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海面へと向かう人魚のセレンは、一度そのマリンブルーの尾びれを止めて海底を振り返った。
先ほど出会った魔女の姿は見えない。
深海の薄暗い洞窟にいたまだあどけない姿の魔女。
百年以上前の人魚姫を魔法にかけたのだから、幼い姿とは裏腹にきっと長い年月を生きてきたのだろう。それでも、どこか無垢な雰囲気を持った人物だった。
初めて声をかけた時、あの魔女は人魚姫の名前を呼びながら安心したような顔をしていた。まるで、母親を見つけた幼子のような表情に、セレンは自分は正しいのだと思った。
『裏切りの人魚姫 セレーナ』
それが、4代前の祖先の名前。
人間の男に恋をして海を裏切り、終いには男に捨てられ泡になってしまった愚かでかわいそうな人魚姫。
人魚の涙は真珠になり、その肉を食べれば不老不死となる。そう、人間の国では言い伝えられているらしい。
真珠の話は本当だが、不老不死など勝手な妄想でしかない。けれども、そんなことは知らない人間たちは、自分達の都合のいい幻想にとらわれており、人魚の国の存在が知られれば人魚の存続の危機となる。
だから、人間と関わってはいけないという、厳しい掟が存在している。
にも拘らず、人魚姫は禁忌を犯した。
両親に聞くところ人魚姫は大層美しく、心優しい姫だったらしい。きっと、彼女は自分の家族までも罪に問われないと思っていたのだろう。
王族であるということに、事態を軽く考えていたのだ。しかし、逆に王族であるからこそ、その罪は重かった。
国を守るべき者が、国を危機に陥れる罪を犯した。だからこそ王と王妃は生涯幽閉され、その親族たちは国外へと追放された。
その後、親族同士でその血を繋いでいたが、劣悪な環境にとうとう人魚姫の血筋はセレン1人となった。
3年前に最後の家族であった母が亡くなり、海をさまよいながらセレンはずっと考えていた。
なんの罪を犯したのだろうか、
なんでこんな目に遭っているのか、
なにをすればいいのだろうか、
なにをしたいのだろうか、
なんで生きているのだろうか、
なんで、どうして?
独りの時間は嫌になるほどあって、もうなにも考えたくないのに頭は勝手に動いてしまう。
苦しくて、辛くて、狂いそうになって、いっそ死んでしまおうかとも思った。
それでも、母の最期に言われた「強く生きて」がセレンを生かした。
生きている意味がないのに、生きていると言えるのだろうか。
そう思いつめて、また疑問ばかり浮かんでしまった。
そして、海底に沈んだ人間の作った大きな建物を見つけたセレンは気がついた。
あたしは、なにも知らない。と、
この大きな建物どうしてここにある?
この銀色に光る小さなトライデントは?
抱き合う男女の人間の像はなにをしている?
赤い水が入っている透明なキラキラした硬いものはなに?
たくさんの人間のものが、何のために作られて、どんなもので作られているのか、何に使うのか。
知らないことだらけに囲まれた世界。
一面に広がる人間の世界を、スカイブルーの髪をくるくると躍らせながら何周もして見て回った。
「……人魚姫も、こんな輝いたものを見て、人間の世界の興味をもったのかな?」
人魚姫はどうして人間に会ったのか、どうして人間になりたかったのか、何を思って人魚の国を捨てたのか、人間になったその後は?
湧いてきた疑問に、知りたいと思った。
自分や、その親族が何故こんな扱いを受けることになったのか。
知ったとしても、なにも変わりはしない。だとしても、自分たちの犠牲の上で何が成ったのか。
幸い、天涯孤独な自分はだれも巻き込むことはないのだから、人魚姫と同じように二本の足を手に入れて人間の国で真実を探すことが出来るかもしれない。
そして、昔話の海の魔女を頼りに深海の洞窟を探し回り、一年近くかけて魔女らしい人物を見つけた。
揺らめく黒髪に包まれるようにたゆたう姿を見たとき、頭が可笑しくなってしまったと思った。
正直、一生見つからないかと思いながら探していたのだ。そして、魔女のあの顔を見て言い伝えられてきた昔話は全てが真実ではないのだと確信した。
魔女は残酷な魔女ではなく、本当に人魚姫と友人関係であった。
その真相は、生きる気力を失っていたセレンの心を躍らせた。
(まだ、あたしの知らない真実がある……
知りたいと思ったことは、間違ってない!
だって、世界はこんなにも青く澄んでいたのだから!!)
いまだ海底で無気力にたゆたい続ける魔女も、いつか自分のように何かを見つけることが出来るだろうか?
もし、自分が全てを知り終えて海に戻った時、まだあの場所にひとりぼっちで魔女がいたら教えてあげよう。
誰も知らない、人魚姫の物語を。
「そういえば、名前、聞いてなかったな……」
戻ったら、必ず聞こう。
そして、かつての人魚姫のようにたくさん語り合って、友達になろう。そうすれば、お互いに独りぼっちでなくなる。
開けた未来に、セレンは力強く尾を振り、泳ぎだした。