第五話:最後の忠告
こちらを向き直る魔王には悲しみの色はなかった。
さて、と前置きをすると水差しから水を汲んで差し出してくれる。
「ここまではいいか?質問があれば今のうちだが」
「はい、大丈夫です。多少理解が及ばないところはありますけど、なんとかなると思います」
「住めば都、というには無理矢理すぎるが何も持たずに放り出されるよりは幾分か、いやむしろかなり上質な生活が送れることは保証するぜ。なにせ、ここは力一つで成り上がれる国もある、金銀財宝の眠るダンジョンもある、夢も希望もそして絶望にも事欠かないくそったれな世界だからな」
はっはっはっ、と軽く笑う魔王。
「そんでまあ、最後だな。これはさっきもちらっといったと思うんだが、改めて伝えさせてもらう」
さっきも?
何かあっただろうか?
魔王はベッドに座る僕に目線を合わせ、一呼吸置いてから静かに、口を開いた。
「この世界から、元の世界に帰る方法は、無い」
そう、そうだ。
もう元の世界には帰れない。でも
「あ、はい。わかりました」
自分でも意外なほどに、この事実に関しては、僕は落ち込まなかった。
僕は惰性で生きていた。
大学もバイトも生活の中にも、何一つ心が燃えるものがなかった。
そこに転がり込んだ、人生を変えるチャンス。
こんなにもワクワクする心が僕にもまだあったのか。
僕の男としての本能は、まだ錆びついてはいないようだった。
「お、おぉ?意外にあっさりしてんな。ここが一番取り乱すとこなんだが」
「魔王さんが長年こっちで生きてきた中で、帰る方法を探し求めてきた結果そういう結論に至ったんですよね。じゃあ、無いんですよ。しょうがないです」
それに、と続けた。
「僕は結構、男の子だったようですよ。こんな状況でもこの世界に恐怖より希望を感じているんです。ワクワクして、胸が熱い。こんなこと、前の世界じゃ、なかった」
僕の目が魔王を強く見据える。
「だから僕は」
きっとこの先思いもよらない困難があるのだろう。
「この世界で」
でも、それを超えるほどの希望がある。
「あなたの意思を継ぎ、この世界を死ぬまで謳歌したいと思います」
僕は力強く、滅びゆく魔王に宣誓した。
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「じゃあ、俺は玉座の間の片付けとかあっからもう行くわ。俺が死んだ瞬間からレベルアップが始まるから、なるべくベッドの上にいとけよ。危ねえからな」
「何から何までありがとうございます。魔…いや、吾郎さん」
久しぶりに呼ばれたわー、と言いながらヒラヒラと手を振り魔王は去っていった。
一人になった僕は魔王から貰った資料に目を通す。
この世界の簡単な位置関係を示した簡易地図や七大種族の相関図、この世界での簡単な常識、タブーといったことが書かれている。
「えーっと、宝物庫の武器は目立つから持ち出さないこと。金だけにしとけ。食料は魔族特有の毒を含むものがあるから気をつけろ。手当たり次第に食うと死ぬぞ。武器庫で自分に合う武器を探してスタンダードなものを持っていけ。武器は装備しなきゃ意味が無いぞ…魔王さんてゲーム好きなのかな」
レベルアップが終わってからの行動もある程度決めてくれているようだ。
しかし、よくこんな資料をすぐに作れたものだ。
まるで、自分の未来が、わかっていたかのよう…?
数時間は経っただろうか。
資料はある程度見終えたが、やはりわからない単語がちらほら出てくるため理解したとは言い難い。
「まあ…考えても仕方ないか。とにかく今は落ち着いて来るべき時を待とう」
ベッドに横たわり、これから起こるであろう苦難を思う。
今まで生きてきた中でこんなにも緊張したことがあっただろうか。
魔王をして、死ぬほど辛いと言わしめる"成長痛"がこのあと僕を襲う。
そしてそれが終わる頃には僕は本当の意味で独りだ。
口の中がカラカラで舌のサラサラとした感触が伝わる。
ギシッとベッドを軋ませ、起き上がりテーブルに目を移す。
水差しから水を汲んで口に含もうとしたその瞬間
地獄が始まった。