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暗い海底からまばゆい海面へ顔をのぞかせたセレンは、あまりの眩しさに目を細めて腕で目を覆った。
「あれが、太陽?」
じっと見てしまったら、目が見えなくなるんじゃないかというほどの灼熱。心地よい海とは何もかもが違う。
真新しい世界に心を馳せながら一周すると、はるか向こうに陸と言われる人間の世界が広がっていた。
文化も考え方も、未知の世界。
人魚の国でさえ違う国に行けば独自の文化が広がり、言語のニュアンスも、そこに住む人の気性も違う。同じ種属でもそうと感じるのだから、本当に種族が違うのならどんな壁に当たるのか。
恐怖心から震える体を叱咤して、セレンは尾びれで水を蹴った。
泳ぎ続ければ、きっと日が暮れるころには人間の世界に着くはず。人魚姫の向かった国ではないかもしれないけれど、何かきっと手がかりがあると信じて、期待と不安を胸に尾びれを動かし続ける。
セレンはふと、人魚姫もこんな気持ちだったのだろうか、と故人の心中を推し量ろうとしたが、フルフルと頭を振って考えるのをやめてしまった。
(余計なことは考えず、今はとにかく陸を目指そう)
ひたすら泳ぎ続け、セレンは浅瀬に近づいて来ていることに気が付いた。
あともう少しだ、そう思い尾びれに力を入れた時、セレンの後ろに何かが迫ってきていた。
それを感じ取ったセレンは勢い良く振り返ったが、未知との出会いに体が硬直してしまい、眼前に迫りくる巨大な塊にセレンはどうすることもできず意識を失ってしまった。
「…………っ」
体を襲う痛みにセレンが目を覚ますと、見知らぬ場所にいた。そこは海の中ではなく、白くて柔らかい何かの中だった。
(知らないうちに人間の世界に来てしまったなんて…)
あの黒くて大きいものはなんだったのか、ここはどこなのか、一体どうして自分はこんなところにいるのか。
考えれば考えるほど分からない現状に、セレンは自分を包む柔らかいものを握りしめ、ふと、魔女の言葉を思い出した。
《なら、陸まで向かうといい。陸に上がれば君は人間になれる》
(そうだ!足!)
慌てて身を起こそうとしたが、自分のものじゃないようにうまく体が動かない。きっと、あのデカぶつにぶつかったせいだと、セレンは悪態をついた。
目的があってここに来たというのに、体を動かすことさえままならない。情けない、と唇をかみしめ、重たい腕を上げて顔を隠した。 言い知れない無力感がじわじわと迫ってきた。
しかし、こんなことで落ち込んでる場合ではない、とセレンは意気込んで自由に動く手を使って柔らかいものを持ち上げ、自分の尾びれを薄目で覗きこむ。
「これが、あし…?」
鱗で覆われず、腕と同じ肌色をした二本の足を恐る恐る撫で、その柔く温かい感触を確かめた。
「これで、陸を歩くのか…」
どうやって動かすのだろう、としげしげと足を観察し、力を入れるとピクリと足先が動いた。
「動いた!なんだこれ、先っぽがばらばらに動く!!変なの!…………ほんと、変なの。おとぎ話みたい」
しばらく足先を動かして興奮していたが、急に我に返りって自分が自分で無いような感覚が襲ってくる。
人魚の自分が陸にいて、人間の世界のものに囲まれて、足がある。自分で願ったにもかかわらず、非現実的な現実に海が恋しくなった。
(だけど、そんなことは言ってられない。あたしには、目的があるんだから。とりあえず、ここを出なくちゃ……)
自分を包んでいたものを引っぺがし、セレンは痛む体に鞭を打って腕を使い上半身を起こした。
キョロキョロと首を動かすと、そこは本に書いてあった人間の住む家のようだった。
「ここは寝どこなのか?これがベッドで、これが、布団?」
自分が寝ていた弾力のあるものの感触を確かめ、貝殻のベットとは大違いだとセレンは思った。
ふと、左を向くと小さな窓があり、そこから見える景色は、海から見えた青い空と、一面の緑だった。
「あれが木か!!あの、空に飛んでるのが鳥!本当に、人間の世界だ…」
海と違って澄んだ空には、太陽の光が平等に全てを照らしていた。もっと外を見たくてガラスに張り付いて身を乗り出すと、いきなり窓が開く。
「うわあああっ、う゛っ」
窓から上半身が投げ出されて、お腹が窓枠に食い込んでセレンは思わずうめいてしまった。そして、痛みが引いて顔を上げると、体の中に爽やかな青い空気が入り込み、セレンはまぶたを閉じて深呼吸をした。
「これが、森のにおい……」
全てが初めてのことだらけで、すべてが新鮮で輝いてみえた。少しの間外の空気を堪能していると、どこからか物音が聞こえ、その音はどんどん近くに来ているようだった。
(どうしよう、何か来る!もしかしたら、人間かもしれないっ)
覚悟はしていたものの、悪名高い人間に会うには心の準備が出来ていなかった。
どこか、身を隠す所は…でも、どこかに移動するのは難しいし、と周りを探すもどうしようもなく、間近に迫った音を察知してとっさに先ほどまで包まっていた白い布団を覆いかぶせた。
キィ…という物音がして、セレンはわずかな隙間から来訪者の様子を窺った。
「気がついたのか」
そう言って扉を開けて部屋に入ってきた人間に、セレンは身を固くする。見えたのは人間の象徴でもある二本の足。
人間は、人魚姫を捨てたひどい生き物。しかも、視線をずらせばその人間はなんと男だった。
人魚の世界では、人間の男は争いを好む野蛮で乱暴だと有名で、そんなやつに捕まるなんて幸先が悪い…いや、むしろこれで終わりかもしてない、とセレンはあれこれと最悪の事態に頭を巡らせた。
「おい、口がきけないのか?それとも、耳がきこえないのか?」
返事をしようとせず身を隠そうと必死なセレンに、男は眉を寄せながらそう声をかけてくる。
明らかにその声が面倒くさそうな声色で、初対面の人魚になんて態度だ、これだから人間は、と心の中で悪態をついた。
「喋れるし、耳も聞こえる」
つっけんどんにそう返すと、男は「そうか」とだけ返してベッドに近づき、無言でセレンが布団の中から出てくるのを待っているようだった。
男の沈黙がつらくなったセレンは布団で体を覆ったまま「なんだよ」と尖った声で問いかけました。
「…そこから出る気はないのか?」
鷹揚のない声でそう聞かれ、怯えていると悟られたくないセレンは叩きつけるように男に向かって布団を投げ飛ばす。
「出るよ!ほら!」
と、痛む体を無視して胸をそらしてお前なんて怖くない、と言わんばかりの態度を見せつけようとしたが、いきなり大きく動いたせいで安定がとれず、そのまま床へと落ちてしまった。
「~っ」
床にぶつかった所からびりびりと電流が走るように全身に痛みが届き、セレンは悶絶する。
「無理をするからだ」
無様に落ちたセレンを見下ろす男にセレンは心配ぐらいしろ!と言い返したかったが、体を襲う痛みをやり過ごすために奥歯をかみしめた。
苦し紛れに男を睨みつけるも全く効果はないようで、男は溜息をついてセレンの細い腕を掴み、強張る体を引き上げる。
「なにするんだ!」
「いつまで、床と仲良くしているつもりか?」
「そういうわけじゃない!」
急に触られたことに抗議するが、男はどこまでも興味がなさそうで、セレンの怒りをさらに煽る。
しかし、はじめて立つ感覚に膝が笑い、それどころでなくなったセレンは、男の腕を握り返した。
「触られたくなかったんじゃないのか?」
「う、うるさい!絶対離さないでよ!離したらただじゃおかないから!」
「……立つのが辛いなら、そういえばいいものの」
必死な様子に男はぼそりと呟いて、セレンは「なんか言った!?」と肩を怒らせるが、そんなものどこ吹く風で男は頭一つ小さいセレンを面倒そうに見下ろす。そして、仕方がないと言わんばかりに手をセレンのわきに差し込んで、子供のように持ちあげた。
「うおっ」
「ずいぶん、男らしい声だな」
「うるさい!あんたが急に持ち上げるからだ!!おーろーしーてー!!」
子供のように宙ぶらりんの足をばたつかせる様子に、男は眉間のしわを更に深くして何度目かの溜息をついた。
「…元からそのつもりだ。少しは大人しくしろ」
「……」
声の調子こそは低かったが、男は予想外に優しくセレンをベッドへ下ろした。もっと投げるような乱雑な扱いを覚悟していたセレンは、拍子抜けしてキョトンとベッドに腰掛けながら男を見上げる。
「お前は、海を遭難して浜辺に流れ着いていたんだ。少しは大人しくして、体を休めろ。大声出をしたり、窓を開けてはしゃぐのは後にするんだ」
分かったな、と諭され、セレンは今までの行動筒抜けだったことが恥ずかしくなり、項まで真っ赤に染めてだんだんと体を小さくして頷いた。
「食べやすいものを持ってくる。待っていろ」
大人しくなったセレンの頭を軽く叩いて、男は部屋から出た。それを無言で見送って大きく息を吐き出し、硬くしていた体の力を抜いた途端、よろよろとベッドに体が沈んだ。
「なんなんだ、あの人間……」
(乱暴なのか、優しいのか。冷たいのか、温かいのか。よくわからない人間だ。
でも、あたしは浜辺に流れ着いていたと言っていた。きっと、あの人間が助けてくれたんだ。窓から海は見えないから、結構な道のりだった筈なのに)
「……悪い、人間じゃないよね?」
(いい人魚と悪い人魚がいるように、きっと、いい人と悪い人がいる筈だ。
あの人間がいい人間だと、信じよう。なにも知らないし出来ないあたしは、まずは誰かを頼らないと生き抜けない)
体を小さくして横になったセレンが目を閉じていると、香ばしい深みのある匂いがしてきた。
何の匂いだろうと目を開けたらいきなり男が目の前にいて、小さく体が跳ねてしまった。
「スープをもってきたが、起きられるか?」
器をサイドテーブルに置いた男に頷いて、セレンはのろのろと起き上がった。食べろ、と差し出された器と食べるための道具を交互に見て、セレンは困惑した。
(器は分かるけど、この先が丸くなってるのは…この液体を掬うもの?でも、持ち方が分からないし……正直に言ったら不審に思われるかな?どうしよう……)
無言でスープを見つめるセレンに男は不思議そうにしていたが、ややあって納得したようにうなづいた。
「毒は入っていない。ほら…」
掬って食べてみせようとした男にセレンは慌てて首を横に振った。
「ち、違うっ。その、食べる道具の使い方が分からなくて…助けてくれた人間を疑うようなことはしない」
「使い方が分からない?周辺国でもスプーンは主流だ。お前は一体どこから……」
眉をひそめた男は俯くセレンの様子を見て追及をやめた。もしかしたら、遭難のせいで記憶障害が起きているかもしれない。そう結論付けて、近くにあった椅子をセレンの傍につけて腰をおろし、白魚のような繊細な手を取ってスプーンを握らせた。
驚いたセレンは少し高い位置にある顔を見上げたが、男は琥珀色の瞳で一瞥しただけでそのまま口を開いて食べ方の説明を始める。
「これはスプーンと言って、汁物を掬って食べる道具だ。これをこう親指と人差し指で掴んで、中指を添える……そう、そうだ。それから、奥からスプーンを入れて手前に向かってスープをすくう……そうしたら、スプーンの先から飲め」
手添えでスプーンを運んだセレンは、ズズッとスープを啜った。
「音を立てて飲むな。行儀が悪い。ほらもう一度…」
「ん」
「口からスプーンに向かうな。スプーンを口に運べ…」
「はい…」
厳しい指導のもと、数度繰り返して一人で出来るようになり、セレンはやっとスープを味わう事が出来た。
うまみが凝縮され、なおかつほっとする味。何と表現したらいいか分からなかったが、おいしと、セレンは素直に思った。
お腹が減っていたのか、食べるコツを掴んだセレンはぺろりとスープを平らげた。
それを確認して、男は満足そうに頷いて食器を片づけていく。お腹がいっぱいになってうとうとしているセレンは、出て行こうとする男の服を掴んで引きとめた。
「あの、」
「なんだ」
「ありがとう、おいしかった…」
「そうか、ならもう寝ろ。話は休んでからだ」
「うん」
いきなり動いたセレンの疲労はピークに達していて、男の言葉通りゆっくりと横になったセレンは「待って、」と呟いた。
「まだ何かあるのか?」
「あたしは、セレン。あなたは…?」
「…俺は、ウォルフ」
「そう、助けてくれてありがとう、ウォルフ…あと、あのスープの名前教えて」
「…コンソメスープだ」
まどろみの中で、食い意地を張っているセレンが可笑しかったのか、男―ウォルフの表情は殆ど変らなかったが、微かに口角が上がっていた。
それを見たセレンは、ウォルフ初めての表情の変化に嬉しくなって笑いかける。
「お休み、ウォルフ…」
「……ああ」
顔こそ見えなかったが、扉の向こうに行った彼の表情は初めのころよりも柔らかいものだと感じた。