10
一面の花畑を堪能し、セレンは再びウォルフの背に乗って帰路についていた。その手には、数本のマーガレットと紫詰草が握られている。
花を見るだけで感動がよみがえり、興奮が冷めぬセレンは落ち着きなく浮いた足をブラブラとさせた。揺れるせいで落ちそうになるセレンを何度も背負い直すウォルフは、嬉しそうに花を見つめるその姿に開きかけた口を閉じる。ここで叱っては、不粋だと思った。
家に到着すると、そろそろ陽が落ち始めるころで、ウォルフはソファーにセレンをおろして濡れた布を渡し、足を拭くように言って食事の用意を始めた。
土に汚れた足をきれいにしたセレンは片づけようと立ち上がったが、ウォルフに「大人しくしていろ」と、汚れた布を図鑑と交換されてしまった。
(少しくらいなら、歩いても大丈夫なのに…ウォルフは過保護すぎだよ。お母さんみたい)
手持無沙汰になって図鑑をめくりながら唇を尖らせたセレンは、ウォルフをチラリと見る。器用に包丁を使って野菜を切る手つきは、ベテランの主婦のようだ。
(そう言えば、ウォルフってなんでこんなところに居るのかな?なんか、育ちもよさそうだけど、家事だって万能だし……あたし、ウォルフのことなんにも知らないんだ。気になるなあ。でも、聞き返されたら、あたし何て答えればいいんだろう?)
「なんだ?人の顔をじろじろと見て」
「へ!?」
ぼんやりしているとウォルフに声をかけられ、セレンはバサリと図鑑を落としてしまった。慌てて拾う様子に、アホの子を見るような目を向けられ、セレンは口をへの字にしてキッチンを恨めしげに睨む。
「お前が勝手に落したんだろう。で、何か用か?」
「何でもない!」
拗ねた様子で図鑑を広げるセレンを不思議そうに見て、ウォルフは再び作業に戻った。セレンは追及されなかったことに安堵しつつ、散歩の前に置いて行った筆記用具で図鑑の文字を書き取っていく。
作業に没頭していると食事の用意が出来たらしく、ウォルフに声をかけられたセレンは、大分使い慣れたナイフとフォークを操って、フリカデラという平べったいミートボールを頬張る。横に添えられたピクルスは酸っぱく、セレンは初めての刺激に口を窄めて目を白黒させ、ウォルフの笑いを誘った。
食卓には、シンプルなグラスに花が凛と咲き誇っていた。
食事が終わると、ソファーでウォルフと陽が暮れるまで勉強をした。百科事典のような図鑑は言葉が難しく、セレンの頭を悩ませたが、根気強い説明にスポンジが水を吸収するように知識を詰め込んでいった。
(これも、大陸で人魚姫のことを知るため!人間の世界に溶け込まなきゃ、探すに探せないだろうし)
意気込むセレンの集中力は高く、ウォルフも覚えの早い生徒に熱のこもった指導をする。そうしているとあっという間に時間が過ぎ、ウォルフは部屋が暗くなってきたことに気がついた。ハッとしたウォルフは、直ぐに勉強を中断してごねるセレンを部屋まで運んだ。
去り際にウォルフはセレンの土に汚れた包帯を外し、一度清潔にしてから薬を塗って新しい包帯を巻く。それが終わると、「ゆっくり休め、」と言って足早に部屋を出て行ってしまった。
あっという間に部屋から居なくなったウォルフにセレンはキョトンとして、首をかしげる。
(あんなに急いで…また、外に行くのかな?)
横になったセレンは、ウォルフが外に出てしばらくしたらまたオオカミを眠らせに行こうと決めて、静かにその時を待った。
(しまった!!)
いつの間にか夢の世界に旅立っていたセレンは、浮上しかけた意識の中でそう叫んだ。
「寝ちゃった……」
ウォルフはもう外に行ってしまっただろうかと、セレンは鈍い痛みを無視して急いで靴を履き、部屋を出る。
リビングを覗いてもウォルフはおらず、物置部屋を見てもいなかった。この家は寝室とリビング、小さな物置部屋しかなく(ちなみに、トイレはないので自然に則っている)、ウォルフがこの簡易的な家を小屋というには納得な規模だ。
セレンはリビングにあった紙を持ち、すぐに小屋を出て森へ入っていく。木の根や、石の凹凸が潰れた豆を突いたが、それより、ウォルフがオオカミに遭っていないかが心配だった。
(昨日の黒猫は今日はいない……やっぱり、案内してくれていたんじゃなくて、偶々だったのかあ)
少し期待していたが、セレンは鍵尻尾が見つからず落胆した。しかし気を取り直して、迷子にならないように文字の練習に使っていた紙を千切っては落とし、森の奥へ進む。
どのくらいの時間を歩いたのか把握できなかったが、セレンは小屋から大分離れた位置まできていた。当てもなく歩き回ったので帰り道が不安になったが、振り返って目印の紙があることを確認し、大丈夫だと前を向いた。
ずいぶん歩きまわり、紙が後1枚もない、という所でセレンはウォルフに連れてきてもらった花畑に出た。
月に照らされたマーガレットや紫詰草は幻想的で、特に、花畑の半分以上を占める白い花弁が月光で淡く光輝く光景は、陽の光とはまた違った美しさで、セレンは時を忘れて思わず魅入られた。
(……今は、どれくらいの時間なんだろう。目印の紙がなくなったら、帰れなくなってしまう。小屋に居ないことに気付かれて、約束を破ったのがバレてしまったら、ウォルフに嫌われるかな?でも、このまま帰って、ウォルフが怪我をしてしまったら、あたし、ぜったいに後悔する)
元は白い筈の紙は、落書きのような文字に埋め尽くされ、その面積は4分の1ほど。悩んで動けなくなってしまったセレンは、敷き詰められた花を前に膝をついた。
(あたしの歌は、どこまで届くんだろう。森全体に聞こえれば、オオカミを眠らせることが出来るかな?オオカミは耳がいいらしいし、もしかしたら小さく聞こえても効果があるかも……よし!)
ここで精一杯歌おう、そう決心してセレンはその場に座り込み、小さくなった紙を胸に当てて息を吸い込んだ。
(響け!!)
「lu――――ah――――」
最初は優しくゆったりと、次第に強く広がる歌は波紋のように鳴り渡る。
満月を見上げながらセレンは繰り返し歌い続け、月が薄らいできた時、草木をかき分ける音がした。セレンは歌を絶やすことなく森を注意深く見詰めていると、黒い巨体が覚束ない足取りで姿を現した。
こちらに近づいてくるオオカミにセレンが胸の前で手を握りしめると、クシャリと紙が音を立てる。それに気付くことなく、一騎打ちを挑むように獰猛に光る金の瞳から目を逸らさず、セレンは桃色の唇から音を紡ぎ続けた。
花畑を半分ほど進んだ所で、オオカミは力尽きたように花の中に体を沈める。動かなくなるまで歌い続けたセレンは一度歌を止め、そろりと様子を窺う。ギラついた金の瞳はなりを潜め、規則的に上下する胴体をセレン人差し指で突く。そして、素早く後ずさった。
(寝てる…)
鋭い爪は恐ろしいが、今日は鋭い牙が口の中に隠れており、怖さが半減している。近寄ってまじまじと見ながら恐る恐る触れていると、夜の帳が上がってきた。
月が薄まり、夜が開けてくる。それを見てセレンはまずいと焦った。ウォルフが小屋に帰っていたら、外に出ていることがバレてしまう。急いで戻ろう、そう思った時、セレンは自分の手が勝手に下りて行くのを感じた。
(何で手が……違う。これは、)
何故と思って手元をよく見ると、オオカミが縮んでいるように見えた。そんなはずはない、と首を振ってみるが、どんどん小さくなるオオカミ。
人間の大人ほどの大きさになると、次いで、背中に亀裂が入ったように見えてセレンは目を疑った。しかし、それは錯覚でなく、背中から頭へと一直線に走り、その奥には肌色の皮膚が見える。線のような筋がどんどん広がって、まるで毛皮が剥がれていくような光景だった。
見てはいけない、こんなところで油を打ってないで帰らなくては、そう思っているのに、セレンの体は微動だにしない。
徐々に肌色の部分が大きくなり、中から金色の短い毛が覗き始める。セレンはそれを見て、目を大きく見開いた。握った手のひらからじわじわと汗が噴き出し、かすれる声を絞り出す。
「……ウォル、フ?」
ただ一人の知人を包むように剥がれ落ちた毛皮は、うつ伏せに倒れるウォルフの腹に向かって縮まり、やがてなくなった。
(どういう、こと?……あのオオカミは、ウォルフだったの?ウォルフは人間じゃないの?あたしみたいに、別の種族?)
意味が分からない、とへたりこむセレンを朝日が照らす。混乱する頭の中、一つだけはっきりしたことがあった。
(ウォルフが隠したかったことは、これだったんだ。なら、あたしはここから離れなきゃ。知ったって分かったら、きっと傷つく)
どちらが、ではなく、どちらもとセレンは思った。
裸で倒れるウォルフには悪いが、小屋に帰ろうと立ち上がる。そうして、少しふらつく足取りで目印を拾いながら歩き始めたが、ふと気付いた。
(あのままじゃ、さむいよね?まだ起きないはずだし、紙はこのままにして、一度洋服を持って戻ってこよう。オオカミの姿は見なかったことにして…うん、それがいい)
セレンは名案だと顔をあげて、小屋を目指す。途中何度も足の痛みに立ち止りながら、ゆっくりと足を進めた。
なんとか小屋にたどり着き、セレンは引き出しという引き出しを開けてウォルフの下着とシャツ、ズボン、靴、それから泥に汚れた体を思い出して濡らした布を手にとると、再び紙を目印に花畑を目指す。
戻ってきても、ウォルフは微動だにしていなかった。セレンはウォルフを揺り動かし、無理やり起こそうと名前を呼ぶ。
「ねえ、ウォルフ、起きて!ウォルフっ!!」
効果がないようで、反応しないウォルフにセレンは途方に暮れた。じっとしていてもしょうがないので、ウォルフを裏返し、下半身の大事な所を見ないように顔をそむけ、ズボンで隠す。畳んだ布で出来るだけ土を拭いて、何とか上半身だけを起こし、拭く面を変えて背中をきれいにしてからシャツを着せた。
この際、シャツが汚れるのは仕方がないと、2周りは大きい体を仰向けに寝かせたセレンは自分の膝にウォルフの頭を乗せ、お日様を堪能することにした。
ポカポカと暖かい陽気に、夜中に起きたセレンは眠気に襲われそうになるが、耐える。気を紛らわそうと、柔らかいウォルフの金髪を手にとって、三つ網を編んだ。短い髪では直ぐに終わってしまい、解いては編み、を繰り返す。それが刺激になったのか、ウォルフはそっと目を覚ました。
柔らかい感触と、覗きこんでくる誰かは認識できるが、まどろんだ頭では理解できない様子でウォルフがぼんやりしている間、セレンは観察をすることにした。
昨日薄くなった隈はまた濃くなっていて、見えたり見えなくなったりする琥珀の瞳は、光の加減によって金にも見えて、綺麗だった。オオカミの荒々しく激しい色ではなく、優しくて穏やかな色。
ぶっきら棒で、説教しいで、細かくて、眉間にしわが寄ってて、目つきは鋭いけれど、いつも見守ってくれる優しい人間。例え恐ろしいオオカミに姿を変えても、セレンが知っているウォルフはそれが全てだ。
(……不思議。あんな姿を見たのに、あたし、なんとも思ってない。ふつう、怖がってもおかしくないのにな。こんなに穏やかな気持ちになるなんて、変なの)
セレンは自然と笑みがこぼれて、ウォルフの角張った額を覆うサラサラとした前髪を優しくかき分ける。
「……おはよう、ウォルフ」
むかし母親が起きた時に贈ってくれたように、セレンは目を見開くウォルフの額にそっと唇を落とした。