5 僕と妃と辛温
西域の歴史あるオアシス都市を首都とするこの国は、意外に厳しい冬が終わると、極短い春を通り越して、暑い夏が近づいて来る。
そんな頃、妃(六ヶ月)が熱を出した。
「うゃーい、ぬぅ……」
「少々お熱が上がりましたな。……ふむ、肺から悪い音も聞こえませぬし、身体の節々がお痛みになられている様子も無い。幸いな事に、隣国で流行っている悪い疫病とは無関係でございましょう」
「疫病じゃなくても、こんなに熱いじゃないか!! よく効く薬はないのか?!」
「へ、陛下……まだ幼き御方に強い薬は危険にございます。体力の無い小児の辛温(発熱)は、むしろよく汗をかいて滋養のあるものを食べさせ、安静にするのが一番で――」
「そんな悠長な事を言って、妃に何かあったらどうする気だ!!」
丁度この国の更に西にある国で、死亡率の高い流行病が民の命を奪っている頃だった。
……神経質になって、医者を問い詰めてしまったのは良くなかっただろう。反省だ。
「陛下落ち着くっす。お医者様は間違って無いっす」
「っ……飛刃」
「お妃様は流行病じゃないっす。それで解熱に使う麻黄湯や桂枝湯は、良く効く反面結構強い作用があるっす。そんなものを使って無理に熱を下げるより、暖かくして汗一杯かいて、ご飯を一杯食べる方が、お妃様のお身体も楽っすよ」
子供の熱なんて、悪い病じゃなきゃそんなもんっす。
そう続け、そんな僕を弟妹が多かった飛刃が諭した。……こういう場合は、経験値の違いから飛刃には反論できない。
「……大丈夫……なんだろうな?! 本当だな?! こんなに苦しがってるんだぞっ!!」
「あぶぶ。ぶぅーっぶぅーっ」
「単に水欲しがってるんじゃないっすか? 水吸口をじーっと見てるっす」
「えっ、本当か?!」
「はい、呂将軍のおっしゃる通りです陛下」
乳母殿が寝台から妃を起こし、水吸口を唇に当てると勢い良く飲み出した。
食欲、というか飲欲があるのは良い事だけど……本当は熱くて辛くて、異常に水を欲しがってるんじゃないのか? 本当に大丈夫なのか?
「陛下は心配症っすね」
「当然だろう。……妃は大事な存在だ。……この国にとっても、帝国にとっても」
そうだ、大切な存在なんだ。
……でも、もし……。
「――陛下、お気持ちはよく判るっすが、政務のお時間っす」
「……今日は」
「駄目っす。妃のために政務をほっぽり出す国王なんて、周辺諸国に色ボケの暗愚と知らしめるようなもんっす」
……色ボケてはいないけど、判っているさそんな事。
「じゃあせめて、早く帰ってくる」
「駄目っすね。というか、陛下にお熱が移ったら大変っすから、今宵から陛下はお妃様とは別室でお休みいただくっす」
「おい!! 僕は嫌だぞ!! そんな事をしたら、妃だって病で心細いじゃないか!!」
「そうっすか?」
「ばぶばぶ。んぐんぐ♪」
妃は僕を気にせず、せっせと乳母殿が口に運ぶ、水とすり下ろした林檎汁を食べていた。
…………いいんだ、僕を忘れてたって。食欲があるのは良い事だ。うん。
「それじゃあ乳母殿、後はよろしくお願いするっす」
「はい、お任せ下さいませ」
乳母殿は妃を抱いたまま、深々と頭を下げた。
……判ってるさ、行ってくるよ妃。ちゃんといい子にして、よくなるんだぞ。
「……――更に、終戦後の治安回復によって、商隊の西域行路中継都市としての機能も回復し、市場の活気も――」
「……」
「……陛下、私の声は届いていらっしゃいますか?」
「…………え? あ、ああもちろん。聞こえているさ。山賊化した旧王国の元貴族が捕まったんだろ?」
「それは、現報告の四つほど前にございますな」
僕は背後から聞こえてくる飛刃の笑い声に睨み返してから、報告している宰相に向き直り、何事もなかったかのように咳払いした。
「ああ。そうだな、続けろ」
「はは。……では続いて前年度の……」
きちんと書類を渡されている上での報告なので、誤魔化すのも楽だ。
宰相の声を聞きながら書類を熟読すると、いつもの事ながら判りやすく簡潔な文章と数値で、この国の復興過程が記されている。……流石、元第一線で帝国首脳部の古狸達と化かし合っていた高級官僚。
きっと妃が宰相の帝国現役時代を見ても、違いすぎて判らないだろうな……あの頃は、こいつ眼光が鷹のように鋭い上、フサフサと髪があったし……ふふふ。
「……陛下」
「――あ、ああ。判ってる。判ってるさ。だから授業をサボった生徒を叱る手厳しい老師のような目で、僕を見るのはやめてくれ」
「そう言えば陛下は、真面目な御子であられたそうですな。勉学を嫌がって逃げる皇子達をよそに黙々見事な書画を仕上げ、皇上(皇帝陛下)のお褒めに与られたとか……」
「……なんで知ってる」
「陛下の書画の老師は、私の友人にごさいます」
あのド厳しい顔が怖いジーサンの友達かあんた。
「そしてその友人から、陛下は勤勉の美徳を知る、立派な方だと伺っております」
だから真面目に仕事しろやこのクソガキ、と言外から聞こえてくるぞ。
ちなみに別に僕は、あの時遊び回っていた皇子達より、真面目だったわけでも勤勉だったわけでもない。ただあいつらよりちょっと周囲を見渡していて、真面目にやった方が後々自分の得になると思っただけだ。
「判っている」
……今だって、周囲には気を付けているつもりだ。
だから今妃が心配だからと、ぼんやりするのが良くない事だって、本当は判ってる。
「良きお返事です」
冗談のつもりか、態度を正した生徒にでも言うような宰相の言葉に、僕は肩を竦めて見せてから、背筋を正す。
「はい老師、とか返したくなるお声っすねぇ~」
黙ってろ飛刃。そもそもお前、老師の言葉で態度を改めた事無いだろう。書画の時間に老師の似顔絵を書いて、しかも『牛魔王注意』って書き足してたくせに。
「呂将軍は……いいえ、なんでもございませぬ。では続いて――……」
友人が話した飛刃エピソードでも思い出したのか、宰相はやや楽しそうな顔になったがそれでも職務を優先し、報告を続ける。
「――それでは、これよりが隣国からの疫病対策修正案です。まず――」
勤勉なのも真面目なのも、この爺さんの方だと思う。
傀儡の王に、それでも王としての裁量を委ねてくれるのはありがたいが……。
今日はいつまでかかるだろう……はぁ。
「……飛刃」
「だめっすよ?」
そうして全ての政務を終えて私室に帰ってくると、隣で寝かしつけられている妃の声が聞こえてきた。
「ふぁうぅ……あー……」
「ほらほらお妃様、お休みしましょうね」
……なんだか妃の声が、元気無いように聞こえる。
どうしよう、熱が上がったのかも。
「大丈夫なのか? 心配なんだ」
「大丈夫っしょ。夜に熱は少し上がるもんっすけど、あれはお妃様、眠いだけっす」
「あっさり言うな!!」
「あれやこれやと、無駄な心配し過ぎるっすよ陛下は」
焦る僕に、飛刃は僕がいる部屋と、妃が今眠っている部屋を繋ぐ通用扉の前に立ちながら、いつもとは違う真面目な声で、僕に返す。
「お妃様は、とっても頑健な赤ちゃんっす」
「判ってる、だが――」
「――こんな熱くらいで、お妃様は帝国にとって『無価値な存在』になったりしないっす」
「――っ」
僕が恐れていた事をさらりと言う飛刃を、僕は睨み付けた。
「……そんな事、判っている」
……判ってない。僕はどうしても、不安から逃れられない。
「あの子が……健康を害し、子を産めない身体になるはずがない」
――もし、そうなってしまったら。
――そしたら、あの子は――。
「……そんな事になってしまったら、お妃様は下手すれば廃位され、陛下の父帝様が後宮に確保しているお妃様の従姉妹姫のどなたかが、王妃としてここに贈られてくるっすね」
「っ……その通りだ」
やはり飛刃は、僕が恐れている事を何でもない事のように言う。
妃の代用品となりえるこの国の王家の血筋を持つ女達は、帝国の後宮に確保されている。もし妃に何かあれば、父帝は躊躇い無くそれを僕に押しつけてくるだろう。
……もし彼女らが父帝の子を生んでいれば、おそらくその子供ごと。
「そんな事になったら……あの子はどうなる」
名ばかりの王妃として隅に追いやられるなら、まだいい。
でも役立たずは無用と、無慈悲に殺されてしまう可能性だってあるのだ。
……想像したくない……そんな事は。
「大丈夫っしょ」
……悲壮な思考になりつつある僕の頭に、飛刃の飄々とした声が届く。
くそ、こいつ声までイケメンの余裕かよ。
「……だからあっさり言うな。なんの根拠も無い癖に」
「根拠ならあるっすよ」
「……」
――指さすなよ。一応僕は、お前の君主だぞ。
「陛下がお妃様を大切に想い守ろうとしている限り、陛下の臣は決して、お妃様を見捨てないっす。――例え彼女が今上帝から与えられた、この国の王妃の座を失ったとしても」
……飛刃。
「――帝国にとって代用が利く存在でも、我らが王にとってかけがえのない存在ならば、オイラ達は身命を賭してその存在を守る。――忠臣ってのは、そういうもんっしょ?」
……ははは。
……何が忠臣だよ。そんなガラじゃないだろうお前は。
あの老獪な宰相も、その他臣下達も、父帝の命令で、僕に付いていかざるをえなかっただけじゃないか。
「……飛刃……そうか」
……でも。
「ええ、そうっすよ陛下」
……でも、ありがとう。そう口にしてくれた事が、すごくうれしいよ。
「……なら真面目に仕事しろチューシン。お前さっきの政務中も、立ったまま時々居眠りしてたよな?」
「うぇ?! あ、あーれは、鋭気を養ってただけっすよっ。明日から本気出す」
「今から出せ」
消えない不安は未だ胸の中にある。
でもいつも通り無礼な口調の乳兄弟と話していると、なんとかなるんじゃないかという、君主にあるまじき楽天的な気持ちを、ほんの少しだけ味わう事ができた。
「――まぁっ、お妃様っ」
――えっ?!
「ん? 乳母殿どうし――うわ陛下?!」
乳母殿の悲鳴のような声に、何事かと扉を開けた飛刃の横から、僕も隣の部屋を確かめる。
だっていつも落ち着いた乳母殿の悲鳴だよ?! 何かがあったに決まってるじゃないか!!
「大丈夫かい妃?!」
「あぶー」
――ん?
「あ、あら陛下……申し訳ございません」
「……乳母殿、あれって……」
「え、ええ……もぞもぞなさっていたら、御自分で……」
――座っていた。
まだ乳母殿に支えてもらわなければ無理だと思っていた妃は、ちょこんと寝台の上に腰掛けて、枕元から取ったらしい水吸口を手にしていた。……あ、勝手に飲んでる。
「き……妃君ねぇ……はは……はははっ」
「んぐっんぐっんぐんぐ。まんまーまんまー」
「あ、あらら。またご飯でございますか? お妃様」
「んぶーっ」
安堵と、彼女の成長に対する喜びと、あとほんの少しの不安を感じながら、思わず僕は笑い出す。
小さな不安は、もうさっきの恐怖を伴うそれじゃない。
――あんなに食い意地が張ってて元気なあの子が、一体どんな女の子に育つのだろうという、ちょっとした将来の不安だ。
肉感的で退廃的な色香漂う、しっとりとした大人の美女、が僕の好みではあるんだけど。
「……筋骨隆々な女豪傑とかになっちゃったらどうしよう? そんな彼女を貧弱な僕が、受け止める事ができるんだろうか……」
「陛下も鍛錬なさったらどうっすか?」
「無理」
――よし。もしも成長した彼女に体格負けするようになったら、夫婦喧嘩時は飛刃を盾にしよう。頼むよ忠臣。
「またなんか鬼畜な事考えてるっすね?!! この鬼畜王!!」
なんのことだかなぁ~?