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夢を見た。
鮮やかな海底で色とりどりの魚に囲まれ、美しいサンゴ礁が引きつめられた海の王国。明るい歌声が絶えず響き渡り、ふかふかな巨大なクラゲの上で寝転がりながら鑑賞する。そして、誰が好きだの嫌いだの、姉妹で他愛のない噂話をして。
そんな、きれいな夢。
まだぼやける視界を覆い隠すように、セレンは腕で瞼に当てる。まるで見てはいけないものを見てしまったようで、気分は下降の一途をたどった。
裏切り者の一族には決して叶わない夢。
おとぎ話のように、『人魚姫』の物語は単純で都合のいいもではない。
人間の世界に関わってはいけない決まりを破れば、罰せられるし、罪のない家族も咎を背負わなければならず、子孫であるセレンも生まれた時から償っていた。
追放された王族のほとんどは急な環境の変化についていけず病気を患ったり、生きることを放棄してしまった。数少ない生き残りも血を繋いだが、血縁が近すぎる子供はみな短命で一族の人数は増えもしなかったし、凶暴な鮫などに食べられてしまうことも少なく……
そうしているうちに、セレンは一人になってしまった。頼る者もいなかったし、助けてくれる者もいない。
幸い、14歳のまでは母が育ててくれたので生活する術は身に着けており、17歳まで生き残ることができたが、何日も食べ物がない時もあったし、鮫に襲われて命の危機を感じたこともあった。今でも、その時に負った薄い桃色の引き攣れた腰の傷痕が疼く時がある。
決して、幸せな生活ではなかった。
なにも罪を犯していないのに不当な扱いだとすら思っていたし、地上に行く罪のことなど今さらだと考えていた。
罪を犯す前から償いをしていたのだから、むしろ、罪を犯したことで均等が取れたようにセレンは感じた。
そして、人間の世界で『人魚姫』の物語を聞いてセレンは虚しくなった。
自分たちはこんなにも苦しんだのに、そんなものはなかった事のように描かれたキレイなお話。まるで、自分の存在を否定されたようだった。
キレイなお話に、汚いものは必要ない。
そう、言われた気分だった。
もちろん、人間の書いた物語なのだから人魚の事情など知る筈もないし、術もないのは分かっている。けれども、ウォルフが語った物語に心臓の周りがギュッと締め付けられた。
「……もう、やだ」
ほんの少し『裏切りの人魚姫』のことを知っただけでこんな気持ちになるくらいなら、もし真相にたどり着いたらどれだけ辛い思いをするのだろうか。
そんな気持ちがポロリと、セレンの唇から洩れた。そうでもしないと、溜まった鬱々とした気持ちをどこにやったらいいか分からなくなりそうだった。
一度声に出したらもっと声に出したくなり、セレンはうつ伏せになって枕に顔を押し付ける。
「あああああああああっーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
布団の中で足をバタバタと叩きつけ、セレンは鬱憤を晴らした。そして、勢いよく起き上がってベッドの上に座り、自分の頬を思い切り叩く。
「よし!」
これで終わりとばかりに切れのいい音を鳴らし、大きく深呼吸をした。
(一度決めたんだから、やり切ろう。真実は辛いかもしれないし、そうでもないかもしれない。分からないことを悩んでても、どうしようもないし……それに、海に戻ってどうするっていうんだ)
ここまで来たんだから、弱音を吐いても後戻りはしない、とセレンは頷く。
(それに、『人魚姫』の物語は人間が作ったものなのに、人間である王子が良く書かれていない。ふつう、人間が良いもので、それ以外は悪いものとして書かれるはず。あたしが知らないことがもっとあるに違いない……隠れた真実があるのなら、それを探そう)
今後の方針を決めて心の余裕ができたセレンが、ふと外を見るともう日が沈むところだった。
「お昼になったら、起こすって言ってたのに……」
ウォルフが居るほうに向かって文句を言うと、サイドテーブルが目に入り、そこに簡単な食事が置いてあることに気がついた。
(あとで、お礼言わなきゃ……)
少しぬるくなった黄色いスープを口に入れると、とろりとした甘さが広がる。朝食べたスープも少し甘みがあったが、今回は格別だった。
他のメニューを見ると色とりどりのジャムとライ麦パン、果実水が置いてあり、それは全てセレンが好む甘いもので、まるでウォルフが慰めてくれているように思え、セレンはギュッと口を結んで目頭に力を込めた。
そうでもしないと、不覚にも泣いてしまいそうだった。
一呼吸を置き、一口ずつ優しい味を噛みしめてセレンは無言で食事を進める。
人間の世界に来て、今までで一番響いた食事だった。
ほとんど食べ終わる頃、外の方から扉が閉まる音がして窓の方を振り返ると、暗闇が迫る森にウォルフが向かうところだった。
「…ありがと」
緑に紛れていく背中にセレンはそう言って、再び食事を進めた。
食べ終わる頃には殆ど暗闇に包まれていたので、セレンはたどたどしい足取りでキッチンに汚れた食器を置き、布団に入りこむ。
(…夜の外は危ないって言ってたけど、ウォルフは大丈夫なのかな?ちょっと、心配だな…………)
荒んでいた気持ちはいつの間にか丸くなり、セレンは穏やかな眠りにつくことができた。
睡眠時間が長かったためか、セレンは朝日が昇るとほぼ同時に目を覚ました。
固まった体を伸ばし、窓を開けて身を乗り出したセレンは胸いっぱいに空気を吸う。朝の冷たいは白む空のように清廉で、通り抜ける木々の香りはさわやかだ。
まるで、胸につっかえているものを洗い流すようだった。
空気を入れ替えたセレンはベッドを下り、物音がするキッチンに向かう。今日は自分で起きれたので、ウォルフに挨拶をしたかった。
(初めての早起きだ…最近、寝てばっかりだったから体がだるかったけど、今日はなんだか体が軽い。ウォルフ、びっくりするかな?)
弾む気持ちで扉をあけると、上半身裸のウォルフが背もたれのついた長椅子に座っていた。その横には、小瓶と白い布切れが転がっている。
「おはよう、ウォルフ」
起こさない限り部屋から出てこなかったセレンが急に現れ、ウォルフは一瞬固まったが、自分の恰好を思い出して慌ててシャツを羽織る。服という概念がないセレンは焦った様子のウォルフに首をかしげる。
「…?おはよう」
「ああ、今日は早いんだな」
セレンがもう一度挨拶をすると、ウォルフはボタンを留める手を忙しなく動かしながら答えた。
「きのう、たくさん寝たから目が冴えちゃって…」
「そうか。……今、お湯を用意するから体を拭いてくるといい」
「ありがとう。あたし、自分で出来るようになりたいから、一緒にやってもいい?」
「ああ、そうだな。これぐらい、出来るようになったほうがいい」
シャツを整えながら立ち上がるウォルフの後ろについて行こうとしたが、セレンは目線より少し高い項に斜めに朱が走っているのが見えた。
「ウォルフ、傷がっ…」
それを教えようとセレンが手を伸ばすと、勢いく振り返ったウォルフの腕に弾かれる。
「……すまない、驚いただけだ」
「ううん。あたしこそ、急に触ってごめん」
目を丸くするセレンに、ウォルフはバツが悪そうに視線を逸らした。気にしてないと首を振って謝罪し、セレンは部屋に入った時のウォルフの上半身を思い出した。
(そう言えば、はっきりとは見えなかったけど、他にも傷があったような……)
注意深く見ると、ウォルフの腰のあたりに少し血が付着している。先ほど、服を着ていなかったのは傷の手当てをしようとしていたのではと思い、セレンはウォルフのシャツを勢いよく捲った。
「…っ!?」
「やっぱり……」
完全な不意打ちで硬直するウォルフを無視して、セレンは鍛えられた腰や腹に細かい擦り傷などがあるのを確認した。立ち直ったウォルフは、小さく血のついたシャツに眉間のしわを深くする。
「血は止まったと思ってたんだが……それにしても、お前は慎みというものがないのか」
呆れながらたしなめる様にセレンを睨み、その手を解いてシャツを直そうとするウォルフの腕を、小さい手が力強く握った。
「誤魔化さないで。隠したいなら隠してもいい。でも、見ちゃったんだから、心配になるよ!」
唇をかみしめてウォルフを見上げると、鋭く釣り上った瞳の下に濃い隈がある。それに気づいて、セレンはさらに強く太い腕を握る。
(この人は、あたしのことたくさん気遣ってくれた。昨日、泣いたことも変に思った筈なのに、なにも聞かないでいてくれる。今も、怪我をしてるのにあたしのことを優先してる……秘密にしたいからだとしても、適当に理由をつけてあたしを部屋に返せばいい話だ。なのに、あたしは自分のことばっかりで、すぐに気付いてあげられなかった)
悔しいと、情けないと、セレンは思った。そして、膜を張って揺らめくアクアマリンを必死に抑えつける。
「あたしが居ないほうがいいなら、部屋に戻る。でも、もし許してくれるなら、届かない所の治療をさせてほしい」
涙を浮かべて真摯に訴えるセレンに、ウォルフは迷いを表すかのように琥珀色の瞳を泳がせた。
「あたしなんにも出来ないし、知らないし、役に立たないし、迷惑ばっかり掛けてるけど、ウォルフの力になりたい」
大きい声ではなかったが、セレンの高くも低くもない涼やかで力強い声は室内によく響いた。
「あんまり、出来ることないけど…傷薬ぐらいなら塗れる。多分」
自信たっぷりな言葉の後に尻つぼみな言葉が続き、ウォルフは小さく笑いを漏らす。
「……そうか。なら、背中に傷薬を塗ってくれ。その後、湯を沸かそう」
「何で笑ってるの!?あたし、真剣なのに」
「笑っていない」
「絶対笑ってた!…もう、いいよ。ほら、座って座って!」
むくれるセレンの頭を軽く叩いて、ウォルフは長椅子に座ってシャツをもう一度脱いだ。その体には小さな傷が刻まれていて、大きな傷がないことにセレンはホッとした。そして瓶の中の塗り薬を指ですくい、殆ど血の止まっている傷口に出来る限り丁寧に塗っていく。
もしかしたら、夜に外に出たから獣に襲われたのではと心配だったが、そんな様子はなさそうでセレンは安心した。
そして、自分が鮫に襲われたことを思い出して身震いをした。あの時は、人魚の歌で鮫を眠らせたので難をのがれたが、人間のウォルフはそんな術はない。もし凶暴な獣に出会ったら…と考えるとゾッとする。
第一印象は最悪だったが、ウォルフはセレンにとっては人間の中では一番大切だ。大怪我を負ったら、悲しくてたまらない。一番といっても、セレンはウォルフしか人間を知らないのだが。
「…終わったか?」
「っ、もうすぐで終わる!」
自分で出来る所に薬を塗り終わったウォルフに声をかけられ、呆けていたセレンは誤魔化すように急いで手を動かした。
「はい、終わったよ!」
「ああ、助かった」
振り返ってお礼を言い、ウォルフは血のついたシャツを持って一度部屋を出るとすぐに戻ってきた。新しい服を持ってきたようだ。
「湯を沸かして朝食にするとしよう」
きっちりとシャツを着たウォルフは手早く火の使い方を教え、未知のものに怖々立ち向かっているセレンをしり目に、朝食の準備を整え始めた。
「水がボコボコしてきた!」
「そうしたら、火傷をしないように桶に半分くらい入れて、水を足して丁度いいお湯にしろ。体を拭く布と新しい服はお前の部屋にあるからそれを使え」
「わ、分かった…」
鍋の持ち手を濡れた布で慎重に掴み、セレンは時間をかけてぬるま湯を作って部屋に向う。教えて貰った通りに水気を絞って体を拭き、ワンピースを被った。
「よし、完璧」
しわを伸ばしてセレンは頷き、使い終わった桶をウォルフに渡して促されるままに食卓につく。
目の前に広がる大好物と、ウィンナーという初めての肉料理にセレンは舌鼓を打った。
食事を終えると、セレンは隈がひどいウォルフに仮眠を勧め、頷いたウォルフは長椅子―ソファーと呼ばれるらしい―に横になる。
そして、セレンはその傍で比較的に絵の多い本を興味深くめくった。
気が付いたらブックマーク登録があって驚きました。
有難うございます。稚拙ですが今後ともお付き合いいただければ幸いです。