四年ぶりの猟奇殺人事件
生徒の机の上に花瓶の置かれた教室というのは妙な空気が漂うものらしい。
誰もが見ないようにしている。そのくせ、あからさまに見ないふりをするのも薄情なようで良心がとがめるみたいで。
殺人事件という新聞やニュースの向こう側で起きているはずの出来事が、何をとち狂ったか我らが地元で発生してから早一月。三人目の被害者である田和瀬さんの葬儀もつつがなく行われ、西立花中学校二年四組はいつも通りの日常に回帰しようとしている。
でもつぎはぎの目立つ日常はぎこちなくて、もとがどんな姿をしていたのか自分でも忘れてしまっていて、たぶんこうだったに違いないという思い込みを頼りにあるべき姿を演じ続ける。
そこにあるのは簡単に言ってしまえば恐怖。犯人はまだ捕まっていないのだから。次は自分が犠牲者になるのではないかという、漠然とした不安がこの空気の正体なのだろう。
発見された死体は損壊がひどく、世間は四年前に起きた連続猟奇殺人事件の再来ではないかと怯えている。
それは半分は間違いで、四分の一だけ正解だ。
今この町には最低でも人殺しが三種類は存在している。
一つは田和瀬さんを殺した犯人。正体はわからないし、動機も不明。
一つはクラスメイトの雲井彼雁。彼女はこの件に限って言えば傍観者だ。もっとも、彼女が嘘をついていなければという条件の上だけど、彼女にとって殺人はこういうものではないのできっと無関係だろう。
そして残る一つがぼくの部屋に絶賛居候中のくろねこさん。四年前の連続猟奇殺人事件を起こした原因。人間ではなくネコなので、犯人ではなく犯猫とでも呼ぶべき存在。ちなみに今も昔も動機は変わらず捕食で、田和瀬さんの死体の損壊はつまりそういう意味である。
部屋でおとなしくしておいてほしいけど、どうだろう?
猫に部屋の中でじっとしていろと言うのは酷だろうか。
いやでも、くろねこさんはただいま重傷を負って療養中だ。案外言われた通りにベッドの上で丸くなっているかもしれない。
ああ、そうだ。帰りに薬局によって包帯を買い足しておかないと。
予冷が鳴り、クラスメイト達が次々と席に着くのを見ながらふと、そんなことを思い出した。
一日が始まる。クラスメイトが死んでも、死者を置き去りにして当然のように朝はやってきて、ぼくは数学の教科書を机の上に取り出した。
♪
生徒から犠牲者が出た西立花中学校では現在、日のあるうちに帰宅するために部活動が禁止されている。つまりこの昼休みが終わればぼくの帰宅を阻むのは五時間目の古典と六時間目の現代文のみということだ。
もしこれが小学校だったら集団登下校が義務付けられていたことだろうから、自由気ままに一人で帰宅することが許されている中学生はある程度大人の一員として認められているということだろうか。
中学生というのは何かと中途半端な存在だ。
子供から見てみれば大人の一員。そう、たとえば小学校に入学したばかりのころを思い出すと、入学式で新入生をおんぶして体育館に入場した六年生のお兄さんお姉さんたちは立派な大人に見えた。さらにその上の中学生なんて社会人と区別がつかなかった。ま、当時は社会人だなんて言葉は知らなかったけど。
そして今実際に自分が中学生になって一年以上の年月が経過したが、体感とすればまだまだ子供だ。
いざ自分がその立場に立ってみると思ったような場所ではなかったというのは割とよくある経験で、小学校六年生になった時も同じことを感じていたことを鑑みるに、きっとぼくは高校生になっても大学生になっても、そして社会人になっても同じことを感じ続けるのだろうと思う。
一つ大人になった体感なんて、せいぜい電車に子供料金で乗れなくなった程度だ。不便でしかない。まあ、そこまで頻繁に電車に乗っていたわけではないけど。今はまだ学割というものが存在するが、いずれすべてのものが高校生料金になり、大学生料金になり、社会人料金になるのかと思うと年を取るのが嫌になる。合法的に18禁のエロサイトを閲覧できたり酒やタバコをやれるという特典程度ではとても相殺できない。
「そう? 私は嬉しかったけどね。筆箱の中に堂々とカッターナイフを入れられるようになったもの」
そう言いながら卵焼きを箸で二分割するのはクラスメイトの雲居彼雁。
しかしぼくは知っている。彼女がカッターナイフだけでは飽き足らず、ナイフを制服の内ポケットや学校指定のカバンの下敷きの下に仕込んでいることを。
「仕方がないじゃない。もう習慣みたいになっちゃっているのよ」
そんな物騒な習慣を持つ彼女は年を取ることに対する忌避感はないようだ。むしろ一年一年と成長する自分の身体を素直に喜んでいるらしい。体力がないと厳しそうだからね、彼女の趣味は。
本人が聞けば否定するだろうが、ぼくから見れば趣味に分類していいと思う。
雲居彼雁曰く、彼女にとって人殺しとは呼吸のようなものらしい。
「絶対的に根本からものすごく違っていて、それでも説明するためにあえて近い言葉をむりやり当てはめるなら、って感じだけど」
しないと苦しくなって、生きるのに必要不可欠という意味だろうか。
そうではないと彼女は言う。
「まあどこが違うのかって言われたら説明に困るけど。人間って呼吸しなきゃ死ぬけど、死にたくないから呼吸している人間ってそういないでしょ? 食べなきゃ死ぬけど、餓死したくないという強迫観念に背中を追われながら口に物を運ぶこともあまりないじゃない? そんな感じ」
自分から聞いておいてなんだが、あまり理解できなかった。根が真面目な彼女が持てる限りの語彙を尽くして説明してくれたことを考えると申し訳なさもひとしおだ。
感じることはできた気がするが、理解には及ばなかった。
「あるいは人間にとっての二足歩行に近いかも。必ずしもそうあるべきというわけではないけど、限りなくそうあることが自然な形。それが私にとっては人殺しなの」
中学生になって何が一番嬉しかったって、筆箱の中にカッターナイフを堂々と入れられるようになったことだと真顔で言う物騒な女子中学生。そんな彼女が自分の目の前で弁当箱を広げていることよりも、自分の前で誰かが弁当箱を広げていることに違和感を覚えるのはなぜなのだろう。彼女とは去年もクラスメイトだったのだから、もう二年目の恒例行事であるはずなのに。
「だって先がまるいハサミで殺すのって大変なのよ?」
「なんでこんな物騒な話しているんでしたっけ?」
「たしか、今回の殺人事件について何か情報が手に入ったってとこから、殺人についてどう思うって感じに話が流れていったんじゃなかったっけ」
RPGじゃあるまいし、中学生が教室で情報を集めたところで事件解決につながるような手掛かりが得られるはずもない。この世界はゴールへ至る道筋が懇切丁寧に用意されている親切設計ではないのだ。
昼食を彩る雑談の内容にしては血なまぐさすぎる内容だが、二転三転しながらお互いに話の流れを制御しようとしない姿勢は雑談以外の何物でもなかった。
「相変わらず収穫は無し、ですか」
「何を期待しているのかは知らないけれど、私は何も知らないし、知る予定もないよ」
「殺人鬼が持つ独自の情報網とか無いんですか?」
「小説の読みすぎ。少なくとも私は知らないわね、言ってしまえばアマチュアだもの」
プロフェッショナルの殺人鬼もいるのだろうか。殺し屋とか?
まあ今のところ警察のお世話になっていない連続殺人犯の女子中学生が前の前にいるような世の中だ。殺し屋の一人や二人いてもおかしくない。
せめてくろねこさんに傷を負わせた相手の手がかりだけでも掴みたかったんだけどな。
四年ぶりにくろねこさんと再会してからそれとなく情報を集めているものの、もとより友達と呼べる相手が欠如しているぼくの人間関係ではたかが知れている。結果はご察しくださいといったところだ。
とても順当。世の中そんなに甘くない。
「ところでさ。昼休み残り十分を切ったけど、食べないの?」
「喋りながら食べられるのがおかしいんだと、ぼくは思いますよ」
どうして女子って食事を含め会話しながら別の作業ができるのだろう。連続殺人事件はいずれ犯人が捕まり謎は解けるだろうけど、こればっかりは永遠に氷解しない謎のような気がする。
くだらない思考の羅列はそこまでにして、食べ物を無駄にしないためにぼくは弁当の残りを口に詰め込む作業に入った。
殺人鬼ではあるものの順当に女子中学生もやっている雲居彼雁は弁当を片付け、ぼく以外のクラスメイトと雑談をするために席を移動した。
♪
自転車に乗ると季節の移り変わりがよくわかる。
耳が痛いを通り越し熱く感覚が無くなる寒さから、手袋が無くとも運転に不安を抱かない気候へと移行した空気の中をゆっくりと立ちこぎで帰宅する。
前かごには学生鞄と、途中で買った包帯とその場にあった中で一番高いキャットフード。
特にこれといったイベントもなく、帰宅時間以外は日常のまま自宅へと到着した。両親は共働きなので家にいないが、淡いブルーの自転車がとめてあることから妹が帰宅していることがわかる。
くろねこさんがそんなドジを踏むとは思えないが、確実に愉快犯の気がある彼女の性質を思い浮かべて不安を拭いきれないまま扉を開けた。
「ただいま」
「おかえりー」
迎えてくれる声は一つ。ぼくが中学校に進級して部屋が分かれて以来、妹の一人部屋となった彼女の自室からだ。靴を脱ぎ、洗面所に行って手を洗い、うがいをしながら待ち構えてみたが、いつまで経っても詰問の声は上がらない。
これは今日も見つかっていないということだろう。そう思うことにして荷物を抱えると、階段を上がり自室のドアを開けた。
「お帰りなさいませ」
「……ただいまです」
自分から提供したとはいえ、誰かに思いっきり我が物顔で自分のベッドを占領されているというのは奇妙な気分だ。借りてきた猫状態よりは威風堂々とされている方がよほどいいし、遠慮や緊張しているくろねこさんというものも想像しがたいけれど。
「そんな顔しなくともノミなど飼っておりませんのでご安心ください。まあ、少しばかり体毛は散らかしてしまったかもしれませんが不可抗力というものです」
首に巻いたリボンと包帯一つという艶姿で金色の目を光らせながら、いつもの笑顔でくろねこさんは出迎えてくれた。
「ところで言われた通りお利口さんにベッドの上で待っていたのです。ご褒美を所望しても罰は当たらないと愚考いたしますが?」
「キャットフード買ってきました」
「銀色マグロ亭の五つ星シリーズですか?」
「……わかりません。一番高いやつ買ってきましたけど」
「なら許容します」
許容されたらしい。
学生鞄をベッドの角にかけ、買い物袋の中から包帯を取り出す。
「具合はどうですか?」
「いちおう傷は塞がりましたけど、まだ皮は薄いですね」
「それはよかった。包帯を交換しましょうか」
人間の傷薬や消毒薬をネコであるくろねこさんに使うのはどんなリスクがあるのかわからないので避けたい。その上で傷口の化膿を防ぐには、常に傷口を清潔に保ち続けるのが一番だ。ま、素人考えだけどこの手のことに慣れていそうなくろねこさんから異論が上がっていないのだからそう間違っていないはず。
くろねこさんが口の中にみかんの皮でも詰め込んだような顔をする。
「水浴びは好きません」
「お湯なので安心ですね」
「シャワーはご勘弁願えませんかね?」
「なら、洗面器からかけ湯といきましょうか」
日のあるうちからお風呂を沸かすのはとても贅沢な感じがして、好きだ。
何か最近お風呂早いねと声をかけてきたリビングでゴロゴロしていた妹を適当にあしらいつつ、入浴の準備を整える。
なんだかんだ言って付き合いのいいくろねこさんはあっさりと妹の目を盗んで風呂場に侵入してくれた。
「さあ、覚悟はしてまいりました。思うが存分にやってくださいませ」
「そこまで言われるようなことなんですかね」
何だか悪いような気がしてくるが、あくまで治療行為であり、ただの入浴の補助である。
浴槽から洗面器の半分に満たないくらいのお湯をすくい、傷口にさわらないようにゆっくりくろねこさんのなで肩にかける。
「ん」
なぜか色っぽく聞こえる声と共に黒い毛が濡れ、まさに鴉の濡れ羽色といった具合になる。ふんわりと密閉された風呂場に漂う血の香り。普通は臭い鉄の臭いのはずなのに、くろねこさんが身に纏うそれは上質の香水のように思えるから不思議だ。
これも人徳というものだろうか。いや、猫徳か。
毛がびったりと体に張り付き、皮膚の下の玉鋼を細く縒り合せたような筋肉があらわになり胸が何だかドキドキした。
血がお湯でふやけた頃合いを見計らい、傷が開かないように慎重に包帯を取る。くろねこさんの小さな背中に、まるで縦に目を取り付けたように緩やかな弧を描いた大きな傷口がさらけ出された。塞がってはいるものの、感じられる痛々しさは健在だ。
「田和瀬さんを食べているときに背後からやられた傷、でしたっけ?」
「おや、ようやく聞く気になったのですか」
くろねこさんと一週間前に再開してから、意図してこの話題は避けていた。
顔見知りがくろねこさんに食べられた詳細を聞くのが怖かったから。
正確には顔見知りがくろねこさんに食べられたことが怖かったんじゃなくて、詳細を聞いてもきっと何にも感じないであろう自分を直視するのが怖かった。
「ええ、そうですよ。聞いた特徴からわたしが食べたのはその田和瀬女史でしょう。まあ、顔は鈍器で潰されてボルシチみたいになっていましたので断言はしかねますが」
ボルシチが料理の名前だということは知っているが、具体的なビジュアルがぱっと思い浮かぶほど詳しく知っているわけではない。ただ、ネットで画像を調べるのはやめておこうと心に決めた。
傷口が開かないように細心の注意を払いながら洗う。
「背後から襲いかかってきた相手に心当たりはないんですか?」
「ありませんね。初めて見る相手でした。あ、いちおう人間でしたよ」
人間じゃない場合もあるのか。まあ、あるよな。くろねこさんはネコだし。
「まだまだ子供の臭いが抜けきっていないというのに洗練された刃物の使い手でしたね。この平和な国でいったい何を間違えばあんなものができるのやら」
「へえ、刃物ねえ……」
某クラスメイトが脳裏をよぎる。彼女もナイフを愛用している。なんでも初体験で露出狂を刺したときのお供が果物ナイフで、それ以来なんとなく手に取るようになったのだとか。
「いちおう聞きますけど、それって身長百四十センチくらいの小柄な矮躯で、髪は染めてないで腰に届くくらいの長さをゆるく一括りにしていて、顔立ちは綺麗というより可愛い系の美少女じゃないですよね?」
「おや、お知り合いで?」
ビンゴ。
いや、まだ確定したわけじゃない。そんな外見特徴の美少女なんて掃いて捨てるとまではいかずとも、それなりにいるだろう。
「そういえば、右手にオレンジ色のスカーフを巻いていましたね」
「それ、雲居彼雁です」
もうごまかしきれないじゃないか。
利き腕に滑り止めと保護を兼ねてバンテージ代わりに愛用のスカーフを巻くのは殺人鬼なクラスメイトのハンティングスタイルである。
そーですかー、とあれほど嫌がっていたのにお湯につかって溶けているくろねこさんの興味無さげな声を聞き流しつつ、今夜彼女にメールしようと脳内メモに刻むのであった。
何が何も知らないし、知る予定もないだ。思いっきり当事者じゃないか。
♪
血の付いた包帯は新聞紙に包んでゴミ箱へ。
田和瀬さんはくろねこさんに捕食されて彼女の血となり肉となり。ならばくろねこさんの血の付いた包帯をゴミ箱に捨てたぼくは、田和瀬さんをゴミ箱に捨てたということと同意義なのだろうか。
どちらでもいいし、どうでもいいか。
風呂から上がり、自分の部屋でくろねこさんの傷が乾燥した頃合いを見計らって包帯を巻きなおす。それからくろねこさんの匂いをごまかすため、贅沢だが風呂の湯を抜いてしっかり風呂場全体を洗い、沸かし直してから自室に戻るころには日が暮れ始めていた。
ドアを開けて困惑する。くろねこさんが外行きの装いをしていた。
「出かけるんですか?」
「ええ。野生の勘にビビッと来るものがありまして。行きますよ」
そう言うとくろねこさんはついてきて当然とばかりに窓から外に出る。二階から外に出るスキルは持ち合わせていないのでぼくは普通に玄関から出た。
「いってきます」
「行ってらっしゃい……どこいくの?」
「コンビニ、かな」
「何それ。物騒だから早く帰ってきてね」
「九時を過ぎそうならメールする」
リビングで英語の予習をしていた妹に声だけで見送られ、靴を履いて外に出るとうっすらと湧き出した闇を纏うように自然にくろねこさんが目の前にいた。
「少し急ぎますよ」
「何があるんですか?」
「わかっていたら急ぎません」
「……くろねこさんって理性で考えるのが好きですけど、行動方針の決定は九割がた感情と本能で下しますよね」
「猫ですから」
「ネコですしね」
あ、ぼくも明日の予習しなきゃ。数学も英語もあるのだ。これから先に明らかな何かありそうな予感がするのに、それを片付けてから帰って勉強しなきゃいけないのかと思うと気が重い。
まあ、それも生きて帰ることが出来ればの話だが。
「傷が開いたりしないように無理はしないでくださいね」
先を行く黒い背中に、そう声をかける。
ふっと揺れた尻尾がありがとうございます。お気遣いなく。ちゃんと自分で自分の面倒くらいは見ますので、と言ったような気がした。多弁だ。
「ひぎああああああぁ!」
薄暗い夕闇からくろねこさんが完全に溶けこむ闇へと移行しつつある夜空を切り裂く野太い悲鳴。
くろねこさんの先導で猫ルートを通ってたどり着いた駅の裏通りはシャッターが多く、この時間帯になると人通りが少ないことで知られている。何年か前に不審者が出たこともあった。
にしても、重傷を負ってなお身軽なくろねこさんはともかく、水泳部所属のぼくは水中適正型の愚鈍な陸上生命体なのだ。あんな高度なバランス感覚を要求するような道を使わないでほしい。
状況は今まさにクライマックスといったところで、駆けつけたぼくらに注意を払う様子もなく、小柄な人影が大柄なコートを着た男を襲っている。状況は一方的。狩る側と狩られる側がはっきり分かれている。
男の手には小ぶりなハンマーが握られていた。すでに過去形だ。現代日本を舞台にしているとは思えない生々しい殺し合いを演じている二人のシルエットがはっきり目視できる距離に迫った時には男の小指が黒い軌跡を宙に引きながら飛び、ハンマーはすっぽ抜けてコンクリートで粗雑な演奏を奏でている。
「ふむ、ものを掴むときに人間は小指でものを締めます。なので小指を失うと重いものを上手く持てなくなるのです」
「解説ありがとございます。今後参考にする機会が訪れないことを祈ります」
適度な距離を割り出して、観客に徹するくろねこさん。参戦されても困るけど、解説キャラにいきなりジョブチェンジされても反応に困るというものだ。
「ちなみにあの子、ナイフに灰を水で溶いて塗っていますね。簡単な艶消し迷彩です。暗闇で刃を目視するのが困難になりますよ」
それを聞いて脳裏に描いていた男を襲っている人影の候補がますます濃厚になる。彼女は自分にできることは可能な限りやってから実行に移すのだ。本人もチープで未熟であることや、警察に捕捉されていないことが幸運の賜物であることも理解している。その上で、腐らずに自分にできることをできる範囲で全力でやる。目的が人殺しでなければ、素直に尊敬しているところなのだけど。半分嘘だ。目的が殺人でも普通に尊敬している。
扱う獲物は骨どころか肉を切るだけで刃が欠けなけない安物のナイフ。それを彼女は何本も、何本も使用する。
ナイフが蹲った男の額に突き刺さる。頭蓋骨を軽く削るだけにとどまり、刃は欠けながら男の額に一文字の傷をつける。少女はめげない。かけたナイフで男の右頬を切り裂く。口内を貫通し、口と開通した頬がビラビラと風圧に押されてはためく。空気が漏れたマヌケな悲鳴。一閃。左目にナイフが突き刺さり、絶叫。一閃。コートの上にナイフの柄が生える。一閃。防御のために突き出した手を刺さり、ナイフを持っていかれる。少女が自分の衣服の上に手を滑らすと、手品のように次のナイフが握られていた。一閃。一閃。一閃。一閃。
終わるまで五分もなかっただろう。だけど三十分にわたるハリウッド映画の戦闘シーンを見せられたような感じがした。動きは派手だがスクリーン越しに起きているかのように実感が無い。現実のくせに、リアルが欠けている。いや、足りていないと言った方が正確か。
近寄って見ると、わかりにくかったがやはりクラスメイトの雲居彼雁だった。彼女の性格的に遊ぶとは考えにくいから、あっさり圧倒していたように見えてそれなりに手強い相手だったのかもしれない。
まあ当然か。彼女はまだ中学生、それも女の子だ。殺人鬼ではあっても、ハリウッドに登場する殺し屋ではない。殺しの嗜みはあっても、殺し合いのノウハウは持ち合わせていない。
「こんばんは」
とりあえず、学校外でクラスメイトに遭遇した時の常識的な対応として挨拶する。挨拶は人間付き合いの基本だ。基本はどんな時でもおろそかにしてはいけない。
「……はぁ」
雲居彼雁はぼくの顔を見ると、あからさまに疲れた顔をして深々とため息をついて見せた。失礼な奴め、と礼儀で形だけ憤ってみる。
「こんばんは、っていちおう挨拶は返しておくけどさ……。なんでこんな夜に出歩いてんの? バカなの? 死ぬの? 通り魔や殺人鬼に行き会ったらどうするのよ」
たぶんその通り魔や殺人鬼を探してここまで来たんだけど、とはさすがに言い難い雰囲気だ。くろねこさんに確認しないと断言できないし。
当然と言えば当然だが、雲居彼雁は制服姿ではなかった。暗いのでよくわからないがたぶんピンク色のパーカーに紺色のジーンズ。ジーンズは裾を折り返しており、長い髪は三つ編みにした後お団子に纏めていた。
まるでぼくのようにファッションの欠片も見られないスタイルである。普段は順当に女子中学生の日常を送っている雲居彼雁から考えるに、きっと変装と汚れてもいい服装を兼ねたコーディネイトなのだろう。普段とまるで装いが違うので、本人と確信するまでに時間がかかった。
「んー、まあ、時計兎ならぬくろねこさんを追いかけてここまでって感じですかね。そちらこそなぜこんな時間に出歩いて何をしているんでしょうか。どうも夜歩きは常習犯らしいですし」
くろねこさんが雲居彼雁に襲われたということは、くろねこさんが田和瀬さんの死体を有効活用している最中に雲居彼雁がくろねこさんの背後にいたということである。
くろねこさんはたいてい夜に紛れて人間を取って食うから、雲居彼雁もその時夜に出歩いていたことになる。簡単な推理だ。
「えーと、人殺し?」
なんで疑問形なんだ。お前の三歩後ろのところまで赤黒い水たまりを作っている原材料さんに謝れ。
「ふむふむ、これはまた……」
くろねこさんがずいと前に出て、しげしげと雲居彼雁の顔を観察する。
「純粋にして無垢なる殺意のカタマリですね。アクを取りすぎたスープのようです。その殺しに理念は無く、動機は無く、展望は無く、生産は無く、衝動でさえ存在しない。衝動ですらないため抑えることができない。そうあるがままに行き会ったものを死へと導く。それが運命のように。きっと自分でもなぜ殺しているのか説明することはできないでしょう――今以外は」
くろねこさんは一匹、ただ何かに納得してうんうんと頷いた。
「いるんですよねぇ。百年に一度くらいの割合で。たいていは生きているうちに理由を見つけてごく普通の歴史に名のを残すシリアルキラーになるのですが、あなたがいる以上まっとうに育って化け物を殺す人間になるかもしれません。恋人ですか?」
「違います。クラスメイトです」
笑顔で言うくろねこさんの言葉を否定する。
たしかに、そう言う噂が存在することは知っている。中学二年生なんて色気づき始める真っ盛りだし、ぼくも雲居彼雁も男女問わずに交友関係のあるタイプではないので事あるごとにつるむぼくらの関係をそういうものに当てはめて見る彼らの態度は不自然なものではないと思う。
実際には恋人どころか友人未満のクラスメイトなのだけど。仲がいいのは認めるが、友達ですらないのだ。
「……誰?」
「『誰』というより『何』と尋ねる方が正確かもしれない何かです。ちょうどいいので紹介してはくれないでしょうか?」
雲居彼雁が表情を硬くしてくろねこさんを見る。くろねこさんは相変わらず笑顔だが、一人と一匹の間には人付き合いに鈍いぼくでもわかる密度の緊張感が漂っており、どちらも最終的には流血沙汰を厭わないさがの持ち主なものだからぼくは慌てて間に入った。
「ええ、と。こちら雲居さん。ぼくのクラスメイトです」
「……よろしくお願いします」
なんだかんだで育ちのいい雲居彼雁は、くろねこさんに不審の視線を向けながらも紹介された以上は礼儀作法を守り最低限の目礼を投げる。
「それで、こちらくろねこさん。うちの居候です」
「どうもご紹介にあずかりましたくろねこさんと呼ばれているものです」
ニンマリと嗤うくろねこさん。馬鹿丁寧に頭を下げるその仕草は似合いすぎて少し怖い。
雲居彼雁は視線をすっとこちらにずらしてきた。
「ひとつだけ聞かせて。敵じゃないのね?」
「はい」
ぼくは迷わず頷く。
くろねこさんは捕食者であっても敵ではない。少なくともぼくにとっては。
「そう」
感情を隠した無表情で雲居彼雁はいつの間にか取り出していたナイフを服のどこかにしまう。手品師じみた鮮やかな動きで目が追い付かなかった。
今更ながら人血独特の臭気が鼻をつく。それがきっと、この一連の殺人事件の幕だった。
♪
翌日、ぼくと雲居彼雁はいつも通り机を並べて弁当箱を広げていた。
クラスの雰囲気は明るい、とまではいかないが少なくとも空気は軽くなっている。今朝のニュースでこの街を騒がせていた連続殺人犯が逮捕された一報が報道されたからだ。
四年前もそうだった。くろねこさんはふらりといなくなり、人間の男が一連の事件の犯人として捕まっていた。きっと中学生にはわからない高度に政治的なうんぬんかんぬんがあったのだろう。
この一か月で殺された人間は計七人。新聞の情報を信じるのなら三人は撲殺で、四人が刃物で刺殺されていたそうだ。警察は逮捕した二人組の男がそれぞれ鈍器と刃物を凶器に扱っていたとして調査を進めている。
昨夜の一件を見る限り、真犯人の獲物はハンマーで、雲居彼雁の獲物はナイフ、つまりはそういうことだろう。
「あのとき何を話していたんですか?」
昨夜、あれから雲居彼雁とくろねこさんはぼくから距離を置いて何かを話していた。死体と置き去りにされるのは気持ちのいいものではなかったが、仲間外れにされるのは慣れていたので我慢した。とはいえ、何を話していたかは気になるものである。
「別に」
口にきんぴらごぼうを運ぶ作業を中断しそっぽを向いた雲居彼雁だったが、じっとその顔を見つめ続けると根負けしてに話してくれた。基本的にいいこなのだ。
「通り魔の処理はあっちが全部引き受けるっていうのと、名刺くれた」
「名刺?」
「うん、肉球スタンプ入りのやつ。それ持って書いてある住所のところに行けば、武器売ってくれるんだって」
まさかの武器屋への紹介状であった。まさかこの平和な国で暮らしていてそんなものを渡される人と渡すネコが知り合いにいるとはね。
「私が今使っている武器じゃいずれ限界が来るから、早めにいいものを用意しておくようにって。分割払いある時払いの催促なしってやつにできるらしいし」
まだ買う気はないけどね、と肩をすくめる雲居彼雁。まあ堅実な彼女のことだ。返済の見込みがつくまではローンを組むようなことはしたくないのだろう。
にしても、くろねこさんが特定の個人をここまで気にかけるのは初めてみる気がする。
「さすがは死神と呼ばれるだけある」
ぼくの独り言に雲居彼雁は弾けるように反応した。
「き、聞いたの……?」
「うん、裏業界でそう呼ばれているんですって? すご――」
「言わないでー。自分で名乗っているわけじゃないんだから」
雲居彼雁は顔を両手で覆ってしまった。耳が真っ赤だ。ぼくからすればカッコいい通り名だけど、まあ罰ゲームに感じる気持ちもわからなくはない。
他にもいろいろ言われたんだけど、それは黙っていた方がよさそうだ。
何も解決していないし、誰も幸せになっていない結末の後も人生は続くようで。
ぼくは飽きるまで羞恥に頭を抱えるクラスメイトを見つめ続けることにした。