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「こんにちは。貴女が海の魔女?」
手を伸ばした先が見えないほど深い海の洞窟の中、魔女が目を覚ますとそこには美しい人魚がいた。
好奇心できらめくアクアマリンの瞳は太陽のように眩しく、魔女は思わず目を細める。
「君は、誰?」
寝ぼけたようにコテンと首を傾げた魔女に人魚はフフフ、と柔らかく笑った。
「私はマーメイドのセレーナ。貴女は?」
くるくると泳ぎながら人魚は魔女に問いかけ、
「咎魔女」
そっけなく答えた魔女に、セレーナは「違うわ」と頬を膨らます。
「お名前はなんていうの?」
「僕の、名前?今答えたじゃないか」
セレーナの質問に魔女は不思議そうに首をかしげた。
それもそのはず。
魔女には名前など一度呼ばれたこともなく、むしろ、
『咎魔女』
それを自分の名前だとすら思っていた。
そんな魔女の様子にセレーナは目を見張り、すぐに無邪気に笑う。
「それは、名前って言わないのよ?……名前がないなら、私が決めていいかしら?咎魔女が名前だなんて、味気ないもの」
良いことを思いついたとでも言うような提案に、魔女は投げやりに「好きにすれば」といい、セレーナは呆れたように「もう」と唇を尖らせた。
「名前は大事なものなんだから、そんなふうに適当にしてはだめよ、マーリン」
「マーリン?」
何それ、とでも言うような魔女にセレーナは自慢するように腰に手を当て胸を反らす。
「貴方の名前よ。ずっと昔に居た偉大な魔法使いの名前なの」
「僕は魔女だ。魔法使いではないよ?」
不思議そうに首を傾げる魔女に、セレーナは得意げに顎を上げる。
「いいのよ、だって名前だもの。名称じゃなくて、貴方の名前」
だから、いいのよ。マーリン。と笑うセレーナの笑顔は眩しく、魔女は綺麗な彼女に素直に従うしかなかった。
「それにね、マーリンってマリンに似ていると思わない?マリンは海を現すのよ。素敵でしょ?」
それから、セレーナは毎日のように魔女のもとを訪れた。
人魚の気まぐれだと思っていたが、欠かさずやってくるセレーナの訪問を楽しみにするようになり、魔女は孤独を忘れていった。
優しくて明るくて、とても無邪気で好奇心旺盛な人魚と、海底の洞窟に引きこもっている魔女。
何の接点もないような二人は友情をはぐくみ、魔女はこんな日々が死ぬまで続けばいいと思った。
しかし、そんな楽しい日々はセレーナの願いによって崩れていくことになる。
「マーリン、お願い。私を人間にしてちょうだいっ」
「セレーナ?」
「私、どうしても人間になりたいの。あの人にもう一度会わなくちゃ……」
ぽろぽろと真珠の涙を流すセレーナに魔女の胸はきつく締めつけられた。
彼女が人間になるということは、別れを意味する。そして、
「願いを聞くには、代償が必要なんだ。セレーナ……僕は、君から大切なものを奪うなんて、したくないよ…」
大切な友人にそんなひどい仕打ちはできないと、魔女は首を横に振り、海底へと顔を下げる。
無邪気に輝いていたアクアマリンが切なげに揺れるさまを、魔女は直視できなかった。
まるで、彼女が知らない大人になってしまったようで、遠くに行ってしまったような、そんな現実を魔女は上手く受け入れられずにいた。
「お願いよ、マーリン。どうしても、あの人の傍に行かないと……」
必死なセレーナに、首を横に振って魔女は拒み続ける。
しかし、縋りつく彼女に魔女は思わず頷いてしまった。
「ありがとう!マーリン!」
抱きついてきたセレーナの背に腕を回しながら魔女は涙を流し、その小さな雫は海に溶け込んだ。
「代償は、君の美しい声だ。人間になったら、一年以内に愛する人と契りを結ぶんだよ。そうしたら、君は人間のままだ。もし、できなかったら海に戻っておいで。そうしたら、また人魚に戻れる」
「ええ、ありがとう。マーリン」
「期限は一年だ。それを過ぎたら君は死んでしまう。消えて……居なくなってしまう」
だから、忘れないで。と魔女は哀しげに微笑んだ。
本当は手助けをしてあげたい、そう思っても魔女は契約した内容に干渉することはできない掟。
震える手で人間になる薬を渡し、魔女と人魚は別れた。
声を失った彼女と別れの挨拶はできなかったが、魔女は「またね」と手を振り、人魚は笑顔で応えた。
未来が見えるわけではないけれど、もう海底の太陽を見ることはないと魔女はまぶたを伏せる。
それから、再会の時は訪れなかった。