4 僕と妃と離乳食
離乳とはその名の通り、あかちゃんが乳を離れて人間の食べ物を食べられるようになっていく事である。そして乳から人間の食べ物に移行する過程で赤ちゃんが食べる物が離乳食と呼ばれる。
「乳という流動物から、食べ物という固形物へと移行していく大事な時期です。最初は小さじ一杯のなめらかな潰し粥を飲み込む事を覚えさせ、赤ちゃんが大人とそう変わらないものを、自分で食べられるようにしてゆくのが最終目標です」
「ぶぎゃー!! びゃー!!」
乳母殿はそう言うと、木さじを置いて苦笑する。
「一年の半分前後くらい。大体首がきちんとして、支えがあれば座れるくらいから、時期を見てだんだん試してみるのが一般的……と言われております」
「……乳姉妹ちゃんは、ちゃんと座れているんだけどねぇ」
「んぎゃーっ!! いぎゃーっ!!」
乳母殿と、その隣に座る僕の前では、乳児椅子の上で真っ赤になって泣いている、乳姉妹ちゃんの姿があった。
「まぁ、最初はこのような所でございましょう。この子は少々驚き過ぎた様子でしたが」
「口にさじが入れられようとした途端、口閉じて首振り回して泣き出して、徹底抗戦の構えだったもんなぁ。あははは」
乳姉妹ちゃんは、そろそろ僕の妃(五ヶ月半)に離乳食を試してみようかという乳母殿の、尊い最初の実験台となったのだった。
「ふゃあー!! やぁあー!!」
「よしよし。いやだったいやだった」
ありがとう乳姉妹ちゃん。木さじの中の『つぶしかゆ』を飲み込むものかと、口を真一文字にして全力で戦う、君の勇姿は忘れないよ。
……それにしても。
「……ふつうに飲み込める程度の柔らかさでもイヤなのか。乳母殿、赤ちゃんにとって食事というのは、そんなにも苦痛を伴うものなのかい?」
「そのような事は、決してございません陛下。ただいつもの乳とは違う感触のものを口にするのは、誰でも最初は驚くものなのですわ」
今日は最初に乳姉妹ちゃんに乳をあげた乳母殿は、乳姉妹ちゃんを慣れた手つきでげっぷさせて自分も後始末をすませ、そう答えた。
乳姉妹ちゃんは嫌な事をしてきた母親がまだ許せないのか、可愛い丸顔をふくれっ面にしてムゥムゥと呻っている。
「飲み込める程度の薄い米粥であっても、異物と感じてしまえば、拒否したり、吐き出したりするのも当たり前だと思います。……むしろ嫌がるのは、賢く警戒心の強い現れではないでしょうか?」
「それは……そうかもな」
確かに『おかしい』と感じ拒否したなら、乳姉妹ちゃんは警戒心があり慎重とも言える。
「むぅー……ぶぅー……うぶりゃう……」
……この乳姉妹ちゃんの顔に台詞をつけるなら。
『おぅ兄ちゃん、あたしが泣いて文句あんのかワレぇ?』ってとこか。
良く見ると、どことなくこの子の僕を見る表情は剣呑、というか、警戒しているような気がするね。
でも彼女が慎重で賢い女の子に育ったら、妃も助けてもらえるだろうから、乳母殿には、この子の教育もがんばって欲しいものだ。
「――という事で陛下、お妃様も最初は離乳食を拒まれるでしょう。ですがそれは自然な事として、まずは一口、一さじから初めさせていただきたく存じます」
「ああ、判ったよ」
ずっとお乳を吸っているわけにもいかないんだ。もし妃がびっくりして泣いてしまっても、彼女が少しずつ食事をいうものを理解できるよう、僕も黙って見守る事にしよう。
「……では」
乳姉妹ちゃんの大泣きを予測していた乳母殿は、妃を別室に移していた。
乳姉妹ちゃんを女官に預けた乳母殿は、妃をこちらに連れてきて乳児椅子に座らせると、女官が運んで来た盆を受け取って、妃の目の前に立てた低い食卓に、それを置く。
「ぱぶー?」
「おお……」
いつもよりも大きな前掛けを付けられた妃と一緒にテーブルの上を見た僕は、いくつもの小皿に入った色とりどりに、ちょっと感心してしまう。
先程の薄い米粥の白色を始めとして、野菜を潰したらしい緑色や橙色、果物をすり潰したらしい黄色等々が少しずつ、きれいな小皿に盛りつけられている。
昔見たおままごとの小道具のようで、ちょっと可愛い。
「でもこんなに沢山は、いらないのではないか? 最初は一口程度なのだろう?」
「お妃様にはまず、目からお楽しみいただけるものをと思いまして」
なるほど。確かに興味は持って見てるみたいだけど。
……でもやっぱり口に入れたら、さっきの乳姉妹ちゃんみたいに違和感で吐き出してしまうんじゃないのかな? 仕方が無い事とはいえ、ちょっともったいない。
「……さて、お妃様」
「あぶー?」
という事で妃、最初は無理としても、いつか料理人達の尽力した料理を、ちゃんと食べられるようになっておくれよ。
「はーい、美味しそうな香りでございましょう? ……まずは一口、お口にいれてみませんか~?」
「うー」
「はい、あーん」
「うぁー」
最初は嫌で泣き出しても吐き出しても、怒ったりしないからね――……。
「あう。――んぐんぐっ、あうっ、あうっ」
「……あら?」
……あれ?
「……あ、それではこちらの……少しお味が強い、無花果の煮すり物はいかがでしょうか~?」
「あーん。んぐんぐっ。あうっ、あうっ」
「…………もしかして、少しだけ癖がある、芽花椰菜の煮潰し物も、大丈夫でございますか~?」
「んぐんぐっ。あいっ、あ~いっ」
「…………少し苦みがある、お豆腐は」
「んぐんぐっ」
「…………子供の不人気食材人参は……」
「んぐんぐっ」
「…………」
「あぃっ、あーいっ。うぁーいっ」
「……お、お妃様、最初ですから……」
「うぁあー? あうーっあうーっ」
……すっごい食べてる。
……なんの警戒心もなく。拒否感も無く。
「……乳母殿」
……これって妃が、違和感を全く気にしない、警戒もしないアホの子って事……かな?
「――お、お食事を御自分のお身体に必要なものと、一瞬でご理解なさるなんてっ!! お妃様はなんと賢くあられますのでしょう!!」
「あうーっ」
おぉい?!!
「乳母殿?! さっきと言ってる事が、全然違わないかい?!」
「い、いいえっ。そんな事はありません。子供とは千差万別、子供の行動も千差万別。子供の数だけ賢さがあるのですっ。お妃様が細かい事を何も気にしない大雑把な御方などとは、この乳母は断じて思ってはおりませんっ」
「思ってるじゃないか?!」
「いいえっ断じて思ってはおりません!! 沢山食べられて良い子ですね~お妃様っ」
「ばぶーっ」
乳母殿は何事もなかったように笑顔で妃の口元を拭い、優しく頭を撫でた。
……こ、この変わり身の速さ。流石は戦乱の世を生き抜いて来た女丈夫……と褒めていいものかね。
「……まぁ、妃が難無く離乳の第一歩を踏み出したのは、嬉しいんだけどね」
「まことに、喜ばしゅうございます。お妃様はお健やかにお育ちでございます」
「あぷぷぅっ」
なんとなく褒められているのが判ったのか、妃は椅子の上でえへん、とどことなくえらそうな笑顔になって僕達を見返した。
……でもさ。乳母殿は口の中に違和感がうんぬんとか言ってたけど、考えてみればこの子、『見て触れて口に入れて』の真っ最中じゃなかったか?
長兄からもらった木彫りの熊(塗料無し等身大)を、しょっちゅうムゴムゴと口に入れて遊んでるんだから、今更米や野菜ごときで怯むような事もないのかもしれないぞ。
それでも、確かにえらけどね。よしよし。なでなで。
「あぅ、あーあー」
「……ん? もしかしてまだ食べたいのかい?」
そんな僕に頭を撫でられていた妃は、乳母殿がそっと下げようとしたテーブルに慌てたように声を上げた。
「あ、あら……どうしましょう」
「いけないのかい乳母殿?」
「そうですね……流石にはじめてですから、あまり食べ過ぎるのも。残りはお乳の方がよろしいかと存じます」
「確かに、本当は一口予定だったんだものね。妃、今日はもう終わりだよ?」
「うぁーぅあうーっ」
もっとたべたい
もっとたべたい
もっとたべたい
「だうだうだっ」
「……」
……なんだろう、今何か、妃ととっても簡単に、意思疎通ができた気がする。
「もしかして君、食いしん坊さんだろう妃?」
「あぷーっ」
あぷー言いつつ食卓に手を伸ばす妃。こら、駄目だよ。
「乳母殿がもう駄目って言ってるんだから、駄目だよ妃。お腹壊したら、それこそとーっても苦い漢方薬のお世話にならなきゃいけないんだからね?」
「うぁうぁうぁあーっ」
それでも妃の目は、まだ食べ物が残っている食卓に釘付けか。コラ妃、そんな熱視線、僕にだって向けないでしょうが。
「もう良い、下げてくれ乳母殿。いきなりの暴食で、腹をこわしたら可哀想だ」
とりあえず見えなくなったら諦めるだろうと、僕は乳母殿に盆を下げるよう命じた。
「陛下の仰せの通りに。では失礼して……」
「あばぁーっ」
「あっ、こらっ」
乳母殿がそっと盆を持ち上げるのと。
慌てたように妃が、盆の小さな器に入った汁物に手を伸ばすのと。
それを止めようとした僕の手に、妃によってひっくり返された汁物がかかるのは、ほぼ同時だった。
「陛下っ」
「騒ぐな、大事ない」
慌てたように近寄ろうとする女官を制し、僕は苦笑する。
もったいなかったが、幸い汁物は赤ちゃんのためのもので、全く熱くはないから火傷の心配はない。
ただ袖に少々かかってしまったので、午後の政務までには着替えなければいけないのは、少々不運か。
「あーあ。こら妃、貴人が女官や乳母殿が動かすものに、横から手を出しちゃいけないんだよ。自分に仕える者達の仕事を、邪魔しちゃいけない」
「うー……」
とりあえず、ここは判って無くても叱っておこう。怒るんじゃなくて、叱るのが大事。
「ほら、こんな風になっちゃったら手はすぐに洗えるけど、絹織物の長衣は洗濯が大変なんだからね妃。反省だよ。反省」
僕は汁だらけになった手を一度妃の前に差し出して見せて、それから女官を呼んで、上着を脱ごう――とした。
だが。
「あぐっ」
「――はい?」
――喰われた。
ぱっくりという音でもしそうな勢いで、僕の汁だらけの手は、妃の口に入れられていた。
「……」
「あぐっあぐっあぐあぐ……」
そして手に断続的に加わる、微かな圧力。
――モグモグされている。――まだ歯も生えてない妃に、僕の手が租借されている!!
「ちょっ?! 妃やめなさいこらっ!! 僕の手を食べてどうするの!!」
「……うー」
そっと手を引き剥がそうとするが、木彫り熊で鍛えたのか妃が中々しぶとい。でも無理矢理は離せない。爪で妃の口の中を傷つけてしまったら、妃が痛い。
「肉はなくても白くてすべすべしていて、美味しそうに見えたのでしょうか? ……美味しそうな香り付きですし」
「乳母殿ぉ?! 何怖い事言ってんですかいあんた?!」
確かに肉体労働には不向きの、筋張ってない手だけどさ!!
「うぶぐぅ……」
「そして、何ちょっと残念そうな顔してるの妃?!! ――はっ?!」
ちょっと不満そうなまま僕の手を口から離さない妃の視線に、僕は気付いてしまう。
「がるる……」
「き、妃? お妃様? だよね君? 肉食獣の子じゃないよね?」
僕を見上げる妃のつぶらな瞳がじっと見ていたのは、僕の顔――ではなく。
――僕の耳だった。
そっちのほうがおいしそう
そっちのほうがやわらかそう
――そっちならたべられそう
「妃ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいい?!!」
「陛下?!!」
謎の幻聴が聞こえそうになった僕は、必死にそっと妃の口から手を解放すると、汁がかかった上着を脱ぎ捨て、汁だらけの手を慌てて妃から隠す。
「い、いやなんでもない」
いやいやまさか。まさかそんな。
今のはただの幻聴だ。
僕に君の意志が伝わるはずがないんだ。
だって僕は――まだ妃と話ができないんだから!!
「そうだよね妃?」
「うー?」
「そ、そうだよねー」
不思議そうに首を傾げる妃に、僕は安心する。――安心する事にする。
彼女は僕の耳なんか見てない。
しかも特に柔かい耳たぶなんか、じっと見てない。
そうに決まってるんだ!
「さぁ陛下、お手を洗いお着替えを」
「あ、ああ。それじゃあ妃、午後の政務があるから行ってくるよ?」
「あーぃ」
女官が持って来た手水で手を洗い、上着を替えてから妃に向き直ると、妃はいつもの可愛い顔でニコニコと僕に笑いかけてくる。
ああよかった。いつもの妃に戻って。
うん、食欲があるのは良い事だ。それだけの事なんだ。
「それじゃあ、行って来ます」
「うぁーい」
そんな事を考えながら、僕はいつも通り妃を抱き上げ、軽く抱きしめて別れの挨拶を――。
「あぐあぐ。あぐあぐ」
「……」
……したら身を伸ばした妃に、耳たぶを口に入れられた。諦めてなかったんかい君。
……ところで、美味いの? 僕の耳?
「……ちっ」
美味しくなかったらしい。すぐに外れた。
「むぅー……」
そしてその日一日は何故か、妃の僕を見る目がちょっと冷たかった。
解せぬ。