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3メートル近い野生のオオカミが、雑草を嗅ぎながら何かを探っているようだった。
セレンは緊張から呼吸が浅くなり、短い間隔で吐き出される息がピンと立った獣の耳に届かないかと、身を固くする。
風下なのか、オオカミは近くに居る人間の存在に気付いていないようで、何とか落ち着こうとセレンは胸の前で手を組み、震える息をゆっくりと吐き出した。
(大丈夫、気付かれてない……鮫に襲われた時の方が、状況は悪かった。あの時に比べたら、こんなの全然だ)
オオカミとの距離は正確には分からないが、少なくともジンベエザメ2匹分くらいはあるし、木という障害物があるので見つかってもすぐには襲われないだろう。
無意識に腰にある傷痕を撫でながら自分に大丈夫と言い聞かせ、セレンは大きく息を吸い込む。
「lu――――」
湿った重い空気に、澄みわたる歌声が響きわたる。
言葉でもハミングでもない音が木々の合間を縫って通り抜け、穏やかにたゆたう海のように広がった。
オオカミの耳にも歌声は優しく入ってきたが、不思議と四方から反響する音に地面から顔をあげて辺りを見回すも、セレンの居場所が特定されることはない。
終わることなくこだまする『人魚の歌』、どこからともなく聞こえる歌は海の上に居たら思わず海面を覗きこみ、心地よい声にそのまま眠りに誘われて深海に沈ずんでしまうだろう。
しかし、ここは陸。意識を保てなくなったオオカミは力の抜けた足でその巨体を支えることができず、だらりと地に伏せた。
オオカミが動かなくなってからしばらくして、セレンは徐々に歌声を小さくしていき、唇から音を紡ぐのをやめる。
そして、ゆっくりとなるべく音をたてないように獣に近づくが、足場の悪さに何度も転びそうになった。物音を大音量で発生させるセレンがオオカミに気付かれなかったのは、奇跡とも言えよう。
恐る恐る地に伏せる黒い塊に近づき、セレンは穏やかに上下する体を覗きこむ。硬そうな体毛に覆われたオオカミは、歯を剥き出しにしながら寝ているようだった。
間近にいても襲ってこない様子に、セレンは成功したとホッと一息ついた。
(これでウォルフも安全だ……)
オオカミの全長は約2,5メートルくらいあり、セレンの細腕が2本あっても足りないほどの前足からは凶暴な爪が覗いている。
それをまじまじと見て、こんなのに襲われたらひとたまりもなかったと一度身を震わせ、セレンはウォルフが今までこの獣に遭遇しなくてよかったと心底安心した。
一仕事終えて満足したセレンは小屋に戻ろうと踵を返したが、今まで感じていなかった足の痛みに襲われた。地面に柔い足裏を着けるたびにジンジンとして、体重をかけるとそこがピリピリと痛む。初めての苦痛に顔を顰めたが、ウォルフを守った証拠だとセレンは少し誇らしかった。
来た道を引き返そうとすると、先ほどの黒猫が遠くからこちらを見ていた。先ほど居なくなったのは獣が近くに居たからか、と予測をつけてセレンはなんとなく黒猫のもとに向かう。
間近まで行くと、黒猫は鍵尻尾を揺らしながらセレンと距離を取った。追いかけるように着いて行くと開けた場所に案内され、そこはウォルフとともに生活する小屋だった。
「……帰り道、教えてくれたの?」
着いたぞ、とでもいうかのように顎で小屋をさす猫にセレンは目を見開き、次いで微笑む。お礼を言おうと傍によるとつれなく避けられ、もう用はないと猫は足早に森の中に消えて行ってしまった。
「…猫って、あんなもんなの?」
猫の習性を知らないセレンはその気まぐれな様子に少し戸惑い、まあいっか、と小屋に戻ることにした。
土で汚れた足をこっそりと洗い、セレンは靴を脱いでベットへダイブする。ずっしりと沈み込む体に身を任せて瞼を閉じ、セレンはすぐに眠りについた。
(今日は、疲れたなあ……)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
セレンがオオカミに対峙しているころ、深い眠りに就くマーリンを使い魔はしつこく突いていた。
「おい、おい!起きろって!お前が気にしてた人魚が大変なことになってんぞ!!」
いつも意地の悪い言葉を囁いている使い魔にしては珍しく大声で騒ぐので、マーリンは気だるげに瞼を押し上げる。鮫の形をとっている使い魔を眠たげな眼で見つめても答えは返ってこず、マーリンは仕方なく口を開いた。
「…なに?」
「なに?じゃねえよ!あの小娘がヤバイ状況だっつってんだろうが」
ヤバイ、と言っている割には楽しそうな声色に、マーリンは顔を顰めた。この使い魔は、自分に嫌がらせをすることを生きがいにしているので、目の前で厭らしく笑う鮫に言い予感は全くしなかった。
「おら、早く鏡で見ろよ。じゃねえと、大変な目に遭うぜ」
斜めに尖った歯をニヤリと見せつけるが、使い魔の声は中性的なアルト声なのでそのミスマッチさが怖さをマイナスにしている。鮫のイメージに合わせているのか、時代錯誤な不良のような喋り方も違和感しか感じない。
マーリンが海底に置いてある黒い壺のような大釜に嫌々手をかざすと、濁った紫の液体が透明になり、小さな孤島の森が写された。その様子を、使い魔はマーリンの周りをじれったく回りながらニヤニヤと窺う。
「な?な?ヤバイだろ」
映し出された森には、セレンと巨大な獣が対峙していた。マーリンはその光景を見て一度目を見開いてから、眉をひそめる。
「あの人魚の小娘、死んじまうかもなあ。そうしたら、またお前は独りぼっちだ」
ゲラゲラと不快な声で笑う使い魔に、マーリンはもう興味ないとでも言うように大窯から目を逸らして寝る態勢に入った。
「なんだよ、小娘のこと、見殺しにするつもりか?ひどい奴だなあ」
時折、つるつると尖った鼻で突きながら洞窟内を泳ぎまわる使い魔を、煩わしいと言わんばかりにマーリンはしっしっと手を払うようにして、ホホジロザメをオレンジ色のフウセンウオに変えてしまった。
「ふざけんなよ!戻せよこの野郎!!」
5センチほどの小さい体で体当たりをするも、マーリンはどこ吹く風だ。泳ぐのに適さない体で抗議するのが疲れたのか、使い魔は海底の岩に小さな吸盤で張り付いて、ゼーゼーと切れた息を整える。そうして、キッとマーリンを睨みつけた。
「覚えてろよ!!」
小さくなったせいか甲高くなった可愛らしい声で悪態をつき、全速力で洞窟を出ていく使い魔をしり目に、マーリンは大釜から響く美しい人魚の歌を子守唄にして瞼を閉じた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
人間界に来て4日目の朝、セレンは目を覚まして立ち上がった瞬間、足に走る痛みに小さく悲鳴を上げた。それを聞きつけたウォルフが、部屋の扉をノックする。
「おい、どうした?入るぞ」
返事を待たずにウォルフが扉をあけると、セレンが床に座り込んでいた。
「大丈夫か?」
俯いて悶絶するセレンは駄目だと首を横に振った。状況が掴めないウォルフがセレンの傍に膝をつけると、まっさらだった足裏に潰れた豆が出来ているのを見つけ、眉間にしわを寄せる。
「豆がつぶれているな……お前、あの後外に出たのか?」
「…出てない。夜に水ぶくれができてるなー、と思ってたんだけど、破れちゃってる?」
疑わしげに見つめられ、セレンは痛みから回復して首を横に振った。約束を破ったら怒られると思い、眉を下げて応えるとウォルフがため息をついた。
「そうか。とりあえず、今日の散歩は休みだな」
「え!?大丈夫だよ!こんなの、薬を塗っておけばすぐ治るよ」
「駄目だ。悪化したら、明日に響くだろう。とりあえず、リビングに行って薬を塗るから、運ぶぞ」
「え、運ぶ?」
外出禁止令が出て、セレンは絶望した顔をする。それを無視して、ウォルフはセレンを横抱きにした。不安定な体制に驚いて思わず逞しい首を掴むと、ウォルフが「苦しい、殺す気か」と呻いたので、セレンは謝って肩に掴まることにした。
セレンを抱いたまま器用に扉を開けてセレンをソファーにおろすと、薬箱から傷薬と包帯を取り出し、治療を始める。
「…あまり無理をすんじゃない。痛いならそう言えば、俺が背負う。分かったな?」
「うん、ありがとう」
労わるように優しく包帯を巻きながらウォルフがそう言うと、セレンは大人しく頷いた。
治療が終わって、簡単なオープンサンドイッチと果実水で朝食を済ませると、セレンは図鑑で文字を書き取りながら、時折ウォルフに読み方と意味を教えて貰う。そうして昼まで過ごすと、洗濯物を取り込んできたウォルフが話しかけてきた。
「外に散歩に行くか?」
「…え、でも、」
誘いに歯切れ悪く答え、セレンは包帯の巻かれた両足を見てしょげた。そんな様子にウォルフはセレンの目の前に背中を向けてしゃがみ込む。
「これなら、問題ない」
「…?」
「俺の背中に乗れば、歩かなくて済むだろう?」
「背中…」
おんぶという習慣がないセレンは意図が分からず首をかしげると、ウォルフが振り向いて自身の背中を叩いて示した。ややあって意味を理解したセレンは、満面の笑みで大きな背中に飛びつく。
「っ!急にのし掛かるな、危ないだろう」
「はーい!」
叱られたはずのセレンは元気よく返事をして、後ろ手に細い体を支えるウォルフは、仕方がないな、とでも言うように眉を下げた。
「まったく、お前は……肩に掴まれ。持ち上げるから動くんじゃないぞ」
「はーい」
暢気なセレンのひざ裏を掴んで前に持っていき、脇を閉めたウォルフは立ち上がって「行くぞ」と声をかけた。それにセレンは頷いて、頼りがいのある背に体を預ける。
温かな体温が心地よく、セレンは目を細めながら高くなった目線を楽しんだ。外に出ると、ウォルフは迷いない足取りで森へ向かう。
「どこに行くの?」
「着いてからのお楽しみだ」
珍しく軽い調子の低い声に、セレンは心を躍らせ、背中越しにウォルフの顔を窺い見た。太陽の光に照らされたその顔は血色よく、昨日より薄い隈に安心した。
(うん、こうしていると、怪我も悪くないかも)
急にフフ、と笑い声を上げるセレンを横目で見て、ウォルフもつられるように口元を緩めた。
しばらく森を歩くと、開けた場所が見えてきた。陽の光を遮る木々がなくなり、セレンは眩しさに目を瞑り、そっと瞼を開けると、そこには白や黄色、ピンクの花が一面に敷き詰められていた。
「うわあ…!」
思わず歓声を上げたセレンに、ウォルフは「マーガレットだ」と花の名前を教えて、ゆっくりと色とりどりの花畑にセレンを降ろす。
「きれい……これ、図鑑に載ってた花だよね?」
「ああ」
「こんなにいっぱい……」
右を見ても、左を見てもあるマーガレットに、セレンは恐る恐る指先で触れた。白い花弁は少しひんやりと冷たく、黄色い中心からは見た目と違ってツンとしたにおいがするが、はじめて見る花畑に見とれるセレンは全く気にならなかった。
マーガレットに隠れるように小さな紫色の花があり、ツンツンと上を向く花弁をもったそれは、紫詰草というらしい。
「ウォルフ、連れてきてありがとう!!」
「ああ、」
花畑の中心で笑う少女を、ウォルフは眩しく思いながら目を細めて頷いた。