8
セレンが夢中になって本を読んでいると、いつの間にか太陽が一番高い位置に来ていた。強い日差しが差し込んで、ウォルフは眩しさにゆっくりと目蓋を開く。
「ウォルフ、もう少し寝てたら?」
「大丈夫だ。よく眠れた…」
ゆっくりと身を起こすウォルフに気がついて、本を置いたセレンは近寄って声をかける。それに首を横に振り、ウォルフは立ち上がって肩をまわした。
「腹は減っているか?」
「ううん」
「そうか、」
大丈夫、と答えたセレンにウォルフはすこし考える素振りを見せる。
「少し、外に出るか?急に森を歩きまわるのは難しいだろうが、支えがなくても歩けるならこの小屋の周りくらい平気だろう」
「いいの!?」
外、と聞いてセレンは飛び上がったがよろめいてしまった。それを支えたウォルフが「やはり、見送るか…」と呟くのを聞いて、セレンは焦った。
「だ、大丈夫!歩くならもう余裕だし!いまは、ちょっと失敗しちゃっただけで!」
「…冗談だ」
握りこぶしを大きく振ってアピールするセレンにウォルフは口角を上げ、丁度いい位置にあるスカイブルーの髪に手を置いて肩口まである柔らかい髪をかき交ぜた。
「子供扱いしないでよ!」
「淑女はそんなふうに頬を膨らませない」
頭にある手を払いのけて髪を整えながら頬を膨らますセレンに、ウォルフはバカにしたような目を向ける。明らかな悪意にセレンは軽くウォルフを拳で叩き、続けてもう一撃、という所で手を止めて肩を落とした。
「ご、ごめん。痛かった?」
「かすり傷だ、大した痛みではない。それに、どちらかというと薬を塗られた時の方が痛かった」
「…ごめん、へたくそで」
軽口を言ったつもりだったウォルフは、更に小さくなるセレンに眉間のしわを和らげる。
「冗談だ」
「もう!ウォルフの冗談は紛らわしい!」
セレンは子供っぽく顔をそむけて腕を組んだ。コロコロと素直に変わる表情に、ウォルフはふと不思議そうにセレンを見つめた。
「なに?また子供っぽいって思ったの?」
「いや、お前はなにも聞かないんだなと、思っただけだ」
むくれるセレンは何を、とは聞かなかった。少し困ったように眉尻を下げるウォルフを珍しく思いながら、悪戯っぽく笑う。
「だって、ウォルフだって聞かなかったじゃない。だから、おあいこ」
ね?と首をかしげるセレンに、ウォルフは「そうだな」と頷いた。
「さて、外に出るなら靴が必要だが……生憎、ここに女物はない」
「くつ?」
「…俺がいま足に履いている革靴をという。外は室内と違って硬いものや鋭いものがあるから、怪我をしないように履くんだ」
「へえ、そうなんだ…」
まじまじと革靴を観察するセレンに、ウォルフはソファーに座って待っていろ、と言い残して部屋を出て行く。
しばらくすると、ウォルフは足の形をした平べったいものと、小さな刃物のようなもの、白い幅のある紐、小さな箱を持ってきた。
不思議そうにしているセレンの目の前に片膝をついたウォルフは「足をだせ」と指示し、自分の腿に赤子のように柔らかな足を置く。
「簡単だが、今から靴を作る。これは、いらなくなった靴の靴底だ」
そう言って靴底を見せ、ウォルフは小さな箱を開ける。どうやら、訳が分からず目を白黒させるセレンに解説しながら作業をしてくれるらしい。
「この裁縫箱といって、服を作ったりする道具が入っている。この中から鉛筆を出して、お前の足の形を靴底に書く。そして、このハサミで線に沿って切り……針に糸を通して解れないように端を縫っていく…………後は、このリボンを縫い付けて結ぶ……」
時折、道具を見せながらウォルフは手際よく靴を作っていく。初めて見聞きするものを覚えようと、セレンは教えて貰った単語を繰り返しながら、まるで魔法のように靴を完成させていくウォルフの大きな手を見つめる。
「ほら、出来たぞ」
「すごい!!靴って作れるんだ!」
「そんな、大したものではない。ありもので作った簡易なサンダルだが、これで怪我はしないだろう」
「そんのことない。あたしにはこんなすごいの作れない…十分すごいよ!」
はじめて履く靴に足をばたつかせながら喜ぶセレンは、ウォルフを褒めちぎった。
「そうか、」
「そうだよ!ありがとう、ウォルフ」
すこし照れくさそうに苦笑するウォルフに、セレンは満面の笑みで頷く。
「ほら、立ってみろ」
「うん!」
立ち上がったウォルフが手を差し出し、手を取ったセレンを引き上げる。足の裏に感じる異物感にセレンは少しだけよろけたが、支えられていたのでしっかりと立つことができた。何度も足踏みをして、感覚を確かめる。
「これが、靴かあ…」
「慣れたら、外に出てみるか?」
「うん!」
提案に頷き、ぎこちない足取りで扉に向かってウォルフの手を引っ張って急かす。
「ねえ、早く外に行こう!」
「そんなにはしゃぐな、転ぶぞ。それに、お前は出口を知らないだろう」
そうだった、と足を止めるセレンに溜息をつき、ウォルフはそっと頼りない腕を引いて玄関まで案内した。
「ここを出れば外だ。足元をよく見て歩くんだぞ」
「うん」
セレンが頷いたのを見て、ウォルフは扉をあける。
「わあ、これが…外!これが陸!!」
窓からの狭い景色とは違い、360度広がる景色にセレンは何度もあたりを見回した。ウォルフが手を繋いでいなければ、風船のように飛んで行って踊りだしそうな雰囲気だった。
「ねえ、ウォルフ。どこまでなら歩いていいの?」
「この、茶色い地面だけだ。木が生えて草が茂っている所は整備されていないから、入らないように」
「分かった!ねえ、ウォルフ。あたし、木に触ってみたい!」
「ああ、」
我慢できないとでも言うように「ねえねえ」と軽く手を引っ張るセレンに、ウォルフはゆっくりと歩き出す。室内の床とは違う凹凸のある地面が完成していない柔い足裏を刺激したが、セレンはそんなこと気にならないぐらい、初めての大地に興奮を隠せない。
「わあ……」
(木って、こんなに硬くてガサガサしてるんだ…葉っぱはつるつるしてて、冷たくて気持ちいい……)
木の幹を触ったり、葉を紅潮した頬につけて目を細めるセレンに、ウォルフは偶にふらつくその背に軽く手を添えて見守る。
年は聞いたことはなかったが、成人が近いであろうセレンの反応は明らかに異常だった。常識も何も、幼子でも知っていることすら知らないセレン。外に出るだけでこの反応だ。
美しい白魚のような手は深層の令嬢のようで、滑らかで未発達な足は赤子のよう。腰にあった痛々しい歯型のような傷は目を瞑るとして、容姿だけなら美しい貴族の御令嬢で通る。
しかし、その容姿に反してセレンは自由で無邪気、素直な娘だった。悪く言うと粗暴でもあるが。貴族とは無縁の存在だとウォルフは思う。
記憶喪失だと言ったセレンが、何かを隠していることはすぐに分かった。記憶喪失だとしても、そうでなくても、右も左も分からないセレンを放るのは良心が痛むと思い、ウォルフは世話をしようと決めた。
最初は、気が進まなかった。敵対心を向きだすセレンに面倒だと思ったが、その中に恐怖と怯えが見え隠れしていて、野良猫の世話をしているような気になり、何かと細やかに面倒を見てしまった。
あとこの島に滞在する日にちは5日しかない。セレンを街に連れていくにしても、このままではセレンは3日と持たずに死んでしまうだろう。だから、出来る限りのことを教えようとウォルフは考えていた。
付け焼刃で一人前にセレンが暮らせるとは思わないが、何もしないよりはずっとましだ。そう思いながら、地面にしゃがみ込んで虫の行列をつつくセレンに「それは蟻だ」と教えてやった。
「ねえ、ウォルフ!あの森の奥に居る黒い生き物は?」
セレンが指さす先には黒猫が居た。自分と同じ琥珀色の瞳を持つ小さな存在に首をかしげながら「あれは猫だ」と言って、今まで島に居なかったはずの走り去る小さな背を見送る。船にでも紛れ込んでいたのだろうかとウォルフは考えを巡らすが、セレンに腕を引かれて考えるのをやめた。
「あの棒はなに?」
「あれは、物干しだ。汚れた衣服を洗ってあそこに引っ掛け、太陽の光で乾かす」
「へえ、」
矢継ぎ早にされる質問に丁寧に答え、止まらないセレンの知識欲にウォルフは「夕方になるから、また明日だ」区切って不満そうにする腕を引いて家の中に入った。
セレンをリビングのソファーに座らせると、ウォルフは冷たい水を持ってきて靴を脱がせる。真っ赤になってじんじんと痛むセレンの足を桶の中に入れ、休んでいるように言い、ウォルフは夕食の準備に取り掛かった。
ひんやりと気持ちい水にホッと一息をついて、やがてぬるくなってきた水から足を出して横に置いてあった布で拭く。室内でも靴を履いているウォルフに倣い、紐を結ぶのに苦戦したがセレンも靴に足を通した。
「慣れていないのだから、脱いだままの方がいい。足に豆ができると痛いぞ」
達成感に浸っていたセレンはウォルフの言葉を聞いて、足にも豆って出来るんだ、と思いながら靴を脱ぐ。痛くなると、明日に支障がでて外に出れないかもしれない、豆ができる痛みより、外に出れないほうがセレンにとっては苦痛に感じた。
素直に言うことを聞くセレンにウォルフは満足そうに頷き、次々と料理をテーブルに並べた。
「さあ、出来たぞ」
イスを引いて待つウォルフにセレンは今度はどんな食事だろうと、心を躍らせる。
今回の食事は昨日の夜食べた黄色いかぼちゃのポタージュ、豚ヒレ肉の香草焼きと、ポテトサラダ、ロールパンだった。お肉は香ばしくスパイシーで、白パンはライ麦パンより柔らかでおいしかった。
食事が終わりセレンが片付けを手伝っていると、ウォルフがテーブルの端に置いてある本を見て口を開いた。
「本の内容は分かったか?図鑑で絵は多かったと思うが」
「文字が分からないからこういうのがあるんだ、ぐらいにしか…」
首を横に振るセレンに、そうかとウォルフは頷く。
「これが終わったら、基本的な文字と、何の絵だったのか教えよう」
「本当!?じゃあ、急いで終わらせなきゃ」
意気込んで皿を拭くセレンに食器を割らないように注意をして、ウォルフは作業が終わると紙と羽ペンを持ってきて文字を書いて見せる。
セレンはその隣に座って熱心に話を聞き、一通り説明が終わるとウォルフから練習用に筆記用具を受け取って部屋に戻った。
日が暮れるまでウォルフの見本を見ながら一心不乱に文字の練習をしていると、扉が閉まる音がして窓から外を窺う。
(ウォルフ、また外に……)
朝のウォルフの傷が頭によぎって不安になるが、セレンは頭を横に振る。
(ウォルフは森に慣れてるし、何回もここで過ごしてきているはず。いままで無事に過ごせてたんだから、大丈夫……)
そう言い聞かせて、セレンは再び落書きのような文字を書き始めた。
しばらくすると太陽が隠れて暗くなり、セレンは羽ペンを置いて背中を伸ばした。そして布団にもぐりこみ、何回か寝返りを打っていると遠くで獣の遠吠えが聞こえ、勢いよく起き上がった。
(寝れない…)
ウォルフの無事を案じて中々寝付けないセレンは、意を決して靴を履く。
(ウォルフが、獣にあったら大変だ。手ぶらで武器を持っていないようだったし、あたしが先に見つけ出して歌で眠らせてしまおう)
そうすれば安全だとセレンは玄関を開け、あたりを見回す。どこからか獣の声はするが、どこからか遠吠えが聞こえるが、場所までは分からない。
どうしようとセレンが悩んでいると、昼間に見かけた猫を見つけた。月に照らされる瞳は金色に輝いて不思議だった。猫と目が合うと、まるで人間のように顎をクイックイッと、ある方向を差す。
戸惑いながらセレンが森へと足を進めると、猫は案内をするように軽やかな足取りで導く。それについて行き、初めての長距離にセレンが息を切らせて手を膝につくと、猫の姿が見えなくなった。
慌てて目を凝らして探すが、黒い小さな体は闇に隠された探し出すことが出来ない。不安に縮こまる体に大丈夫と言い聞かせて歩き出そうとした時、遠くから草をかき分ける音がした。
大きな音にウォルフかと思ったが、その期待は外れて、遠くに見えるその巨体にセレンは身を震わせた。
黒い体毛に覆われ、尖った鼻とその下から覗く犬歯。耳はピンと尖っていて、遠目でも分かるほど太い四本の足には鋭い爪があることが容易に想像できた。
その姿は大きさは違えど、ウォルフに教えて貰った図鑑の絵にそっくりだった。
―漆黒の巨大な獣の名は、オオカミ
次回、1月21日(水)更新予定です。