16
セレンがマーリンとミリアと暮らし始めて4週間近くたった頃、慌てたミリアが洞窟の中に駆け込んできた。
「おいおい、ヤバイって!!」
「ミリア、そんなに慌ててどうしたの?」
セレンが息も絶え絶えな鮫肌を撫でると、ミリアは少し落ち着いたようで呼吸荒く口を開く。
「人魚達が武器を持って、こっちにやって来てんだよ!」
「なんで…」
「セレンが人間の世界に行ったのがバレたんだ!マーリンのことも、また海の魔女が人魚を唆したって、あいつら、息巻いてたぜ!!」
早く逃げよう、と叫ぶミリアに、セレンが戸惑いながら振り返ると、マーリンは既に小さな袋にどんどん大窯や用途不明の道具を入れ込んでいた。
「逃げるっていったって、どこに…」
海に居る限り、追われる身となってしまう。マーリンたちは陸に逃げられるが、セレンは人魚だ。そんなことはできない。
「ここに居てもしょうがない。陸の近い所まで行こう……」
マーリンは身をすくませるセレンの手を取り、鮫からシャチに姿を変えたミリアの背びれを掴ませた。
「しっかり掴まっているんだ。ミリア、分かっているね?」
「いちいち言わなくても、大丈夫に決まってんだろ!!」
セレンを背に乗せ、ミリアが威勢よく言い返すと、マーリンは満足したように頷いて、岩で作った椅子に腰かける。
「ねえ、待って!マーリンは!?マーリンも逃げなきゃ!!」
「…セレン、僕を誰だと思ってるんだい?」
「ゲラゲラ、何も心配するこたぁねえよ!なんせ、災厄にして最強の魔女、マーリン様だからな!」
さあ、いくぜ!と言って上機嫌なミリアは最初からトップスピードで尾鰭をくねらせる。
「……っ」
水流の強さに負けないよう必死にミリアにしがみつき、セレンは海底の洞窟から逃げ出した。
一瞬見えたマーリンはいつもの無表情で、中性的な顔がいつもより引き締まっていた。
(そっか、マーリンは男の子だっけ…)
中性的な顔と性別不詳な雰囲気にいつも忘れかけるが、マーリンは髪を伸ばしてユニセックスな黒衣をまとっていても、男性なのだとセレンは思い出す。
(まあ、本人はそんなのどうでもよさげにしてるけど)
「セレン、あと半分で陸だ。気ばれよ!」
「うんっ」
ギュッと黒い尾びれを掴み、セレンは硬く瞼を閉ざして頷いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「セレン、着いたぜ」
閉じていた瞼をセレンが開けると、そこは、見覚えのある孤島だった。
「ここは…」
「……君と、狼男が暮らしていた島さ」
呆然としていると、セレンの後ろからボーイソプラノが聞こえた。驚いて振り向くと、そこには何でもなかったかのようにマーリンが立っていた。
「マーリン、怪我は……なさそうだね」
少し心配したが、いつもと寸分も変わらない姿に、セレンは心配をして損をしたと肩を落とす。
「?……ちょっと閉じ込めてきただけだよ。危険なことはしていない」
「お前の感覚が可笑しいんだよ。ふつーは、そんなに簡単にいかねえもんだ」
セレンの様子に首をかしげるマーリンを、ミリアは馬鹿にしながら口先で小突いた。そのやり取りにセレンは小さく笑い、人魚の襲撃などなかったような日常に胸をなでおろす。
「……さて、セレン。君は、これからどうしたいの?」
ゆっくりとしたマーリンの声が、セレンの身を揺らした。
「君には、選択肢がある。潔く捕まるか、遠い異国の海に逃げるか、そして……」
「そして?」
一度区切ったマーリンの言葉を複唱し、その後に続く言葉を想像してセレンはへその前で手を組む。
「そして、人間になるか」
「…っ」
セレンは心の準備をしていたにも関わらず、息をのんだ。
海を捨てる。それは、散々恨んだ『裏切りの人魚姫』と同じ行為。しかし、セレンが生き残る一番いい方法は、人間になることだ。捕まったら必ず処刑されてしまうだろうし、別の海に行っても追手が来るかもしれないし、セレンが安全に暮らせる保障などない。人間になれば苦労もするし危険かもしれないが、明確な殺意からは必ず逃れられる。
(もう、人間とは関わらないと決めたのに……)
「さあ、早くしないと奴らが来てしまうよ?」
「あたしは…」
(人間になったら、またウォルフと食事が出来るのかな?)
「あたしはっ…」
(一緒に居られるのかな?無理だろうな、身分が違う。それでも、)
「あたしは、人間になりたい。生きたい!」
はっきりと告げた人魚の願いに、魔女は頷く。
「そう、なら、願いを叶えるための対価を。君は僕に何を差し出す?」
「あなたの、望むものを…」
眼前に突き付けられた青白い魔女の手を、人魚はつばを飲み込んでつかんだ―
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「いいのかよ、あんな『契約』をして」
「……なにが?」
セレンと交わした契約に不満があるのか、空から地上を眺めながらミリアはマーリンに問う。返答は惚けたもので、黒猫は舌打ちをした。
「お前、あの人魚に自棄に甘いよな。後ろでこそこそ手をまわしやがって」
「何のこと?」
白を切るマーリンに、フ―ッ、と毛を逆立ててミリアは前足から鋭い爪をのぞかせる。
「何のこと?じゃねえよ!!セレンを狼男の所に案内させたり、人魚達に掟破りをチクリに行かせたりよお!他にも散々手を出したじゃねえか!!」
「……『契約』に違反はしていない」
「それにしてもだ!それにお前、セレーナのこと全部知ってたのに、セレンを地上に行かせてあの狼男に引き合わせただろう!!」
いきり立つミリアを横目で見て、マーリンは唇を緩めた。
「さあ、どうだろうね」
「この、性悪魔女が!!」
「そうだね、僕は『咎魔女』だから、」
立っているのが疲れたのか、マーリンはうつ伏せになり、組んだ腕に顎を置いて地上でセレンが小さな小屋を探し回る姿を観察する。
セレンはシンプルなドレスをまとい、胸元には餞別だと言って渡したアクアマリンの宝石が輝いていた。
実の所、マーリンは魔女の鏡で全てを知っていた。それでもセレンを地上に行かせたのは、人魚と狼男に幸せになって欲しかったからだ。
自分の魔法によって不幸になってしまった二人の子孫。
1人は、寿命間際に愛しい子供を殺され、悲しむ大狼の願いによって。
1人は、海も男も選び切れなかった、可哀想な人魚姫の願いによって。
自分のように独りぼっちの二人を時折鏡で見ては、マーリンはどうにか出来ないかと胸を痛めた。滅びの道しかない悲しい子供たちを、この手で掬いたかった。
マーリンは強大な力によって殆どの願いを叶えられるが、それに相対するように『契約』をした内容は絶対で、変更することも、書き換えることも叶わない。また、契約に直接関わることをしようとすると、魔法が使えなくなる。
だから、マーリンは契約を行う際、必ず抜け道を作っていた。しかし、殆どの者はそれに気付かず身を滅ぼしていく。
そして、やはり抜け道に気付かないウォルフに、考えた。
自分が導けばいいのではないか?と。
それからのマーリンの行動は早かった。
まず、セレンを人間の世界に興味を持たせる所から始まった。難破船に向かうように障害物などで誘導したり、鮫の恰好をしたミリアを使いにやって方向を修正させたり。無駄にお使いにやったので、ミリアが不機嫌になってかなり嫌味を言われたが、気にしていない。
人間に興味を持ったセレンが自分を探し始めると、急いで近場の魔女の洞窟らしい所に引越し、見つかりやすいようにした。
海に出たセレンに無人の大型船をぶつけたのも、マーリンだ。『契約』に干渉するギリギリのラインだが、真実を伝えるためではなく、ウォルフに会わせることが目的なのでセーフだということにした。そして、あの孤島にセレンが行きつくように波を操った。
夜は外に出てはいけないというのに、予想通り外に出て行ったセレンを鏡で確認して、「狼男と出会ったら、あの子は……」と意味深な言葉をミリアに聞かせ、悪巧みを思い付いた笑みで地上へすっ飛んで行く使い魔を見送ったりもした。
ウォルフが変身したら眠らせるという提案を聞いた時は、しめしめと無表情に思ったりもした。『変身しても、大丈夫』そう思わせることが、ウォルフの呪いの抜け道なのだ。満月の後、オオカミに変身しなかったのは、偶然ではない。
だが、セレンとウォルフが別れを決断したことは意外だった。人間の気持ちとは奇なものだ。お互いに一緒に居たいと思っているのに、離れようとするのだから。
海に戻ってきてしまったセレンを地上に返すべく、難破船に行くように促し、ミリアに「人間のことを教えろよ」と言わせた。もちろん、ミリアはセレンより人間に詳しい。伊達にマーリンと長生きはしていない。そうやって、セレンにウォルフとの思い出に想いを募らせるよう仕向けた。
そして、最後の仕上げに嫌がるミリアを人魚の姿に変えさせ、一芝居打たせた。裏切り者の一族がまた掟を犯し、人魚の国を危機にさらした上に人間と仲睦まじくしている、と風潮してまわったミリアは、セレンを裏切るようなことをしたと泣きべそをかいていたが、マーリンはそれを無視した。
完全なるエゴだが、あの二人を結ばせてこそ『狼人間の一族』と『裏切り者の一族』が報われると、信じていた。
《人魚、セレン。君の代償は、その子孫を残すことだ》
セレンの逃げ道を閉ざして『契約』を迫ったマーリンは、悪人なのか善人なのか。それは、誰が決めることでもない。
「『咎魔女』が罪を重ねた所で、何も変わらない……なら、好き勝手しても、いいでしょ?」
マーリンは珍しく悪戯っぽい顔を浮かべ、低く唸るミリアに問いかける。それに瞳孔を細くしたミリアは、そっぽを向いた。
「わっるい顔だぜ」
「僕は、罪を犯した悪い魔女だからね」
愉快そうに地上を眺めるマーリンを横目で見て、ミリアはつられて緩む顔を隠すために、走るセレンを見下ろす。
ウォルフはまだ島にやってきていないようで、まだ数日は来ないだろう。一応、食べ物は小屋にこっそり補充しておいたので、何とか生活できる筈だ。
「てか、なんであの狼男が来る日にしなかったんだよ。セレンが大変そうじゃん」
井戸から汲んだ水を零すセレンに、ミリアがマーリンを睨む。
「当日は、誰かに見られるかもしれないからね」
あとは、気分を盛り上げるための、スパイス?と首をかしげるマーリン。
「てめえは馬鹿か、馬鹿なのか?馬鹿だろ」
「ミリア…」
「んだよ」
貶されたマーリンは至極真面目な顔を作り、ミリアはその顔を正面に見て身じろぐ。
「君、一応女の子なんだから、もっと綺麗な言葉遣いにしたら?」
「うっせえよ!このすかたん!!」
猫パンチをお見舞いされたマーリンの頬には、肉球の跡がついた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
小さな孤島に、キャラック船が到着した。
1人の男が下ろされた小舟に乗り、砂浜を踏みしめる。
船が流されないように岩場に打たれた杭に縄で縛り付け、男は振り返りもせず森に入って行く。大きなトランクを手に、歩き慣れている筈のその足はどこか重たげだ。
森の中心部は少し開けており、そこには古びてはいるが整備された小屋があった。男は中に入る前に一度足を止め、後ろを振り返る。無邪気な少女の声が聞こえたような気がしたが、幻聴だと分かって男は瞼を閉じた。
そして、シャツから覗くネックレスを握りこんで俯く。
「ねえ、それなに?」
はっきりと聞こえた声に、男は弾かれたように顔を上げた。
「なにさ、そんな幽霊でも見る目で見て」
小屋の窓から身を乗り出す少女は、燦々と降り注ぐ陸で笑っていた。
男はトランク落とし、窓に駆け寄って何かを言おうと口を開くが、突然のことに空振りするだけ。その様子があまりにも柄じゃなく、少女はアクアマリンの瞳を瞬かせてから吹き出した。
眉を顰める男から気まずそうに眼を逸らして、仕切り直すようにわざとらしく咳払いをし、
「おかえりなさい、ウォルフ」
と、澄んだ空と同じ晴れやかな声でそう言った。
「…ただいま、セレン」
はにかむような笑みを浮かべて男は挨拶を返し、少女の存在を確かめるように柔らかな頬に触れる。
それに擦り寄る少女の首に掛けられたアクアマリンがきらめき、男の首に掛けられた一粒の真珠を優しく照らした。
何代にも渡り『オオカミに変身させる満月を恐怖する呪い』を受けた男は、その日から、二度と姿を変えることはなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
『むかしむかし、あるところに―
海辺の領地を治める領主さまがいました。
領主さまは冷酷な偏屈で、一生独身を貫くと決めていました。
しかしある日、領主さまは浜辺に流れ着いた娘に出会いました。
アクアマリンの美しい首飾りをした娘は、なんと亡国のお姫様でした。
お姫様はその澄んだ歌声で領主さまの心を溶かし、二人は恋に落ちました。
異国からきたお姫様は、領地の仕来たりがわからず苦労しましたが、領主さまが懸命に支えました。
気さくで優しいお姫様を、領民は大好きになりました。
そして、お姫様は奥様になり、お母様になりました。
ひとりが好きだった領主さまと、ひとりぼっちになってしまったお姫様は、二人となり、愛しい娘と息子が生まれて4人になりました。
―めでたし、めでたし』
「そんで、『咎魔女』は独りぼっちに戻りましたとさ。おしまい」
とある領地で流行っている本を朗読し終えたマーリンの後に、豊満な美女に姿を変えたミリアは意地悪くそう付け足した。
「いや、ひとりじゃないよ」
「はあ?他に誰がいるんだよ?」
初めての反論に、ミリアが馬鹿にするように辺りを見回すと、マーリンは真顔で首をかしげた。
「いるじゃないか」
「どこにだよ!!」
「ミリア、僕の傍にはいつも君がいるじゃないか」
「なっ…!!」
予想だにもしなかった返答にミリアは真っ赤に染め上げ、魚のように口をパクパクさせる。
マーリンはその様子を楽しみ、くるりと黒衣を翻した。
「さあ、行くよ」
「おい、ちょっと待てよ!マーリン!!」
魔女と使い魔は、さざ波の音がする地を後にした。
... mermaid princess END
ここまで読んで下さりありがとうございました。
人魚姫のお話は、一応ここで終わりです。
次回から茨姫のお話に移りますので、お付き合いいただければ幸いです。