15
「……これが、俺の知る『人魚姫』の物語だ」
そう締めくくられた物語に、セレンは首を大きくかしげた。
「その物語は、誰が書いたの?どうして、人魚姫と宰相しか知らない話しが…その流れだと、二人は亡くなったようだけど」
「いや。この後、宰相は国の漁師に助けられている。元々、この話は人魚姫セレーナが書いたものだ。結婚式まではセレーナが書き、その後は宰相が付け足した」
ウォルフの補足を聞き、セレンはそっと目を閉じた。
最後は宰相が都合よく書いたものかもしれないけれど、この話はきっと真実なんだろう。
「馬鹿だね、人魚姫は。子供じみた偽装で、騙せるわけないのに。それに、近衛兵に見つかっちゃってるしさ」
その近衛兵は、王家の血筋を汲んだ傍系の婚約者だ。そして、今の王族の祖先でもある。人魚姫に捨てられたのが悔しかったのか、なんなのかは知らないが、人魚姫が人間の王子の為に掟を破ったことには変わりはない。
「なんか知りたかったはずなに、いざ知ると、やっぱりおとぎ話みたいで現実味がなくて…へえ、そうなんだー。ぐらいの感想しか思いつかないや」
肩透かしを食らったような気分にセレンは苦笑して、ウォルフの手を握る。
「人魚姫の愚かな行動を嘆くより、あたしは、ウォルフとの別れの方が辛いみたい」
おかしいね、と泣きながら笑ったセレンの涙は、円やかな頬に線を作って顎から離れ、真珠となって岩場に軽く跳ねた。
その様子を見たウォルフは、歯を食いしばってセレンの白魚のような手を握りこむ。
「ねえ、ウォルフ。その後、宰相と王様はどうなったの?」
「宰相は、天寿を全うするまで王を支え続け、王は妻を娶り、妻子に囲まれこの世を去った」
故人の遺志は推し量れないが、人魚姫の願いどおりにことは進んだのだとセレンは安心した。
「そう…王様が狼人間ってことは、ウォルフはその祖先でしょ?王子様なの?」
「いいや、祖先はそうだが、色々あって今は地方領主だ」
「そっか。やっぱり、あたしの予想は的中したってことね」
嬉しそうに笑ったセレンは目隠しをしたまま立ち上がり、ゆっくりと数歩後ろに下がってウォルフと距離をとった。未だに二人の手は繋がれたままだ。
「ほんと、人魚が人間と関わるとロクなことがないね」
「そうだな」
「でも、あたしウォルフと出会えて、すごく楽しかった」
「俺も楽しかった」
別れを惜しむように両手でお互いの手を取り、笑顔で一度強く握り合うとするりと離す。
別れの抱擁も、口付けもなく、セレンは崖のふちまでウォルフに導いてもらった。その傷ついた足に、尖った岩場はナイフのように突き刺さる。
「じゃあ、真実を知った人魚は、海に戻るよ」
「ああ、気をつけて。達者でな」
「うん、」
ウォルフに背を向けて目隠しを取ったセレンは、さざ波に揺れる月が海面を照らす幻想的な景色に、吐息を漏らした。瞬く星々を映し出す群青色の海は、まるで夜空の写し身のようで、セレンは夜に包まれた気分になる。
そして、一息吸い込むと、振り返ることなく崖から飛び降りる。空中で一本の足になった肌にはマリンブルーの鱗が戻り始め、やがて尾びれを作った。
海に戻る瞬間、身を反転して夜空を見上げると「さようなら」とも、「また」とも、言葉を交わさなかったウォルフの金色が、夜空に煌めいていた。
(泣きそうになるのを見られたくないから目隠しって、バレバレじゃない。バカだな……)
ウォルフもセレンも、再会するつもりはなかった。セレンを海に戻したいだけなら、海に落としてしまえばそれですむ話だったのだ。けれども、ウォルフは真実をセレンに伝え、人間に関わると不幸になると言外に語った。
そして、セレンはウォルフの願いを汲もうと思っていた。別れ以上に彼を悲しませるのは、本意ではない。
(でもね、ウォルフ。あなたが傍に居てくれって言ったら、あたしも、どんなに辛くても頑張ろうと思ってたよ……)
「さよなら。あたしの、王子様」
(最後くらい、名前を呼んでくれればよかったのに)
人魚は、海に溶けるように姿を消していった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
海に戻ったセレンは、海の魔女のもとに向かった。
「ひさしぶり。元気だった?」
長い黒髪に包まれながら眠る魔女を揺り動かすと、気だるげな声が漏れた。
「んぅ、だれ………セレン?」
しょぼつく目を擦りながら眠りを妨害した人物を見て、魔女は人魚の名前を小さく呼ぶ。
「帰ってきちゃった」
「真実は見つかったの?」
「うん。それを、伝えようと思って」
最初のころと打って変わって友好的な態度に魔女は首をかしげ、まあいいかと気にしないことにした。
「そう、じゃあ、教えて。僕の知らないセレーナの物語を…」
魔女が瞼を伏せてそいうと、セレンはゆっくりとウォルフから聞いた物語を話し始めた。時間は、いくらでもある…
「―…って感じだったよ。『裏切りの人魚姫』の真実は」
全て話を聞き、魔女は閉じていた目をそっと開けた。
「……セレーナの願いは、叶ったのかな?」
「多分ね。愛した人間は結婚して穏やかに眠ったみたいだし、人魚姫も満足だったんじゃない?最期は海に還れたわけだし」
「そう、それならよかった……」
セレンの返事に魔女は穏やかに笑ったが、それを拒むように黒い巨体が二人の間に割って入る。
「……全然よくねーよ。結局さ、お友達にいいように利用されて、騙されて、捨てられた、ってことだろ?あーあ、かわいそうで、ひとりぼっちな海の魔女」
どこから嗅ぎつけたのか、使い魔は憎たらしく一句一句を切りながら、それに合わせるように意地の悪い鼻で魔女の体を押した。
「さ、鮫っ!?」
「鮫じゃねえよ!あんな魚類と一緒にすんじゃねえ、この小娘!!」
かつて、食べられそうになった記憶にセレンは恐怖に身を引くと、使い魔はそのギラついた歯を間近で見せつけながら、外見に似合わないハスキーなアルト声でドスを聞かせて悪態をつく。
「だって、その姿、まるっきり鮫じゃないか!!」
岩壁に張り付くセレンの反応がよかったのか、使い魔はニタァ、と喜んだ。
「鮫じゃねえよ。アイツらに、こんな知性はねえだろ?なあ、小娘」
じりじりと逃げ回るセレンを追いかけ、楽しそうにゲラゲラとはしゃぐ使い魔に、魔女は大きなため息をはく。
そして次の瞬間、魔女が指を鳴らすと、たちまち使い魔はオレンジ色のフウセンウオになった。
「あ、てめえ、またこんな姿にしやがって!!」
「…ぷっ」
甲高い声で抗議する使い魔に、セレンは懸命にひれを動かすその体を手の中に収める。
「確かに、これは鮫ではないね」
「馬鹿にしてんのか、この小娘がぁ!!!」
巻き舌でドスを効かせても、笑いが止まらないセレンには全く通じなかったし、逆に可愛らしく感じていた。
「ねえ、この子、なんなの?」
「それは、僕の使い魔だよ」
手のひらに吸盤で張り付く使い魔を差し出してセレンが尋ねると、魔女は興味なさそうに一瞥する。
「へえ、魔女の使い魔なんだ。すごいね、」
「タダの使い魔じゃねえ、咎魔女を監視する優秀な使い魔だぜ」
褒められたことに気をよくしたのか、使い魔は胸を張ってセレンに自慢をした。
「咎魔女って?」
「そこの、海の魔女のことだよ。爪弾き者の、独りで寂しい、引きこもりの根暗魔女さ」
ニヤニヤと小さいひれで我関せずな魔女を指さし、使い魔は唄うような調子で告げる。そして、セレンは素朴な疑問に首を傾げた。
「独り?」
「ああ、海底の洞窟で、孤独に身を縮めてる、独りぼっちの可哀想な魔女」
自分で言っていて楽しくなったのか、左右に身を揺らしながら使い魔は笑う。
「じゃあ、あなたは?」
「はあ?」
「あなたが、いるじゃん。いつも一緒なんでしょ?だったら、それは1人とは言わないよ」
馬鹿だな、と明るく笑うセレンに、使い魔はその身を真っ赤にしました。
「別に、あんな根暗、一緒に居たいわけじゃねえよ!この馬鹿人魚!!」
「でも、一緒に居るんでしょ?」
「そうだけど、だけど、あいつは独りだ!!」
自分でも、そう言ってんだからな!と魔女を睨みつける使い魔に、セレンは目を見開きました。
そして、なんだ、と言って笑いを漏らす。
「構ってもらえないから、そんな意地悪をしてるの?素直じゃないね」
クスクスと笑いながら真っ赤になって震える使い魔を指でつつき、大窯をかき混ぜる魔女に声をかけた。
「ねえ、この子、名前は何て言うの?」
「名前?使い魔だよ」
「…それは、名前じゃないよ」
当然のように答える魔女に、セレンは呆れたように苦笑する。
「じゃあ、あなたの名前は?」
「僕の名前は、マーリン。セレーナがつけてくれたんだ」
「…そう、じゃあ、マーリン。あなたも、この子に名前を付けてあげたら?名前がないと不便だよ」
「べ、べつに、名前なんていらねえよ!勝手に話を進めるんじゃねえ」
使い魔は勝手に進んでいく話に、セレンの手のひらから離れ、すべらかな額に何度も体当たりで抗議した。
「使い魔も、そう言ってるよ?」
「……マーリンって、すかたんだよね」
憐れむような目を使い魔に向けて、セレンはマーリンを非難した。
「ほら、ちゃんと名前を考えて!あたしが、不便なの!!」
ほらほらと急かされ、マーリンは大人しくセレンの肩に居る使い魔を一度見て、顎に手を添えて考え始めた。その様子をそわそわと待つ使い魔にセレンは笑いかけ、名づけの瞬間を今か今かと待つ。
「……ファミリアー・スピリッツのミリア」
「ミリア?ファミリアー・スピリッツって、……」
使い魔って意味じゃなかったっけ?とセレンは続けようとしたが、体を桃色に染めてもじもじする使い魔の姿に、野暮なことはやめようと口をつぐんだ。
(ちょっと、安直だけど、本人が喜んでるしいいよね?それに、ファミリア―は『親しい』って意味だし。マーリンは分かってて付けたのかな?)
「ミリア…」
小さく自分の名前を呟いて、舞い上がりそうな使い魔に、セレンはニコリと笑う。
「よかったね、ミリア」
「全然よくねえよ!適当な名前をつけやがって!!」
顔を背けるミリアに、嬉しいくせに。とセレンは素直じゃない使い魔を微笑ましく思った。
「なら、違う名前を考えようか?」
「…仕方ないから、ミリアって呼ばれてやる」
マーリンの申し出に、ミリアは唇を尖らせてセレンの髪の中に隠れ、小さく消え入りそうな声で了承をする。マーリンは「そう」と言って、興味を失ったように再び大窯に視線を戻した。
(マーリンてば、やっぱりすかたん。あの様子じゃあ、この子の気持ち、全然分かってないな)
「よかったね、ミリア」
もう一度セレンがお祝いを言うと、ミリアはもぞもぞと身じろぐ。
(こんなに分かりやすくて、可愛いのに)
項の吸盤の感触をくすぐったく感じながら、セレンは髪の上から小さくかわいい使い魔を優しく撫でた。
そして、セレンとミリアは毎日のように海で難破船探しなどをして遊び、海の魔女の家でしばらく厄介になることになった。
あと1話で完結予定です。