メルルーサを白身魚と表現するようなもんだろう
人間の感覚なんてものは当てにならない。直感的な認識が間違っているなんて事はよくある。人間の行動は非常に複雑で、だから単純に何か一つの要因にその原因を求める事はできないのに、それを単純化して捉えてしまったりだとか。
例えば、貧困地帯では犯罪が多い。なら、貧困と犯罪に因果関係があるのかと言えば、それは違う。貧困は間接的に犯罪の発生に関与しているに過ぎないし、しかも犯罪行動に人を至らしめる要素のネットワークの一つに過ぎない。
貧乏な人だからって犯罪者だとは限らないし、金持ちだからって犯罪者じゃないとは限らない。
ま、当たり前だけど。
じゃ、この事実が犯罪を減らす上で、何も役に立たないかと言えば、それは違う。ちゃんと貧困を減らせば犯罪は減らせる。貧困と犯罪に因果関係があるかと問われれば“NO”だけど、相関関係があるかと問われれば“YES”だからだ。
ここで大切なのは、「貧乏人だから犯罪者だ」などというレッテルを社会に生み出してはいけないという点。それは差別意識を生み、不仕合せを生み出す。つまりは、その事実をどう解釈し、どう行動に結び付けるのか?って点がとても重要なんだ。
さて。
これと似たような話に“魚食”の話がある。
日本社会は世界の中でも非常に珍しい特性を持っていると言われている。
性暴力表現に対して規制が甘く、子供達の目に触れる所にそういったものが溢れているので、欧米の常識から観れば信じられないらしい。「性暴力が増える」、と。ところが、実際に性暴力が社会問題として深刻なのは欧米の方で、日本は世界の中でも桁違いに安全な社会なんだ。
一体、どうしてなのだろう?
色々な要因が考えられる。例えば、日本語は母音を多用する言語で、その所為で虫の声などを左脳を使って聞いているというかなり珍しい特性があるらしい。これは虫の声を人の声と同じ脳で聞いているという事だ。結果として、日本人は何かと“共感する”という能力が鍛えられ、それが犯罪抑制に繋がっているのかもしれない。
もちろん、分からないけど。
他にも豊かな社会のお蔭で、貧困が比較的少ない点やほぼ単一民族である点などが挙げられているのを見かけるけど、その中の一つに“魚食”文化がある。
海の魚の多くに含まれているオメガ3には犯罪抑止効果があり、その魚を日本人は大量に食べているから、犯罪が少ないと、つまりはそんな理屈らしい。
馬鹿馬鹿しいって思うだろうか?
よくある胡散臭いワイドショーなんかの信頼のおけない話と確かに似ているようにも聞こえる。ところが、これにはある程度の明確な証拠があるんだ。魚を食べる量と殺人事件の発生率を国毎に調べた人がいるんだけど、それによると、なんと驚いた事に見事に負の相関関係があったらしいんだ。
つまり、魚を食べる量が増えれば増える程、殺人事件の発生率が下がっているという事。
この事実は無視できないだろう。もちろん、“魚食”は先にも述べた通り、人間行動を構成するネットワーク要素のうちの一つに過ぎない。だから“魚をよく食べる人”は安全で“魚を嫌いな人”は危険なんて安易な考えはつくってはいけない。
だけど、これは大いに利用するべきだとも思う。魚食文化をその社会に浸透させることで、犯罪発生率を下げることが可能かもしれないからだ。もちろん確証はない訳だけど、試しにやってみるというのも、一つの手かもしれないじゃないか。
が、世の中ままならないものだ。それを試す上で一つ大きな問題がある。それは“水産資源の枯渇”問題。早い話が、魚を捕り過ぎて海から魚がいなくなってしまうかもって大問題がある訳だ。
年間で自分の体重以上の量の魚を食べると言われる日本人並みに、世界中の人達が魚を食べ始めたら、間違いなく数多の魚を絶滅に追いやってしまうだろう。
ここで、“牧畜”と“漁業”の違いをよく認識しておこう。牧畜は人間がコントロールし、意図的に増やした動物を利用している。ところが“漁業”は違う。自然に勝手に増えただけの魚をただ捕っているんだ。つまり、機械化により進歩したとはいえ、形態としては原始時代から続く狩猟を未だにやっているという事になる。
だからこそ、漁獲量を増やすと魚を捕り尽くしてしまうかもしれない訳だ。ならば、その解決策は非常に単純だ。魚においても牧畜と同じ事をやればいい。つまり、養殖技術を発達させて実施していけばいい(マグロやウナギの完全養殖が実現する事を、切に、切に願います)。まぁ、当たり前の話なんだけど。
ただし、養殖っていうのは非常に難しい。そんなに簡単に実現するものじゃない。もし、犯罪抑制の為に、魚食文化を根付かせるというのなら、まずは養殖が容易な魚から試していくべきだろうと思う。そして、もしそれでも間に合わないようなら……
“メルルーサ”って魚を知っているだろうか? 多分、知らないって人も多いのじゃないかと思うけど、日本人なら多くの人が食べた事があるはずだと思う。
ほら、弁当とかに入っている正体不明の白身魚、あれが、実は“メルルーサ”だったりする場合があるんだ。
安価で美味しいから利用されている理由にも納得がいくのだけど、その名前が商品名に使われているケースを僕は知らない。“メルルーサ定食”なんて聞いた事がない。まぁ、日本人にはあまり馴染みのない魚だから、多分、それで伏せられているのだろうと思う。
さて。
仮に今が未来だったとしよう。
君はある魚の養殖を行っている会社に就職をしているんだ。管理をやっている訳だけど、新入りでまだあまり事情に詳しくない。魚の種類は、品種改良されたイワシだと君は聞かされている。ただ、その魚は君が記憶しているイワシの姿とは似ても似つかない。非常に大きく肉厚で、それに対してヒレは小さい。水槽で飼われていると言っても、その水槽は金網で区切られていて、自由に泳げるだけのスペースはなく、その大きな身体が窮屈そうにそこに納まっている。機械でプランクトンを含んだ海水を循環させていて、そのイワシは自動的に流れてくるプランクトンを食べて生育するのだ。何も聞かされていない状態で見せられたら、絶対にイワシだとは思わないだろう。
しかし、商品名は“イワシ”になっている。君は思う。
“まぁ、メルルーサを白身魚と表現するようなもんだろう”
初めこそはその異常な光景に君は気圧されていたが、今ではもう慣れてしまっている。随分と昔から鶏舎や豚舎、いや畑までもが“工場化”されていると揶揄されているのだ。魚の養殖だってきっと似たようなものなんだろうと君は自分を納得させたのだ。
ただ、少しばかり気になる事もあった。
君がやっているのは機器の操作だけで、まだ実際にその魚には触れた事がなかった。漁獲から加工出荷までの流れは自動化されていて、触れる必要がないからだ。当に工場。
だから君は好奇心を非常に刺激されていた。もしも、間近で“あれ”を見たら、どんな姿をしているのだろう?
ある日だ。君は誰もいない時を見計らって、普段は立ち入り禁止になっているその部屋に入り、例の“イワシ”の姿を見る為に水槽に近付いて行った。そして手袋を嵌め、そのうちの一匹を掴んでよく観察しようとする。しかし、その姿を一目見た瞬間に君は背筋に悪寒を覚え、恐怖からその魚を放してしまった。
幸い、魚は元いた仕切りの中に戻った。
君は思う。
“これは、絶対にイワシじゃない。何かの知らない深海魚だ”
なんと、その魚には目がなく、プランクトンを食べる為か口やエラばかり大きく、身体は不自然なほどに柔らかく、すっかり退化したヒレは泳ぐことができないのではないかと思える程に弱々しかったのだ。
恐怖を覚えながらも、君はもう一度、その魚を見ようとする。ところが、そこで声がかかったのだった。
「あ~あ、見ちまったか」
そこには会社の先輩がいた。君は自分の行動を誤魔化すのも忘れてこう問いかける。
「この魚は一体、何なんですか?」
先輩は澄ました顔でこう返す。
「イワシだよ」
「イワシ? これが?」
「ああ。ただし、遺伝子操作によって養殖し易いように改良された、な。ま、信じられないのも無理はないが。俺も最初は信じられなかったし。
断っておくが、何処でも似たようなもんだぞ? これと似たようなもんが世界中でつくられて、世界中どこでも食べられているんだ。もちろん、俺もお前も食べている」
その後で君は戦慄する。
“なんだって? 自分は、今まで、こんなものを食べ続けていたのか?”
そして君は興奮してこう尋ねる。
「こんな事が許されて良いんですか? 皆がこんなおぞましいものを食べさせられていただなんて……」
すると先輩は肩を竦めた。
「だが、“それ”のお蔭で、俺達は食に困らないでいられるんだぜ? もしも、この技術がなかったら、もっと多くの魚が絶滅していたはずだし、飢えて死んでいる人達だってもっと大勢いたはずだ。それに、もしかしたら、本当に魚を食べているお蔭で、犯罪だって減っているのかもしれないんだ。
感覚で受け入れたくないのは分かるよ。だが、何も考えず、本当に短絡的にそんな結論を出してしまって良いのか? それを否定したら、社会は他の多くを失うんだぞ?」
君はそれを聞いて分からなくなる。
“おぞましい”とは思う。“受け入れたくはない”とも思う。だが、それが本当に正しいと言える事なのかどうかは分からない。
君はそこに立ち尽くし、その異常な光景を前にして、ただただ人間社会の業の深さに慄くのだった。
さて。
冒頭の言葉を、もう一度、繰り返そうか。
人間の感覚なんてものは当てにならない。直感的な認識が間違っているなんて事はよくある。
もちろん、この話はフィクションだ。だけど、恐らくは、これと似たような事は実現できるだろうし、既に始まってすらいる。
一応断っておくけど、これは問題提起の為の小説だ。ここで答えを出すつもりはない。これを実現可能にする技術を促すべきなのかどうかなのか、果たして君はどんな“答え”を出すのだろう? また、出せないのなら、どうして出せないのだろう?
深く慎重に考えてみる事を、君に望む。