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人魚と狼男の不思議な共同生活7日目。
ダブルベッドの上で布団に包まり、荒縄に拘束されるウォルフを見てセレンは遠い目で溜息をついた。
「ねえ、これって意味があるの?ソファーではじめて寝たけど、あたし、体がバキバキだよ。せっかくベッドで寝てるのに、縛られて身動きできないウォルフは、もっとだよね?なに?好きなの?縛られるの?」
矢継ぎ早に文句を言いながら、セレンは乱暴に縄を解いていく。
「…好きでやっているわけないだろう。だから、お前がベッドで寝ればいいと言ったんだ」
「だって、一人で占領してたら悪いと思って…ウォルフのベッドだし」
唇を尖らせながら縄を緩めるセレンに、ウォルフは溜息をつき、中から布団を押し広げて抜け出そうと身を揺すった。
「お前が居なくても居ても、俺は野宿なんだから気にすることはない」
「ウォルフがそう言っても、気にするよ…」
布団から抜け出して首や肩をまわすウォルフを見て、セレンがぼやく。納得がいっていない様子に、ウォルフ立ち上がってセレンの頭に軽く手を置いた。
「本人がいいと言っている。むしろ、文句を言われる方が俺にとっては迷惑だ」
ウォルフにしては軽い調子で言われ、セレンはむっとしていた表情を緩める。
「ウォルフは言い方がキツイんだよ。もっと優しく言えばいいのに」
不満を言っている割にセレンは笑っていて、ウォルフもつられるように口角を上げ、スイカブルーの頭をポンポンと叩いた。
「お前に伝わっているならそれでいい」
言い逃げをして部屋を出て行ったウォルフの言葉にセレンは動きを止め、慌てて追いかけようとして足の痛みを思い出し、声にならない悲鳴をあげてその場にへたりこむ。
「……恥ずかしいやつ」
そう悪態をついたセレンの耳は赤かった。
朝食を終えて二人でのんびりと紅茶を飲んでいると、セレンは感慨深そうに息を漏らした。
「どうした?」
「いや、明日でここでの生活も終わりでしょ?早かったなー、と」
渋く感じていたこの紅茶の味にもすっかり慣れてしまった、とセレンはティーカップの赤い液体を覗きこむ。
「確かに、あっという間だったな。お前には振り回された…」
「人魚だもん。人間のルールを知らなかったんだから、しょうがないじゃん。でも、ありがとう。これであたしも、大陸に行ったら何とか生活できる……と思う」
「まあ、独り立ちは難しいだろうが、住み込みで働けそうな場所なら紹介してもいい。あとは、世間知らずと言って誤魔化すしかないな…」
「だよね、やっぱり一人では難しいよね……」
人間の世界に来る前は死ぬ気で頑張れば何とかなる、くらいに思っていたセレンだったが、実際に暮らしてみると全く今までの常識が通じない世界で、つくづくウォルフに出会えた自分は運がいいと思った。
自分の無力さに顎をテーブルに沈めたセレンは、目の前のウォルフを見上げて力なく笑う。
「ほんと、何から何までありがとう」
「これも何かの縁だ。放っておいて、後味の悪い思いをするのはごめんだからな」
「感謝してます」
ふざけた調子でセレンが頭を下げ、目が合うと二人の口からどこともなく笑いが漏れた。
そんな軽口の応酬を楽しみながら、穏やかな時間を過ごす。
迎えの船は夜明けにやって来る。ふたりの時間はもうわずかだった。そんな事実がないように、セレンはいろんな本を片手にあれこれ質問し、ウォルフは様になってきた歪な文字を見ながら人間のことを教えていく。
夕食には、かぼちゃのポタージュやライ麦パンとジャム、厚切りハムのソテーの横にはリンゴのコンポート、飴色に炒められた玉ねぎが添えられ、デザートには少し不格好なクッキーが置かれた。
比較的に甘めの料理ばかりで、セレンは味を忘れないように噛みしめて味わう。
お互いにはっきりとは口にしないが、迎えが来て大陸に降りたらこんなふうに気軽な関係ではいられないと、セレンは理解していた。
人間の世界には身分というものがあって、話しかけるのにも順序がいる。ウォルフが特殊なだけで、身分の高い人間は身の回りことなど殆ど出来ず、使用人任せ。形はそうでも人間ではないセレンに身分などある筈もなく、常識もない。そんな自分がウォルフの近くに居ることは迷惑にもなるし、身の危険も付きまとう。
(これが、ウォルフとの最後の食事……)
自分の好きそうなものばかり並んだ食事は、ウォルフなりの気づかいだと、セレンは感じた。自然と無口になる空気に、ウォルフがクッキーにかじりつくセレンに声をかけた。
「……夜、大丈夫だったら遠出をしないか?」
大丈夫だったら、というのは変身しなかったらという意味なのだろうと察し、セレンは誘いに頷く。僅かしかない時間を寝てしまうのはあまりにも勿体ないと思った。
夜が更け月が浮かび上がる頃、確認作業のようにウォルフは森に入り、セレンは家の中で期待に胸を膨らませていた。
(遠出って、どこまで行くんだろう?この前の花畑みたいに綺麗なところかな?)
森の中から人影が見えるのを待ちながら、セレンは包帯の巻かれた足をばたつかせる。しばらくして戻ってきたウォルフに、身を乗り出すセレン。
「お帰り、ウォルフ。早く行こう!」
「そんなに出たら落ちるぞ。今、そっちに回るから待っていろ」
窓から飛び出す勢いのセレンに、ウォルフは仕方がないと言わんばかりに息を吐き出し、家の中に入った。
ウォルフが部屋に入ると、既に靴を履いて準備万全なセレンが待ち構えていた。その嬉しそうな様子にウォルフは苦笑し、セレンに一枚の細長い布を渡す。
「なに?これ…」
「目隠しだ。その方が、目的地が分からなくて楽しめるだろう?」
「そうかな?」
悩むように白い布を見つめるセレンは、着けなければ遠出に行けない雰囲気に首をかしげながら、布で目を覆った。セレンがしっかりと巻き付けたのを見て、ウォルフは頷いてセレンを背負う。
視界が閉ざされたセレンは見えない不安にウォルフの肩をギュッと握った。扉を閉める音がして、夜の湿った空気を感じていると、ついでカサカサと草を踏みならす音が聞こえ、森の中に入ったことが分かった。
「ねえ、どこにいくの?」
「お楽しみだ。その為の目隠しだろう」
「でも、」
「危険な場所には連れて行かないから、安心しろ」
(そんなこと言ったって、ちっとも安心できないよ。お楽しみなんて、柄じゃない癖に……)
心の中で不満を漏らしたセレンだったが、規則的な揺れと温もりにまどろみ始め、いつの間に意識が遠くなっていった。
落ちそうになる体を戻そうとウォルフが背負い直す振動で、寝て起きてを繰り返すセレンの鼻を、懐かしい匂いが擽った。
上品な海の匂いとともに、海中から聞いていた波の音がはっきりと聞こえる。
「ウォルフ、海に来たの?」
「ああ、月に照らされる地上の海も綺麗だぞ」
海の中とは違うんじゃないか?と、言いながら歩みを止めないウォルフ。硬い土を踏みしめる音から、沈み込むような砂浜を進む音に変わり、セレンは魔女との『契約』を思い出して胸騒ぎを覚えた。
「ねえ、ウォルフ。もうおろしてよ。海に戻ったらあたし、」
「大丈夫だ分かっている」
身を固くするセレンの耳に、穏やかなウォルフの声が撫でる。暗闇の中のセレンはその横顔は見えなかったが、砂から硬い岩を歩く音になったので少し力を緩めた。
しばらく歩くと、ウォルフが丁度いい岩場にセレンをおろす。ふらつくセレンを支えながらその場に座らせると、目隠しを外そうとするその細い手首を捕まえた。
「まだ、そのままだ」
耳元で囁くように言われ、セレンは言い知れない不安に「なんで?」と震えながらウォルフに問う。
「お前に、一つ話していないことがある」
「話してない、こと?」
「そうだ。……すまない」
「なんで、謝るの?」
凪いだウォルフの声が自分の震える声とは不釣り合いで、セレンは目の前に居る存在を確かめたくなって手を伸ばす。何度か硬い体を探り、ウォルフの手を見つけたセレンはそっと握りこんだ。その手は冷たい海の風のせいかひやりとしていた。
「俺は、お前に一つ嘘をついた」
「なにを、言っているの?」
戸惑いながらも手を離さないセレンの頬に、ウォルフは柔らかく触れる。冷え切ったその手にセレンは身をすくめる。
「人魚について、俺は一般的なものしか知らないと伝えた。だが、俺は一つだけ知っていることがある」
「知ってること?」
「『人魚姫』のことだ」
「……っ!」
息をのんだセレンに、ウォルフは見えていないと分かっていても、懺悔をするように膝をつく。
「お前から魔女との『契約』の話を聞いて、言いだすことが出来なかった」
《期限は君が真実を見つけるまで…だけど、その髪が元の長さまで伸びたり、海に戻ったら魔法は解けてしまうから気をつけて》
セレンは『契約』の内容を思い出し、何故の二言が出なかった。
ウォルフが、自分と居たかったのだと、暗に告げたことに気がついてしまった。そして、今ここで謝る理由も。
「……ウォルフは、あたしを人間の世界に連れていきたくないんだね」
「ああ、お前には澄んだ深海の方が似合っている。領地に行ったら、俺はお前を守ることは難しい」
「もし、あたしが帰りたくないと言ったら、どうするつもりなの?」
「…世界を旅すると、そう言っていただろう?」
「え?」
唐突にそういわれ、セレンの目蓋は瞬いた。ややあって、外で交わした他愛もない会話を思いだす。
「もし、お前が本当にそう望んでいるなら、危険もあるが、出来る限り守ろうかとも、考えた。だが、いずれは帰ってしまうだろう?真実を知らなくても、海に入らなくても……」
一度区切って、ウォルフはセレンの肩まである指通りのいい髪を梳いた。
「この髪が、元の長さに戻る頃には海に帰ってしまう」
「切ったら、戻らないかもしれないよ。それでも?」
「それでも、だ。最初から別れが決まっているなら、傷は浅いほうがいい」
「ウォルフは、臆病だ」
責めるようなセレンの言葉に、ウォルフはスカイブルーの髪から手を離す。
「そうだな。俺は臆病だから、偶にお前が気まぐれで満月の夜に、ここで歌ってくれるのを楽しみにするとしよう。それぐらいが、丁度いい」
視界が閉ざされたセレンは、自虐的なウォルフの顔に手を伸ばし、硬い頬骨を撫でる。
「あたしが忘れるかもしれないのに?」
「ああ、そうだ」
「もう、二度と来ないかもしれないのに?」
「ああ、それでもだ」
乾いた頬から目尻に手を滑らせ、セレンは白い布を湿らせる。
「なんでお前が泣くんだ」
「ウォルフが泣かないからだよ」
「泣く必要はない、お前は、求めていたものを得るのだから」
関係が深くなってから別れるのは辛いから、早めに別れようなんて、酷い言い分だ。相手のことも考えているかのような口ぶりも卑怯だった。逃げるくせに、自分は健気に待っているという言葉もずるい。
セレンは憎たらしい頬をつねり、伸びの悪い薄い肉を引っ張ってやった。そして、歪んだウォルフの顔を想像して笑う。
「……ひどい人」
白い頬に滑る涙を見ながら、ウォルフは何もできなかった。月を背負って悲しげに笑う人魚に、触れてはいけないとさえ思った。
「すまない」
「謝らないでよ。せめて、『大陸行く行く詐欺』をした酷い人間として、きれいさっぱり切り捨ててやるんだから」
引きずるなんて、柄じゃない。と唇を尖らすセレンに頬を掴まれたまま、ウォルフは苦笑した。
「笑うな!相談もせずに決めて、自分ひとり抱え込んで……あたしは、怒ってるんだからね」
言いながらだんだんとかすれた声に、ウォルフは謝罪の言葉を飲み込む。謝ったら、次は左頬が腫れそうだと思った。
「ああ、怒ってもらって構わない。お前にはその権利がある」
「そうだよ、これで怒るなって言ったら、海に突き落としてやるんだからっ」
涙声のセレンに、ウォルフは拳を握りこんで動きそうになる手を諌める。
「それは困る。俺はカナヅチだからな」
「…それは困るね」
軽口を交わして、ウォルフが「さて、」と言うとセレンは緊張した面持ちで居住まいを正した。
「夜が明ける前に、話そう。『人魚姫』の真実を……」