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セレンが人間の世界に来て2日目。
小窓から差し込む朝日にセレンはゆっくりとまぶたを開いた。
「んん~……」
起きなくてはいけないという義務感と、布団から出たくないジレンマと葛藤しながらセレンは何度も寝返りを打つ。
そんなこんなをしているうちに、部屋の外からノックの音が聞こえた。
「起きているか?」
「うん、おきてる……」
「そうか、入るぞ」
まだ呂律の回っていないセレンの様子に、ウォルフは問答無用で扉を開けた。
「着替えとお湯の入った桶を置いておく。体を拭いて、身だしなみを整えてから声をかけろ」
「…うん、わかった……」
サイドテーブルに桶と着替えを置いたウォルフに、セレンはもごもごと返事をしながら上体を起こした。
扉が閉まるのをぼんやりと見送りながらセレンはベッドの端に腰かけ、桶に入った白い布を手に取った。
(これで、体を拭くのかな?でも、この服の脱ぎ方が分からないし…)
とりあえず立ち上がろうとサイドテーブルを支えにして立った。気を抜くとバランスが崩れそうになるが、慣れてきたのか手を離しても転んだり崩れ落ちることはなく、セレンは少し嬉しくなった。
セレンが着ていた白い布は前で重ねてあり、紐で縛ってある。悪戦苦闘しながら脱いで体を拭いたはいいものの、体は濡れたままで、しかも新しい服の着方が人魚であるセレンは分からなかった。
(これは、聞くしかない…)
流石に裸で呼ぶのはまずいと思い、セレンはとりあえず今まで着ていたものを再び羽織り、適当に前で結んでよしと頷いた。
「ウォルフー!ちょっと聞きたいことがあるんだけどー!」
「大声を出さなくても聞こえてい……」
近くにいたのか、すぐにやってきたウォルフは扉を開けた途端固まった。
そこにはヘンテコにガウンを着て、自身も床もビショビショにしたセレンの姿があり、ウォルフは溜息を吐いて思わずこめかみに手を添えた。
「お前は、朝の支度すらできないのか……」
「こういう服は着た事がなくて、」
分からないから教えて、と新しい服を差し出したセレンに、ウォルフはそういう問題ではないとこめかみを揉む。今後の生活を憂鬱に思いながら、近くにあるチェストから大きめの布を取り出した。
「まず、その水浸しの体をどうにかしろ。俺は後ろを向いているから、この布で拭いて、終わったら体にこうやって巻きつけるんだ。いいな」
見本を見せて貰ったセレンは、不機嫌な様子のウォルフに大人しく頷いて見せた。そして持っていた服をベッドに置き、言われたとおりの動作をぎこちなく行い、最期に不格好だが布を巻き付ける。
「終わったよ」
「そうしたら、ワンピースを持ってこっちに来い」
「ワンピースって、この白い布のこと?」
「そうだ」
「うん、分かった」
ワンピースを手にとって、テーブルを支えにしながらペタペタとウォルフの前に行き、服を渡した。
「本当は裸のままを着るんだが…まず、ここが首を通す所だ。こっちが腕を入れる所で、こうやって裾から上に向かって手繰り寄せて首から被れ。次に腕を通したら余った布を下におろすんだ。分かったか?」
「うん」
ウォルフはセレンに一度服を着せ、脱ぎ方も教えて服を返す。
「俺は外に出ているから、今度は一人でやってみろ。その布は取って着るんだ。いいな」
「大丈夫、分かった…」
念を押すように言われ、セレンは神妙に服を受け取った。
(服なんて、人魚には必要ないからよく分かんないよ…でも、あんな風に真面目に言うくらいなんだから、人間にとって服は重要なものに違いない)
そう意気込んで布を外し、セレンはワンピースを被った。着てみた服は肩に細めの紐が二本あり、胸の下できゅっとリボンが結しめられ、そこから裾にかけてふわりと広がっていた。
(こんな感じでいいのかな?)
「ウォルフ、着終わったよ」
「ああ、」
再び部屋に入ってきたウォルフはセレンの服が教えた通り着ているかチェックし、大丈夫だと頷いた。それを見て、セレンはホッと胸をなでおろした。
「サイズは少し大きいが、大丈夫そうだな」
胸のあたりを見て残念そうにするウォルフに、セレンは目の前の失礼な男がなにを考えているか察知し、思い切り自分より遥かに大きい足を踏んだ。
「なにをしている」
「別に」
素足のセレンに踏まれても、靴をはいたウォルフは全くなんとも思っていないようだった。むしろ、子猫にじゃれられていると位にしか感じていない様子。それが逆にセレンには苛立たしかった。
「くだらないことをしていないで、サッサと濡れたあの床をどうにかするぞ。ほら、さっきまで使っていたその布で拭くんだ」
「はい、」
(床も濡らしちゃいけなかったんだ……)
床を拭きながらセレンはすこし反省し、黙々と作業を終わらせた。そして再び失敗しないよう、体を拭く手順をウォルフに教えて貰った。
「…朝食にするか」
心なしか疲れているウォルフにセレンは素直に頷き、また甘いライ麦パンが出てこないかウキウキしながら差し出された手を取る。
昨日より歩くコツを掴んできたので、ウォルフには手を添えるだけにして貰い、壁を伝いながら食事の席に着いた。
今回の食事は、昨日と違うスープでジャガイモのポタージュというものらしい。とろりとしてまろやかなスープは少し甘くておいしかった。そして、期待通りにライ麦パンも朝食に並んでいるのを見た時、セレンの瞳は大げさに輝いた。
食事に満足したセレンは、食器を水で洗っているウォルフを手伝おうとするが、少し迷惑そうに断られて肩を落として大人しく座ることにした。
キョロキョロと人間のものを観察していると、片付けが終わったウォルフが戻ってきた。昨日と同じようにコップを持っており、セレンの方だけ色が違う。
「これは、果実水だ。甘いのが好きなんだろう?」
「これ、甘いの?」
「ああ、」
ウォルフの言葉を聞いて、セレンはワクワクしながらコップに口をつけた。
「おいしい!!」
オレンジ色の液体は甘酸っぱくてさわやかな香りで、セレンは幸せな気持ちになる。
「そうか、気に入ったならいい。……そういえば、昨日、人魚の話を、と言っていたな」
果実水に夢中になっていたセレンはウォルフの言葉にはっとして、コップをそっとテーブルに置いた。
「うん、人魚の伝説とか、物語を聞きたいんだ」
「人魚と言っても、未知の種族だ。伝説も一般的に伝わっているものしか俺は知らない」
「それでもいいの」
少しでも違う観点の話を聞けば、人魚姫の真実に近づけるかもしれない。そう期待を込めて、セレンはアクアマリンの瞳で琥珀色を見つめた。
「分かった。俺の知っている範囲なら話そう」
そう応えて、ウォルフは人魚について語りだした。
「人魚は美しい容姿をしていて、上半身は人と何ら変わりなく、下半身は魚の尾びれを持ち輝く鱗でおおわれているらしい。
あとは、航海者をこの世のものとは思えぬ美しい歌声で惑わし、船を難破させるとか。
他には人魚の涙が真珠になるとか、その肉を食べると不老不死になる。
……といった程度の話ぐらいだな」
「物語とかはないの?」
「……一つ、有名な話がある。この領地がまだ一つの国だったころ、王が有名な作家に物語を書かせた」
「それはどんな話なの?」
「人魚が人間の王子に恋をして、結ばれず亡くなってしまう悲しい話だ」
「人間に恋……」
「物語のタイトルは『人魚姫』」
「っ!その話、詳しく教えて!!」
「誰でも知っている話だ、聞いたことはないのか?」
「少しは知ってるけど、お願い」
ウォルフは拳を握りしめるセレンの姿を不思議に思ったが、断る理由もないと口を開いて語り始めた。
「むかし、ある所に…
『人魚の王の6人の娘たちの内、末の姫は15歳の誕生日に昇っていった海の上で、船の上にいる美しい人間の王子を目にする。
嵐に遭い難破した船から溺死寸前の王子を救い出した人魚姫は、王子に恋心を抱いた。
その後、偶然浜を通りがかった娘が王子を見つけて介抱した為、人魚姫は出る幕が無くなってしまう。
人魚は人間の前に姿を現してはいけない決まりだった。
だが、彼女はどうしても自分が王子を救ったと伝えたかった。
人魚姫は海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。
その時に、「もし王子が他の娘と結婚すれば、姫は海の泡となって消えてしまう」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じるとも。
王子と一緒に御殿で暮らせるようになった人魚姫であったが、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫が命の恩人だと気付かない。
そのうちに事実は捻じ曲がり、王子は偶然浜を通りかかった娘を命の恩人と勘違いしてしまう。
やがて王子と娘の結婚が決まり、悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが、髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した血で人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝える。
人魚姫は愛する王子を殺せずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えた。
そして、人魚姫は空気の精となり天国へ昇っていったが、王子や他の人々はその事に気付く事はなかった。』
これが、人魚姫のあらすじだ……どうかしたのか?」
話し終えたウォルフが話しかけると、セレンは心ここにあらずといった様子で何かを考えているようだった。
(人魚姫が王子に恋……結ばれずに、泡となり消えて……空気の精になった?そんなの、全然違う)
「おい、」
(姫の姉たちは、助けになんて行ってない。むしろ、追放をされて怒っていたはずだ。王様も、お妃さまも幽閉されて…私たち一族は……)
「……おい、どうした?」
呼びかけにも反応せず、顔を青くさせるセレンにウォルフは様子がおかしいと震える肩に手を伸ばす。
(…『人魚姫』の物語は、『裏切りの人魚姫』の物語は、そんなきれいな話なんかじゃない……っ)
「…セレン!!」
強く名前を呼ばれて、セレンは青い顔のままウォルフを見上げた。
そして、重力のままに涙がほろほろと落ちていき、セレンの肩にあったウォルフの骨ばった手を辿っていく。
「どうした?」
ウォルフにしては、優しい声だった。
「なんでも、ない…」
瞬きをするたびに雫がこぼれおちるのを見て、ウォルフは眉をひそめる。セレンは、自分が泣いていることに気付いていないようだった。
「何でもない顔じゃないだろう」
そう言って赤みのなくなった頬を拭うと、セレンは弾かれたように拳で目元を擦る。
「あれ、何で涙が……」
「そんなに擦るな、腫れるぞ……ほら、これでそっと拭え」
「あり、がと…」
ウォルフは持っていたハンカチをまだ飲んでいない水でぬらし、セレンの頬に当てた。
「お前は今、混乱している。だから、少し横になって休むんだ。お昼になったら、また起こしてやる。いいな?」
「ん…」
ハンカチで顔を隠しながらセレンは頷き、ウォルフに導かれるままにベッドへ横になる。
「水を置いておく、のどが乾いたら飲むといい…」
「ん……」
もぞもぞと布団で全身を隠すセレンにそう声をかけて、ウォルフは静かに出て行った。
(ぜったい、変に思われたよね?理由、聞かれるかな?どうしよう…)
落ち着くと物語の内容よりも、そっちの方が気がかりになってしまい、不安と、それから泣き顔を見られた羞恥心からしばらく落ち着かず、セレンは体位を変えて布団の中でぐるぐると回った。
(後悔しても、どうにもならないし…寝よう。人魚姫のことも、ウォルフへの言い訳も後にして、今は、考えても良く分からないし……)
決めたならそうしよう、とセレンは仰向けになって布団から顔を出して目を閉じる。
(そういえば、名前、はじめて呼ばれたかも……)
あらすじ引用:Wikipedia『人魚姫』
ストックがなくなりましたので、更新ペースが落ちます。次回は日曜日を予定しております。
ちなみに、セレンのワンピースはウォルフがデザイン・監修・作成しました。