、リーゼンラールの様子がおかしいのではないかと言ってきた。

 城内の警備兵たちは、近頃のリーゼンラールはどこかうわの空ので、しかも顔色があまり良くないと噂し、心配しているというのだ。

 本人に言っても聞き入れてもらえないので、それとなくカーライルから休むように言って欲しいなどと要求された。

 一応分かったと返事をし、やはりそろそろキースの件を話すべきかと思ったところ、何故か手ずから朝食を運んで来た料理長に驚かされた。

 最近王都郊外で農作物の収穫が思わしくないため、新鮮な野菜が手に入りにくいなどと世間話をしながら応接用のテーブルに豪華な朝食を並べた料理長は、神妙な面持ちで、リーゼンラールに何かあったのではないか、と問うた。

 リーゼンラールには、新作料理の味見や手に入りにくい食材の手配などで世話になっているという料理長は、滅多なことでは食事を残さないリーゼンラールが、ここ最近食べ残しているというのだ。

 料理を運ぶ侍女が無理に一口だけでもとせがんで、ようやくスープを平らげるという有様だというので、どこか悪いのではないかと心配だという。

 元々、リーゼンラールは仕事が立て込むと食事をおろそかにするきらいがあるので、頼まれなくとも夜食や間食を作るのだが、それすらも手をつけてくれないと嘆いた。

 結局、カーライルにそれとなく気遣ってくれないかと頼み込んで、料理長は帰って行った。

 朝食を食べ、次は誰が来るのだろうと半ば面白くなって来たカーライルは、食器を下げに来た侍女頭に目を見開いた。

 城内の侍女たちを取り仕切る五十代の侍女頭は、決まりきった季節の挨拶などをしながら礼儀正しい様子で手早く食器を片付けた後、不意に口ごもった。

 既に、何を言いたいのか予想がついていたカーライルが水を向けると、銀髪をきっちり纏めた侍女頭は改まった口調で、僭越ながら、と前置きした。

 リーゼンラールの執務室の掃除を担当している侍女から相談されたのだが、最近リーゼンラールが寝台を使った形跡がないというのだ。

 これまでも、仕事が立て込んでいる時などはソファで転寝しているのをしばしば目撃しているが、それすらもしていないらしい。

 部屋にいないわけではないというのは、毎日必ず寝台の傍に置いてある心づけが用意されていること、料理番の侍女が朝と夕に食事を運んでいることからも分かっているので、カーライルからリーゼンラールに休むよう言ってくれまいかと、口調は控え目ながら絶対にそうしてくれという眼差しで頼み込んでいった。

 城内で働く者に、リーゼンラールを知らぬ者はいないのではないか。

 ふとそんなことを思ったカーライルは、続いてやって来た青年医師の険しい表情に、ついにリーゼンラールが倒れたのではと、やや心配になった。

 だが、城に常駐している医師団の一人である青年は、手にしていたガラスの大瓶、何やらとてつもなく不味そうな茶褐色の茶葉らしきものが詰まった瓶をテーブルに置くと、ため息をついていきなり愚痴った。

 ルーカスと名乗った医師は、リーゼンラールとは幼馴染だと言い、あの馬鹿をどうにかしてくれないかと、嘆いた。

 常々、睡眠と食事は大切だと言っているにも関わらず、リーゼンラールは仕事が立て込んでくるとどちらもおろそかにして、挙句限界まで心身を酷使して寝込むということを繰り返しているのだという。

カーライルの側近となってからは、以前よりもそれ程追い詰められている様子はないのだが、ここ最近のリーゼンラールの様子は明らかにおかしいと、方々からせっつかれ、様子を見に行くのだが、なかなか捕まえられない。

 ルーカスは、リーゼンラールが倒れると、城中の侍女や侍従、料理番や料理長、警備兵に下手をすると国王までもが、医師の監督不行き届きを責めにやって来るので、勘弁して欲しいと言い、どうせ自分の言うことは聞かないだろうから、カーライルからきつく言ってくれるよう、そして瓶にぎっしり詰めこまれた特製薬草茶を飲むよう命じてくれと頼んでいった。

 次は、いよいよ国王のお出ましかと思ったカーライルだったが、予想に反して現れたのはエドワードだった。


「何だ、おまえか」


 気の抜けたカーライルが、つまらないという顔で出迎えると、エドワードはいつもの無表情で応える。


「ええ、私です。おはようございます」


「ああ」


「リーゼンラールはまだですか?」


 おまえもか、という思いで目を見開いたカーライルに、エドワードは薬草茶の詰まった瓶を眺めつつ、珍しくため息を吐いた。


「カーライル様。覚悟はよろしいですか?」


「おい。朝から物騒だな」


「出来る限り、お守りするつもりですが、念のため帯剣してもらえますか?」


 城中で剣を抜くような事態になるなど、滅多にあることではない。

 カーライルは、一体どうしたのだと問い返す。


「キースが、護衛役を返上すると言って来ました」


 エドワードは、誰も聞いていないことが分かっているだろうに、その声を低くした。


「何故だ? 何かあったのか?」


 渋々ではあったようだが、フィオリーナの館でそれなりに居心地良く過ごしているようだと聞いていたのに、何がどうなって辞めると言い出したのだと、カーライルが少し強い口調で問うと、エドワードは何かを思い切るように、大きく息を吐いた。


「昨日、フィオ様がキースに無断で屋敷の外へ出て盗賊に襲われました」


「またか!」


 思わず呆れた口調になったカーライルに、エドワードも苦りきった表情で頷く。

 自分が王女であり、結構な商品価値があるという事実を、フィオリーナは今ひとつ理解していない。

 王城で育てば、王女としての扱いを日々受け、そういった自覚もそれなりに芽生えるのだろうが、気心の知れた、まるで家族のような従者たちとだけ暮らして来たせいで、自覚がないのだろう。

 いつも間一髪でエドワードが助けているとはいえ、何度も襲われたり、連れ去られたりと恐い思いをしているのに、めげないというか、懲りない。

 あの神経の図太さは、それこそ父であるウィルランド譲りではないかとカーライルは思う。


「しかも、館からさして離れていない川で釣りをしようとして襲われ、川へ転げ落ちて溺れたのです。最終的には無事救出され、怪我もなかったのですが、キースは責任を痛感しているようです」


「一緒じゃなかったからか?」


「はい。一昨日、喧嘩したそうで、フィオ様は怒って口もきかない状態だったようです」


「……喧嘩するほど仲が良いとは言うが……原因は? どうせくだらぬことだろう?」


「ええ。キースと一緒に釣りをして大物を釣り上げたのですが、魚に触れることが出来なくて、それを見たキースが悪戯をしたらしいのです。生きた魚に怯えるフィオリーナ様に、抱えられる程の大きさだったという魚を放り投げたとか」


「思わず受け取ったフィオは、恐いけれど惜しくて手放せず、うろたえたのだろう?」


 その光景が目に浮かぶようだと、カーライルは苦笑した。


「はい。それを見たキースがあまりにも笑い転げたため、怒ったようです」

 

「何とも平和な話だな」


 カーライルは、出会ってひと月と経たぬのに、そんな風にしてフィオリーナをからかい、怒らせたり笑わせたりすることが出来るキースは、貴重な存在だと思う。

 キースが去ってしまえば、フィオリーナが激しく落ち込むだろうことは、容易に想像がついた。


「責任を感じるのは、役目を真剣に考えている証拠だ。どうにか理由をつけて、慰留しろ」


 キースが、見た目と違ってかなり真面目な性質だということは、兄のリーゼンラールの証言からも分かっていた。

 屁理屈でもなんでもいいから兎に角引き止めろと命ずると、エドワードはそうしたいのは山々だが、大きな問題があるのだと、珍しくため息混じりに呟いた。


「問題?」


「はい。実は……キースは戦えないのです」


「は?」


 何を言っているのだと、笑い飛ばそうとしたカーライルに、エドワードは冗談などではないと、まるで苦痛を感じているのかというくらい顔をしかめた。


「キースが騎士を辞めようとしていたのは、そのせいです。剣を抜こうとすると手が震えるのです。怪我をしたわけでもなく、病というわけでもないようですが、原因がわからない。そのため、剣を抜くのが遅れがちになり、結果フィオ様を助けるのが遅れた」


「だが……全く戦えないわけじゃないだろう?」


「抜いてしまえば大丈夫だったようですが、今ではそれすらも危うい」


 カーライルは、ラーゼルの英雄と称えられる青年が抱え込んでいた思いがけない悩みに、知らず呻いてしまった。

 騎士にとって、剣を抜けないというのは身体的な危険はもとより、精神的な衝撃の方が大きいに違いない。

 原因は精神的なものかもしれないが、キースの腕に刻まれた紋様が関係しているかもしれないと思い、カーライルは緩めていた表情を引き締めた。


「キースは、城へ戻ると言っているのか?」


「はい。自分がしでかした事の大きさに、ようやく思い至ったようです。大人しく城へ戻り、処罰を受けると言っています。その際には、騎士団長はもとより、陛下にも理由を説明することになるでしょう」


「それは……避けたいな」


 カーライルは、間違いなく大騒ぎになることを思い、呻いた。

 英雄が抱えていた事情を知らなかったとは言え、自分やフィオリーナが国王の叱責を受けることになるだろうことを思うと、出るのはため息ばかりだ。


「とにかく、話をしたいな」


 キースが城へ戻れば、その処遇は第一騎士団長と国王によって決められ、カーライルは口を出すどころか会うことも適わなくなる可能性があった。

 そうなるまえに、シンファースの紋様についても話をしておきたかった。


「リーゼンラールに知らせるべきでは?」


 エドワードは、キースが本音を言えるのは兄だけではないかと、今度ばかりはやや強い眼差しでカーライルを見つめた。


「そうだな」


 カーライルもその意見には同感だったが、何と言うべきかが悩みどころだった。

 隠していたと正直に話せばタダでは済みそうもない。

 未だ修復されていない壁の亀裂を見やり、カーライルはエドワードの忠告通りに、身の危険を覚えて立ち上がり、壁際に掛けてある剣へ手を伸ばそうとした瞬間、いきなりドアが物凄い音を立てた。


「カーライル様っ!」


 今まさに噂をしていた人物の声に、恐る恐る振り返る。

 金の髪を振り乱し、濃紫の瞳をギラつかせたリーゼンラールがそこに居た。


「キースをどこに隠している?」


 紛れもない殺気を含んだ低い声。

 ごくり、と唾を呑んだカーライルは、出来るだけ相手を刺激しないよう、努めて笑顔で首を傾げた。


「隠してはいないぞ?」


 そう口にした瞬間、リーゼンラールの腕が動いたかと思うと、何かが空を舞ってカーライルの耳を掠めて壁へ激突した。


「ふぎゃっ!」


 白い羽毛が散り、何故か不自然な人の悲鳴のようなものが聞こえた。

 恐る恐る視線を巡らせると、床の上に白い羽毛が散り、その中に灰色の外衣を纏った男が鼻面を押さえながら蹲っていた。


「セツリ?」


 その名を呼ぶと、蹲っていた男は顔を上げた。

日に焼けた頬に刻まれた見事な青い紋様は、見知ったものだ。

 鳥の羽を象った紋様を持つ人物は、カーライルが、先日から会いたいと切に願っていた相手に間違いなかった。


「ううう、痛い……リゼは、相変わらず酷い……取り敢えず……おはよう」


 何故、セツリとリーゼンラールが一緒に現れたのか、しかも二人はどこで知り合ったのか、そして、リーゼンラールはキースの紋様の意味をしっているのか、次から次へと湧き上がる疑問がカーライルの頭の中を駆け巡る。


「カーライル様」


 しばし、目の前の事態を飲み込めずにいたカーライルは、地の底から響くような恐ろしい声音で呼ばれ、ぎくりと身を竦ませた。

 声の主に視線を移せば、それだけで相手を射殺すことが出来るのではと思わせる強い光を浮かべた濃紫の瞳が、カーライルを睨みつけていた。


「どういうことか、説明していただけますね?」


 それは、質問でも提案でもない、確認だ。

 説明しなければタダでは置かないという意思表示だ。

 喉が干上がるような恐怖を感じつつ、カーライルはどうにか引きつった笑みを浮かべた。


「丁度いいところへ来たな、リーゼンラール。今、おまえを呼ぼうと思っていたところだ」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「おはようございますっ!キース!」


 フィオリーナが襲われ、溺れた翌々日。

 昼間の自由な時間の過ごし方を、釣りから乗馬へと切り替えたキースは、厩舎に足を踏み入れたところで、突然暗がりから現れたフィオリーナに心底驚いて、危うく悲鳴を上げかけた。


「フィオ。驚かすな」


 いくら考え事をしていたからといって、気配に全く気付かなかった自分に内心舌打ちし、所在なさげに俯いているフィオリーナを見下ろした。


「もう、具合はいいのか?」


「はい」


 結局、身体を冷やしたせいで少し咳が出るということで、フィオリーナは寝台から出ないようにとサラに言いつけられていた。

 病気の女性を見舞うのは、あまり歓迎されることではないと思って、部屋を訪ねずにいたキースは、二日ぶりに見るフィオリーナが少し痩せたのではないかと薄い頬に何気なく触れようとしたが、突然フィオリーナが顔を上げたので危うく踏みとどまった。


「あのっ……キース!」


「何だ?」


 キースは、跳ね上がった心臓の動きと動揺を隠そうとしてつい仏頂面になる。

 それを見たフィオリーナは、黒い睫をしきりに瞬かせる。


「やっぱり、怒っていますよね……?」


 何のことだと首をかしげたキースに、フィオリーナは激しく頭を振る。


「あ、あんな失礼なことを言ったんですもの、怒って当たり前ですよね? 私、いつもキースには親切にしてもらっているのに、自分が上手く出来ないからと言って癇癪を起こして八つ当たりして、挙句に全部キースのせいにして……」


 どうやら、売り言葉に買い言葉で喧嘩したことを言っているらしいと分かり、キースはつい笑ってしまいそうになり、慌てて奥歯を噛み締めた。


「ごめんなさい」


 深々と頭を下げ、しおらしく謝ったフィオリーナだが、無言のキースに、恐る恐るその顔を上げる。


「あ、あのう……キース?」


 笑いを堪えきれなくなりそうで、キースは顔を背けたまま、待ちきれないというように頭を振る馬を引き出し、その背に鞍を乗せた。

 無視された格好になったフィオリーナは、茫然として立ち尽くしている。

 柵に馬を縛ったキースが再び戻ると、既にフィオリーナの黒い瞳からは涙が溢れそうになっていた。


「言いたいことは、それだけか?」


 キースの言葉に、ビクッと反応した拍子に、フィオリーナの瞳に溜まっていた涙が零れ落ちる。


「何で泣く? 別に、怒っていない」


「だ、だって、い、一度も顔を……」


 見舞いに来なかったのは、怒っていたからではないのかと嗚咽の合間に問うフィオリーナに、キースは苦笑する。


「病気の女性を見舞うのは、あまり礼儀にかなったことではないだろ?」


「で、でも…」


「それに、謝るのは俺の方だ。俺が助けるのが遅かったせいで、フィオは危ない目に遭った。悪かった」


「そ、そんなことは、ありませんっ! 溺れた私を助けてくれたのはキースだと、ミミから聞きました。魔法みたいに、生き返らせたって…」


「魔法……」


 ミミも、さすがに実際どうやってフィオリーナが助かったのかを説明するのは、刺激が強すぎると思ったのだろう。

 キースは、無邪気にその言葉を信じている様子のフィオリーナに、微笑した。


「まぁ、確かに魔法だろうな。御伽話にもよくある話だ」


「キースは、いつでも私を助けてくれますね」


 さっきまでの泣きべそはあっという間に鳴りを潜め、フィオリーナはいつもの嬉しそうな笑みを浮かべた。


「でも、危うかった」


「いいえ。ちゃんと助けてくれました」


「運が良かっただけだ」


 もう一頭の馬も引き出して鞍を着けようとしたキースは、ふとあることに思い至って、フィオリーナを振り返った。


「ところで、フィオ。馬に乗れるか?」


「はい? え、ええ。少しなら。でも、誰かに引いてもらわないと駄目です」


 貴婦人なら乗馬の一つも出来なくてはならないとわかっているのだが、馬上にいると身体が竦んでしまって何も出来ないのだと、フィオリーナはやや青ざめながら首を振った。


「じゃあ、相乗りするしかないな」


「はい?」


 キースは、フィオリーナを促して厩舎を出ると、先ほど引き出して待たせてあった馬を示した。


「ちょっとした散歩だ。付き合うか?」


「はいっ!」


 初めはキースの胸で固まっていたフィオリーナだが、しばらくすると慣れたらしく、背筋を伸ばし、少しだけキースから離れた。

 それを潮に、その身体を抱き寄せて、馬腹を蹴りつける。

 待っていましたとばかりに、よく調教された馬は弾かれたように走り出す。

 悲鳴も上げられずに固まったフィオリーナだが、しばらくすると辺りを見回す余裕が生まれたようで、首を巡らせる。

 広い庭を巡り、小高い丘のようになっている場所を越え、茂みを飛び越え、小さな池の辺まで来たところで、キースはようやく馬を止めた。


「ちょっと休憩だ」


「は、はい」


 フィオリーナは、キースに抱き下ろされるとそのままへなへなと座り込んだ。


「おい、フィオ! 大丈夫か?」


「は、はい」


 いきなり遣り過ぎたかと顔色を窺うキースに、フィオリーナは少し驚いただけだと微笑んだ。


「とっても速くて、びっくりしました」


 自分の館にいる馬がどんな馬であるかも良くわかっていない様子のフィオリーナに、キースは苦笑する。


「こいつは、数いる馬の中でも、かなり足が速い。貴婦人の乗馬用じゃない」


「そうなんですか」


「伝令に使ったり、戦場へ連れて行くような馬だ」


「まぁ! 全然、気付きませんでした。ランディが近づくのを嫌がって、いつもエドワードが世話をしていたので」


いくらランディが大人しくとも、狼の匂いを感じるだけで、馬は落ち着かなくなるのだろう。


「でも……とても可愛い顔立ちをしていますね」


 水を飲み終わって、草を食む馬を覗きこみ、フィオリーナは微笑む。

 馬の方も、褒められて悪い気はしないのだろう。撫でてくれというように鼻先をフィオリーナへ向ける。


「仲良くなれば、乗せてもらえるようになる。馬は、人を見るからな」


 馬に馬鹿にされていると、どんなに指図しても従ってはくれず、放り出されることもあるのだと説明するキースに、フィオリーナは軽やかな笑い声を上げる。


「では、私がいつも恐い思いをするのは、きっと馬鹿にされているんですね?乗った瞬間に、いきなり首を下げられて、転げ落ちたことがあります」


 あまりにもフィオリーナが頻繁に落馬するので、とうとうエドワードも匙を投げたのだと言う。


「賢明な判断だな。懲りずに続けていたら、その内首の骨を折っていたかもしれない」


「諦めが肝心なときもあるということですね」


 何気ない一言だった。

 だが、それは、キースの胸に思いのほか突き刺さる。


「キース?」


「え、あ、ああ。何だ?」


「元気がないと、サラやジェファスが言っていました。何かありましたか?」


 普段と何ら変わらぬ態度を取っていたつもりだったが、やはり人生の先達の目は誤魔化せないのだろう。

 キースは、黙っているとエドワードには約束したが、話してしまうべきではないかと思い、フィオリーナを見つめ返す。


「ミミにパイを奪われるなんて、絶対に何かあったに違いないと、サラが言っていました。どこか具合でも悪いんですか? それとも、エドワードに私のことで何か言われましたか?」


 自分の調子はパイで量られるのかと、情けなくなり、すっかり真面目な話をする気も失せたキースだったが、エドワードの名が出ると、どうにも落ち着かない。


「エディが煩いのはいつものことだ」


「でも……」


「何でもない。マートンに嫌味を言われっぱなしなのが、悔しいだけだ」


 マートンは、フィオリーナが溺れたのはキースのせいだと、エドワードを上回る怒りをぶちまけた。

 今回ばかりはその通りで、何も言い返せなかったキースだ。

 ただ、出来れば、別れる前に一度くらいは良くやったとマートンに認めさせられることが出来ればと思わなくもない。


「マートンは誰に対しても面と向かって褒めたりはしません。私だって、マートンによく出来たと褒められたことなんて、数えるほどしかありません」


 慰めるフィオリーナに、キースは褒めてほしいわけじゃないのだと思いつつ、少し風が冷たくなって来たと感じ、立ち上がる。

 フィオリーナを馬上へ抱き上げ、馬首を巡らせて、ゆったりとした速度で館へ向かう。


「まぁ、あの偏屈ジジイがへそ曲がりだとはわかっているけどな。毎朝、食堂まで運んでやったのに、礼の一つも言わないんだぞ。どっちが礼儀を欠いていると思うんだ。まったく……」


「でも、マートンはキースが好きだと思います」


「はぁっ!?」


 好きなら何で、ガミガミ煩いのだと文句を言うキースに、フィオリーナは笑う。


「マートンは、気に入っている相手にこそ、沢山小言を言うのです」


「それは、随分とマートンに都合のいい解釈だと思うが?」


「本当なんです。前に、若い侍従を雇ったとき、マートンは殆ど何も言いませんでした。それで結局、ひと月で彼をクビにしてしまいました。見込みのない相手には何も言うことがないそうです」


「……わかった。そういうことに、しておく」


 渋々、キースはフィオリーナの言葉を認めた。

 小言が多いのは、それだけ相手のことを気に掛けているという証拠でもあることは、マートンと張り合えるくらい口うるさい兄の存在が証明している。


「雨になりそうだな」


「はい。水の匂いがします」 


 空気中にある水分の量が分かるとでもいうように、フィオリーナは自分の鼻を示す。


「犬みたいだな」


「確かに、私よく鼻が利きます」


 匂いだけで夕食の献立も分かるのだと自慢する様子に、堪らず笑い出したキースを見て、フィオリーナは笑みを浮かべた。


「少しは、元気になりましたか?」


「ああ」


 フィオリーナと一緒にいると、うつろな場所も笑いで満たされる気がした。

 もっと早く出会っていたら、自分の人生は今とは違っていただろうか。

 そんなことを考えながら、腕の中にあるフィオリーナの温もりに、身体だけでなく心も満たされるような感覚を味わっていたキースは、ふと館の正面に馬車が止まっていることに気付いた。


「来客か?」


「そのようですね?」


 フィオリーナは、来客があるとは聞いていなかったと首を傾げる。

 豪華な造りではないものの、一介の庶民が馬車を使うことなど滅多にない。

 それなりの身分の客人だろうと見当をつけたキースは、フィオリーナを裏口へ連れて行くのを止め、玄関先へ下ろすことにした。


「マートンが探しているかもしれない」


「はい」


 先に馬を下り、フィオリーナを抱き下ろそうと腕を伸ばしたキースは、いきなり背後から声を掛けられ、驚いた。


「キースランド」


 久しぶりに呼ばれた名に驚いて、思わずフィオリーナを取り落としかけ、慌てて抱き締める。


「きゃっ!」


 フィオリーナは、びっくりしたというようにキースの首筋にしがみ付く。


「悪い、フィオ」


「い、いえ」


 あまりの密着ぶりに頬を赤らめたフィオリーナを地面へ下ろし、キースは聞き覚えのある声の持ち主を予想しながら振り返る。

 金に輝く髪と濃紫の瞳。

 父とそっくりの容貌をした兄が、見ただけで凍りつきそうな程の物騒な面持ちでキースを睨んでいた。


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