終幕後 ――雪下泪 上
深夜。
「……ん?」
腕の中から離れた温もりと、肌が微かに感じ取った冬の冷気に気付き、隆武帝国属トルキア国王昂令は目を覚ました。
「……妃?」
身を起こし寝台を見回すと、傍らで眠っていた妃がいない。
どこに、と思って視線をずらすと、寝台の御簾の向こうに、もぞもぞと動く白い布を見つける。
「……?」
動く白い布は、白い敷布にくるまった妃の下半身だった。
妃は敷布にくるまったまま、閉じられていたはずの窓蓋を僅かに開けて、外へと上半身を乗り出している。
「……君は一体、何をしているんだい妃?」
「うわっ? あ、陛下っ」
貴人の行動を基本的には止めない侍女達の、やや野次馬的な視線を感じつつ、王は妃に近寄り後ろから声をかけた。
「いくら暖かいトルキアだろうと、真冬の夜に窓なんか開けたら寒いだろう?」
「あ、うんっ。寒かったっ。――寒くて、でもだから、今すごいんだっ」
「すごい?」
そして、室内に顔を戻して頷いた妃の金髪が、微かに濡れ輝いている事に王は気付いた。
――雨か? と首を傾げた夫の疑問に答えるように、妃は王の手を掴み、王を窓へと引き寄せる。
「ほらほら陛下っ、見てくれ、すごいっ」
「何が……うわっ」
窓辺で感じる冷気に眉を潜めた王は、だが外の様子を見て思わず驚き目を見開く。
「トルキアで……雪とは珍しいね」
「うんっ」
城を囲む篝火に煌々と照らされて輝きながら、曇天の空から雪が風に吹かれ、地上へと舞い降りていた。
砂漠のオアシス都市では珍しい幻想的な光景に、妃はまた外へと身を乗り出し、目を輝かせながら声を上げる。
「なんとなくだけど、外がいつもと違うような気がして、窓を開けてみたんだ。そしてたらほらっ、大当たりだっ」
「なんとなくか。女人はその言葉が好きだけど、侮れないものだ」
「ふふん。褒めていいぞっ、綺麗だろっ?」
「確かに綺麗だけど、褒めるはどうかは別問題だ。……ほら、風邪をひくだろう」
気が付けば傍に控えていた侍女の一人から厚手の貂の毛皮を受け取り、王はそれで妃を包んだ。
「……ふっふっふ。女官から飛刃の話を聞いたが、陛下はまだまだだなっ」
「ん? 飛刃がどうしたって?」
「うん。その女官はたまたま、飛刃と新妻である乳姉妹が、市場で買い物をしているのを見かけたのだそうだが」
「ほう?」
「その時は寒かったらしくて、しばらくすると、乳姉妹がくしゃみをしたのだそうだ。――そしたら、飛刃はな……」
―……乳姉妹ちゃん、ほらこうすると暖かいっすよ~―
―え……っ―
「こうな、――フワッと、自分と乳姉妹を一緒に袖無外套で包みこんで、乳姉妹を抱きしめたのだそうだっ。えいっ」
「うわっ」
王は、笑顔の妃と一緒に毛皮の中へ巻き込まれ、妃にしっかり抱きしめられた。
思いがけぬ妻からのスキンシップに、王は狼狽える。
「ほらっ、やっぱりこの方が暖かいぞ陛下っ」
「……はいはい」
「今度から、陛下がこうやって私を抱きしめてくれてもいいんだぞ?」
「…………言っておくけど妃、私は公衆の面前で、そんな恥ずかしい事はしないからね?」
「判ってるさ陛下。ふふふ、これをやった飛刃も、恥じらった乳姉妹に怒られて、胸に強烈な突っ張りを喰らったらしいからなっ」
―人前で何をなさるのですか旦那様!! 夫婦と言えど不埒にございますっ!!―
―あいたっ?! ……でも離さないも~ん♪ いちゃいちゃするっすよ~奥さん♪―
―だっ旦那様っ!! ……もう、仕方のない方です―
―えへへぇ。……幸せ♪―
―……否定は、しませんが。……あったかいですし―
「――結局は、イチャコラしてたようだが。可愛い乳姉妹は私も見たかった」
「何をしてるんだか、あの馬鹿は」
「そしてそんな仲良し夫婦に、周囲の独身者達からは、爆幸福者の大合唱が発っせられたそうだ」
「なにそれ怖い」
「女官も加わったそうだ」
「……誰だいそれは?」
王から胡乱な視線を向けられた女官達は、寝所の端で静かに控えながら、仮面のように均一な微笑を返し、本心を悟らせない。
「……まぁいい。気持ちは判る」
女官達の底知れぬ外面に少しだけ畏怖を覚えながら、王は毛皮の中で妃を抱き返した。
「……確かに、暖かいしね。……人前は論外だけど、たまには飛刃の恥ずかしい真似をするのも、悪く無いだろう」
「だろう、陛下? ……うん、暖かいな」
冷えた窓の傍で感じる妃の温もりは心地好く、王はそのまま毛皮にくるまりながら、妃と共に窓の外を眺めた。
「砂漠に舞う雪か。不思議な光景だな……初めて見たと思うんだが……でもなんだか、懐かしいような気もする」
「ああ、覚えているのかもしれないね」
「え?」
「もうずっと前。君がまだ小さかった頃にも、トルキア国に雪が降ったんだよ」
「……そうなのか。それって、私がどれくらい小さかった頃だ?」
「それはもう、私と話ができないくらい幼かった頃さ」
「へぇ……」
遠い過去を捜すように、妃は懐かしげな表情で夜空に舞う雪を見上げた。
そんな妃と共に夜空を見上げている王も、冷たい雪の下ではしゃぐ、ヨチヨチ歩きの小さな妃の姿が脳裏に浮かんでくる。
―だういーっ!! あぶぃーっ!!―
―こらこら妃、濡れた庭石で滑るから、走っちゃダメだってばっ―
―あうっ?―
―危ないってうわー?!―
「……滑りそうな君を捕まえようとして、逆に私が滑って転んだんだったな……」
―ぎゃーっ?! つめたー?!―
―うわっ!! 陛下が庭石で滑って池に滑り落ちたっすっ!! ……冷たそうっすねぇ―
―さっさと助けろ馬鹿飛刃ーっ!!―
―うへぇ、はいはいっす―
―うきゃいっ? きゃーいっ♪―
―遊びじゃないんだよ妃ー?! うわっ!! 池に近づいちゃダメーっ!!―
「……しかもそのまま私一人で池の中に……って。思い出したくなかったなこれはっ!」
「あはは、陛下ってあまり走ったりしないから、そういう突発事故に弱いよなっ」
「そもそも王族は、人前で慌てて走ったりしないんだよ」
「私は走るぞ」
「自慢げに言わない。君はもうちょっと、落ち着きなさい妃」
「大丈夫だ陛下、最近では人気が無くなったのをちゃんと確かめてから、素早く音も無く、影の中に身を潜めて走ってるっ」
「い、いつの間にそんな技を……」
王は頭を抱えたくなるが、自分を見上げ自信満々で言う妃の顔が、ふと赤ん坊の頃と重なり、思わず微笑ましい気分になってしまう。
「それでも客の前ではウフフオホホと微笑みながら、完璧な楚々とした淑女をやってるからなっ、心配するな陛下っ」
「……あはは。……まったく……君は」
「あはは」
王と妃は揃って吹き出し、またしばらく雪が降る夜空を見上げた。
言葉少なく寄り添って窓際に立つ二人を、穏やかな空気が包みこむ。
「……よかった」
「……ん?」
「陛下が、ホッとしてくれて」
「……」
やがてそれを揺らすように、妃が小さな声で王に言った。
王がそんな妃から背後の女官達へと視線を移すと、その意図をすぐに理解した女官達は、揃って一礼し、音も無く部屋を出て行った。
寝室は、王と妃の二人きりになる。
「……私は緊張が、顔に出ていたかな妃?」
「ううん、大丈夫だ。陛下はいつも通り、王らしくお過ごしになられていたぞ」
そっと発せられた王の言葉に、妃は小さく首を振る。
「……でも、なんとなくだが、陛下の御身体が、いつもより硬く冷えているように感じたんだ」
「なるほどね。……それは私が抱きしめる君なら、気付くだろう」
「うん」
妃は頷き、じっと王を見つめた。
王も見返し、毛皮を妃の肩に掛け直してもう一度抱き寄せながら、妃の耳元で囁くように言葉を発する。
「……緊張せざるをえないさ。……父帝が、いつ亡くなるとも知れないのだから」
「……うん」
数日前早馬でもたらされた、隆武帝国皇帝重篤の一報には、帝都から遠く離れたトルキア王国の王宮内ですら驚愕と恐怖に包まれ、騒然となった。
―と、とうとう万歳爺(皇帝陛下)が……御危篤とはっ―
―いや、ここは遠方。もしかしたら、既に……―
―こ、皇位継承は、すんなりといくのだろうか?―
―ああ……去年ようやく立太子された第一皇子殿下を、認めぬ勢力もある―
―他の皇子殿下を担ぐ大臣達も、黙ってはおらぬだろう―
―このままでは、内乱か?―
―……内乱に乗じて、西から大秦国が攻めて来たら……―
―いやそれより、もし新帝が、トルキア国王陛下の廃位をお命じになられたら……―
―滅多なことを言うな!!―
―可能性が全くないわけではないだろう!!―
―そうだ!! 新帝が国王陛下……前帝の皇子を、目障りに思わない保証など無い!!―
そんな中、事前に帝都からの情報収集に余念のなかった国王と宰相、そしてその側近達は、冷静かつ迅速に行動を起こし、事態の収拾に当たった。
―静まれ―
―っ……国王陛下―
―政を司る官吏達が狼狽してどうする。……宰相―
―ここに、国王陛下―
―帝都に待機させている者達からの伝達は、滞り無いか?―
―問題無く。帝都の情勢をここまで伝える体制は、整っておりますれば―
―判った。帝都の時勢と共に、トルキア周辺諸国の動向にも気を配れ―
―御意―
―呂将軍は、帝都参朝のための護衛将兵編成を急げ―
―やはり今上帝御崩御を伝える勅使を迎えた後で、帝都に行かれるっすか、陛下―
―地理的に葬儀には間に合わんが、新帝が誰であれ、心より御祝申し上げねばならん―
―危険っすよ~。仲の悪い皇子が即位したら、陛下を殺そうとするかもしれない―
―そうならないよう尽力せよ、国王付近衛武官長―
―御心のままに―
そして玉座で側近達に命令を下した後、王は狼狽する官吏達に常通りの冷然とした顔を向け、皆に向けて命令を付け加えた。
―城に在る全ての者達に命ず。皆日々の役目に尽力し、今上帝最後の勅命を待て―
最後の勅命とは、当然皇帝の死後新帝の勅使が運んで来る、故人となった先帝の遺詔(遺言)の事だ。
―っ……御心のままに。我らが君―
情勢の如何によっては、その時廃位され殺されてもおかしくない王の堂々とした様子に、その場の皆は畏敬の念をもって頭を下げ、王命を果たすことを誓ったのだった。
「……陛下の御言葉を聞いていた官吏達は、陛下の泰然とした姿に、『なんと胆力のある御方だろう』と、驚いていたらしいが……」
「……そんな訳ないだろう。……私はただ、そういう風に振る舞えるよう育っただけさ。……内心では、怖ろしくて堪らない。……おそらく父帝の崩御から一月で、私を含めた父帝の皇子と公主達……そして父帝の后妃達の運命は決まってしまう」
突然吹きつけてきた冷風にも目を背けず、王は吹き荒ぶ夜闇の雪を見上げながら静かに言う。
「不仲だったり、後ろ盾の利害が合わない兄弟が新帝になった場合、私の立場は非常に危ういものになるだろう。……私の母も、父帝にそれなりに目をかけられていた分、嫉妬していた后妃達が多い。……怖ろしい女が、新帝の母親――皇太后となってしまえば母は……」
「……」
「……今はやれる事を全てやるしかないのだが……やはり冷静ではいられないよ。……一情けない夫ですまないね、妃」
「そんな風には思わない。陛下は立派な王様だ」
そう言って首を振った妃は、王の髪についた雪を指で拭い、そのまま王の頬を撫でた。
「……ありがとう、妃」
「……」
そして妃は王の目の前に立つと、やがて微笑みを消し真剣な表情になって、じっと王を見つめる。
「……どうかしたかい?」
妻から向けられた強い眼差しに、王は少しだけ狼狽した。
「……うん」
言おうか、言うまいか。
そんな逡巡を僅かに見せた妃は、だが意志を固めたのか、王から視線を逸らさず微かな吐息を漏らし、そして言う。
「……泣かないのか? 陛下」
「……え?」
意外な、というよりも思いもしなかった言葉を聞き、王は思わず妃に首を傾げた。
至極真剣な様子で、妃は続ける。
「皇帝陛下が亡くなられて……泣かないのか? ……御父上なのだろう?」
「……」
異国の言葉を聞いたように、王はしばらく妃の言葉の意味を頭の中で考えてしまった。
――それほど王にとって父帝は遠く、そして親愛を感じない存在だった。




