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くらい暗い海の底。
魔女は水の小さな揺らめきに身をゆだね、眠りについた。
太陽を最後に見てからどれぐらいの時がたったのか、それすら分からないほどそのまぶたを閉じて。
朝がいつかやって来るかもしれないと、不確かな期待に身を任せて。
そんな魔女をあざ笑うかのように、使い魔は青白い耳たぶにそっとささやく。
友はもうここには来ないと、来れないと、お前は捨てられたのだと。
聞こえていないふりをしている魔女が面白くない使い魔は、意地悪くとがった鼻で突っついた。
頑なに開かれない瞼が魔女が聞いていた証拠だと、せせら笑う。
使い魔はいつになく機嫌よく、洞窟の中を跳ね回るように泳いだ。
日が昇っても、暮れても、その身を海に漂わせている魔女の耳に、歌うような使い魔の声がどろりと流れ込む。
「存在自体が咎なのだから、お前は幸せになっちゃいけないんだよ」
笑うその軽い声は、誰に聞かれる訳でもなく響いた。
眠りについてから何日たったのか、何年たったのか、何十年たったのか、何世紀たったのか。
ある日魔女は聞き覚えのある声に目を覚ました。
ゆっくりとまぶたを開けると、そこにはこぼれおちそうなアクアマリン。
「セレーナ?」
久しぶりの光がまぶしくて、目の前の人物の顔は見えなかったが、その輝きが唯一の友に見えて魔女はそう口にしてしまった。
「なんだ。死んでいるかと思った」
しかし、その鋭い口調に魔女は自分が勘違いしていることに気がつき、居住まいを正した。
よく見れば目の前の人魚は友人に似ているようで、そのきつい目尻は全くの別物。
どうして、こんなにも違う人魚をセレーナだと思ったのかと魔女は首をかしげた。
「…だれ?」
「あたしはセレン。お前が、人魚姫をだました魔女か?」
細められた瞳からは好奇心ではなく、責めるような色が浮かんでおり、魔女は視線を海底に落とす。
「もし、そうだといったら?」
煮え切らない答えに、友によく似た顔を持つ人魚は間髪いれず「なら、」と切り出した。
「あたしを、人間にしてほしい」
「人間に…?」
この人魚も、友と同じように人に恋をしたのだろうか、そう思って魔女はセレンと名乗った人魚を見上げる。
しかし、そこには縋るような甘さはなく、断固とした強い瞳があった。
「そう、人間になって真実が知りたい。裏切り者の人魚姫の真実を、裏切り者の末裔として」
「裏切り者の、人魚姫…?」
なぜ、彼女が裏切り者に?と、消えそうな小さなつぶやきを拾い、人魚は眉をひそめて呆れたように溜息をついた。
「…あんた、知らないの?……人魚は、海を捨てれば裏切り者とみなされる。禁忌とされているその行為を、王位第一継承者の姫が犯した。王族の信頼は地に落ち、今や王族はすげ変わり、あたしたち一族は裏切り者扱いだ。…とはいっても、もう、あたししかいないけれど」
下ろされた眉尻に、魔女は裾を握りしめ、やはり、止めるべきだったのだと、魔女はきつく唇を噛みしめた。
「…海の魔女は人魚姫に友と欺き騙し、裏切り者にさせて殺したって言われてたけど……その様子だと、それは真実ではなさそうだね」
初めてあんたの顔が変わった、と人魚は笑い、「そのほうがいいよ、まあ、魔女らしくはないけど」とアクアマリンの瞳を細めた。
「やっぱり、言い伝えと真実は違う。もしかしたら、人魚姫は裏切り者じゃなかったかもしれないし、そうだったかもしれない。事実が事実だから、名誉は挽回できないけれど、人魚姫がどうして裏切ったのか、あたしが最後だから、せめてそれだけでも知りたい」
ひとりだから誰にも、迷惑かかんないしね、とこざっぱり笑った人魚に、魔女は「ひとり…」と繰り返す。
「…人間界に真実を探しにいくの?」
魔女の問いかけに、人魚はゆっくりとうなずきいた。
「そう、なら、願いを叶えるための対価を…セレーナは僕に声を。セレン、君は何を差し出す?」
暗い海底でも揺るぎなく輝くアクアマリンを見つめ、魔女はそう言いました。
「そんな顔しないでよ。いいんだ、それがなければ叶えられないんでしょ?」
魔女は自分がどんな顔をしているのか分からなかったが、やるせない気持ちで頷いた。
「…髪を、対価に。人魚にとって、声と髪は美しさの象徴だから一応、重要なものだから」
あたしはあんまり、気にしないけど、と人魚は尾びれより長いスカイブルーの髪を無造作にひと束掴む。
「人魚姫みたいに声は勘弁して。ないと調べまわるのに不便そうだし、人間になりたいのは一時的だ。永遠になりたいわけじゃない」
その繊細な体よりも長いたわわな透き通った髪を差し出し、人魚は「どう?」と魔女に問いかけた。
「いいよ。期限は君が真実を見つけるまで…だけど、その髪が元の長さまで伸びたり、海に戻ったら魔法は解けてしまうから気をつけて」
「うん、分かった」
「なら、陸まで向かうといい。陸に上がれば君は人間になれる」
そう言いながらそっと魔女は懐の短剣を差し出す。
宝石の散らばったそれを受け取って、了承したとばかりに微笑んで人魚はざっくりと迷いなくその髪を切り落として魔女に捧げた。
そして魔女は薬を渡し、人魚は戸惑うことなくそれを煽る。
「ありがとう」
お礼を言う人魚に魔女は悲しげに首を横に振って、「気をつけてね、」とだけ口にした。
「それじゃあ、またね」
洞窟の出口から見上げる魔女に手を振って、人魚はあっという間に海面へと登って行く。
そのきらきらと光るうろこを見送って、魔女は美しい髪を腕に抱きながらまぶたをそっと閉じた。
今回は再会のあいさつを言わなかったな…と魔女は少しだけ後悔したが、その顔は穏やかなものだった。
セレンの口調を訂正いたしました。