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―むかしむかし、ある所に美しい人魚姫がいました。
人魚姫は変わった娘でした。
ふつう、人魚は自分たちの国から出たがりませんが、人魚姫は頻繁に外に出て難破船を探してみたり、海の魔女のもとへ遊びに行きました。
粗暴な人間に興味を持ち、他の人魚たちを危機にさらす人魚姫を、国民たちは眉をひそめて噂していました。
ある夕暮れの中、人魚はある孤島の崖から飛び降りる人間を見ました。
人間は浮かび上がることなく、どんどんと海の底に向かって落ちていきます。
人魚姫は沈んでゆく人間を見捨てることが出来ず、助けて安全な砂浜まで連れて行きました。
難破船の人形で見た二本足の生き物を人魚姫はじっくり観察し、その人間が男であることに気がつきました。
人間の男は争いを好む野蛮で乱暴だと有名で、人魚姫は怖々指先でつつき、海に逃げ、男が動かないことを確認します。
微動だにしない男の様子に、人魚姫は砂浜に戻ってはじめて見る足を触ったり、指を掴んで動かしたりしました。
夢中になっていると、やがて日が暮れ、満月が浮かびはじめます。
すると、男の様子が急におかしくなりました。
弾力のあった足裏が硬くなり、足の甲にはいつの間にか黒い剛毛で覆われ、鮫の歯のようにとがった爪が現れています。
おかしいと思った人魚姫は海に避難して、遠くで男が姿を変えていく様を見つめました。
そして、男の変化が終わると再び近寄って、人魚姫は息をのみます。
男は人間の姿ではなく、獣の姿に形を変えていました。
人間はみんなこうなのだろうかと、人魚姫はその凶悪な姿に近寄ることができませんでした。
急に襲って来るかもしれないと、人魚姫は男を眠らせるために歌を歌います。
ぐっすりと眠る男に近づいて、その顔を覗き込むとすると、後ろから唐突に声をかけられました。
「セレーナ姫!!」
それは、お目付役の人魚の声でした。
近衛兵であるその人魚は屈強な肩を怒らせて、人魚姫に近づきます。
人魚姫の傍に居るのが人間ではないと確認して、その肩を少しだけ下ろしました。
「なぜ貴女様は人間に近づいてはいけないという掟を破ろうとするのですか!!さあ、早く帰りますよ」
「あっ、離して。自分で戻れるわ!」
近衛兵は抵抗する人魚姫の細腕を握り、深海へと連れ戻します。
国に戻る中、人魚姫のアクアマリンの目はあの人間の男の方を見つめていました。
次の日の朝、人魚姫は人間の男と出会った孤島にやってきました。
男は、まだ砂浜で横になっています。
その姿は、普通の人間の姿でした。
人魚姫は音をたてないように近づいて顔を覗きこもうとしましたが、いきなり腕を掴まれ小さく悲鳴をあげました。
慌てて手を振りほどき、海へ逃げようとする人魚姫に、男は声をかけます。
「ま、待って!君は人魚なの?」
「…あなたは人間?」
質問で返した人魚姫に、男はハッとしました。
「君は、あの姿を見たんだね」
「獣になった姿のこと?」
「そうだ」
「…見たわ。あなたは人間なの?」
それとも、獣?と聞き返す人魚姫に男は力なく笑いました。
「人間だけど、祖先が呪を受けて、代々狼人間なんだ」
「…狼人間?」
興味深い話に人魚姫は少しずつ男に近づいて行きます。
「狼人間っていうのは、満月の夜にオオカミの姿を変えてしまう人間のことだよ。お願いなんだけど、このことを誰にも言わないでほしいんだ」
「…言わないわ。そもそも、人間には近づいてはいけない掟だもの。言いふらす相手がいないわ。人魚にも話したら、私が掟を破ったのが分かってしまうし」
安心して、という人魚姫に男はホッと一息つきました。
「そう言えば、どうして海に落ちたの?泳げないのに」
「………終わりにしようと思って、」
「終わり?」
「僕が死ねば、呪が途切れるから終わりになると思ったんだ」
俯く男に、人魚はかわいそうに思い、一つの提案をしました。
「オオカミの姿になりたくないのよね?だったら、私が満月の夜にここに来て歌で眠らせてあげるわ。そうしたら、呪は解けないけれど、オオカミになる記憶はなくなるわ」
いい提案でしょう?と自慢げに言う人魚に、男は少しだけ表情を明るくさせ、次の瞬間には下を向いてします。
「魅力的な提案だけど、気持ちだけもらっておくよ。もしかしたら襲ってしまうかもしれないのに、危険なお願いを会ったばかりの君にすることはできない……」
「あら、大丈夫よ。私は海の中から歌を歌うから、カナヅチの貴方には何もできないわ」
おかしそうに笑う人魚姫に、男は「…いいのかい?」と尋ね、人魚姫は快く引き受けました。
「それじゃあ、お願いするよ。僕の名前はライカン。君は?」
「私は人魚のセレーナ。歌を歌う代わりに、人間の話を聞かせてくれる?あ、あと、私のことは誰にも言っちゃだめよ?」
「ああ、もちろん」
握り合った手に大きな違いはありませんでした。
それから何年も人魚姫と狼男の交流が続き、沢山の話をしました。
人魚姫は自分が人魚の国の姫だということ、人間についてもっと知りたいこと、友人に海の魔女がいること。
男は一国の王子であるということ、もうすぐ王になること、新たな狼人間を作らないために一生独身でいたいと思っていること。
そんな二人の距離が近づいたのは、必然でした。
穏やかに続く月に一度の逢瀬は、ある人間の手によって壊されました。
その人間は、狼男が治める国の宰相だと名乗りました。
そして、人間の宰相は人魚姫に言いました。
「私のものになれ。さもなければ、王が卑しいオオカミの姿に変わるさまを国民に見せつけてやろう。そうなったら、きっと、王は愛する国民に処刑されるだろう」
「……ライカンはどこ?」
「今は無事だ。堅牢な部屋に閉じ込めている」
「あなたのものになるって、どういうこと?私を剥製にでもしたいのかしら?」
「いいや、私の妻になってもらいたい」
「…私は人魚よ。あなたの妻にはなれないわ」
「人間になる方法を探してくるといい。また、満月の夜に来よう」
「私があなたのものになれば、ライカンに危害を加えないのね?」
「ああ」
「分かったわ…」
宰相の言葉を真っ青になって聞いた人魚姫は、海に帰って泣いて暮らしました。
真珠を落とし続けるその姿は、いつも明るく穏やかな人魚姫の姿とは違い、周りの人魚たちは心配になりました。
宰相が告げた期限が近付き、人魚姫は国を抜け出して、鮫に襲われて命を落とした人魚を探しました。
難破船の近くに居た背格好の似た人魚を見つけ、人魚姫は自分の毛を何本も引き抜き、もの言わぬ人魚の髪をどかして、スカイブルーのつややかな髪をその頭に置きました。
そして、人魚姫は友人である海の魔女のもとに向かいました。
「マーリン、お願い。私を人間にしてちょうだいっ」
「セレーナ?」
「私、どうしても人間になりたいの。あの人にもう一度会わなくちゃ……」
「願いを聞くには、代償が必要なんだ。セレーナ……僕は、君から大切なものを奪うなんて、したくないよ…」
「お願いよ、マーリン。どうしても、あの人の傍に行かないと……」
真珠の零しながら人魚姫が縋りついて頼み込むと、海の魔女は思わずといった様子で頷いてしまいました。
「ありがとう!マーリン!」
抱きついてきたセレーナの背に腕を回しながら魔女は涙を流し、その小さな雫は海に溶け込みます。
人魚姫はそれを見えない振りをして、明るい顔を作りました。
「代償は、君の美しい声だ。人間になったら、一年以内に愛する人と契りを結ぶんだよ。そうしたら、君は人間のままだ。もし、できなかったら海に戻っておいで。そうしたら、また人魚に戻れる」
「ええ、ありがとう。マーリン」
「期限は一年だ。それを過ぎたら君は死んでしまう。消えて……居なくなってしまう」
だから、忘れないで。と魔女は哀しげに微笑みます。
人魚姫は海の魔女を騙す罪悪感に胸を痛めましたが、優しい狼男を思い浮かべ、笑顔で耐えました。
薬を受け取り、「またね」と手を振る魔女に笑顔で応え、人魚姫はぐっと涙をこらえます。
愛する人と結ばれない人魚姫は、後一年しか生きられません。
『ごめんなさい、マーリン』
薬を煽り、人魚姫は音にならない声で海の魔女に謝り、海面へと向かいます。
孤島へ向かう途中、お目付役である婚約者の人魚に見つかってしまいましたが、人魚姫はそれを振り切って陸を目指しました。
そして、宰相のもとへ行き、人魚姫は約束を果たしました。
人魚姫は結婚する前に一度だけライカンと話をしたいと願い、宰相は最後に数分なら、と頷きます。
「セレーナ…」
豪華な王宮の一室でやつれた顔をした狼男は、人魚姫の名を呼びます。
「僕のことなど、放っておいてくれればよかったんだ。元々捨てようとした命だ。君を犠牲にしてまで生きようなど…」
崩れ落ちる狼男を人魚姫はそっと抱き締め、震える背中を撫でました。
声が出ない人魚姫はそっと紙を差し出します。そこには、狼男へのメッセージが書かれていました。
「これは?セレーナ。君、声が…」
『ごめんなさい、あなたを苦しめてしまって……それでも私、あなたに生きて欲しいわ。最後まで、頑張って生きてちょうだい。そして結婚をして、子供を作って、家族に看取られて眠るの』
狼男は渡された手紙を見て「そんなの、出来る筈がない……」と呟きながら、人魚姫の最後の言葉に目を走らせます。
『大丈夫よ、あなたは優しくて強い人だわ。きっと、秘密を受け止めてくれる人が現れる。絶対よ』
努めて明るく振舞う人魚姫は、さめざめ泣く狼男を抱きしめて勇気づけます。
しばらくすると、残酷なノックの音が響きました。
人魚姫と狼男の別れを告げる音です。
『どうか、幸せに…』
微笑みながら口だけを動かす人魚姫を、狼男は呆然と見送ることしかできませんでした。
宰相と人魚姫の結婚式。
交わされる誓いの口付けの味は、初めて流した涙の味がしました。
人魚姫が宰相の妻となって一年がたつ日、人魚姫は宰相にお願いを紙に書いてみせました。
『海を見に行きたいわ』
「海?」
『人間になる契約を交わした時、海の魔女と約束したの。一年後、結ばれた人間と共に海に行くと…』
結ばれた相手と言われ、表情をなくした人魚姫と結ばれたのは自分なのだと、宰相の気持ちは舞い上がります。
そして岬に行き、宰相はセレーナに懐かしい故郷を見せてあげました。
一年越しの海に表情を和らげる人魚姫に、宰相が海の近くに屋敷を建てようかと考えていると、前触れもなく温もりに包まれました。
人魚姫が宰相を抱きしめたのです。
夢のような出来事に宰相が動揺していると、人魚姫がニコリと笑って重心を海の方へと傾けます。
次の瞬間、二人の体は宙に浮き、海へと投げ出されました。
笑みを浮かべたセレンの足は人のそれではなく、美しいマリンブルーの鱗に覆われた尾びれでした。
その姿は、かつて船の上から見かけて心を奪われたもので、宰相は突然の出来事に息を忘れて見惚れました。
そして、次第に泡となっていく姿を見て、宰相は人魚姫の最期の願いを理解します。
今まで見たこともない笑顔で海に溶け込んでいく幻想的な光景に、宰相は冷たく厳しい顔に笑みを乗せて人魚姫を抱きしめ返しました。
一緒に心中と言うものも、いいかも知れない。と宰相は目を閉じました。
最期まで人魚姫が自分のものだったという事実に満足したかのように、宰相は泡になる人魚姫に身を任せどこまでも沈んでいきます。
抵抗しない宰相に目をみはり、人魚姫は悲しく笑いながら薄い胸に頭を預け、やがて……
愛する人と結ばれなかった人魚姫は、泡となり消えてしまいました。
泡となった人魚姫を掴むように宰相は手を伸ばし、一粒の真珠を掴んで穏やかな眠りに就いたのでした。