幕間① 飛刃と乳姉妹
深い水路に囲まれた城門の外周は、散歩コースとしてはかあんり距離があったが、鍛錬している男にとってはさほどのものではない。
「ほーら、お妃様の乳姉妹ちゃん。水路にお魚がいるっすよ~。お城の灯りに集まって、すぐ釣って食べられそうっすよ~」
「きゃっきゃっ」
「ああやって光に集まる魚を網ですくう漁もあるっす。オイラの実家の近くの漁村が、よくやってたっす」
「うぁーあっ」
「向こうが見えないほど広い河なんすよ。こっちの河も大きいけど、もっともっと幅が広いっす。君は見た事ないっすよね。本当にでっかいっすよ~」
自分のバカバカしい感傷に巻き込んでしまった赤ん坊を抱きかかえながら、呂飛刃は水路を囲む歩道を歩き、その光景を赤ん坊に見せていた。
「魚は煮ても焼いても干しても美味いっすよ。乳姉妹ちゃんはそろそろ離乳食っすか? 早く魚の美味さを知ると良いっすねぇ」
「あぃ、あぁーいっ」
通り過ぎる飛刃が見えると、見回りの兵士達は皆帝国出身の偉丈夫を畏怖するように頭を垂れるが、まだ周囲の様子をあまり理解していない赤ん坊――国王妃の乳姉妹は、無邪気な笑顔でパタパタと手足を動かし、手近にある飛刃の明るい金の髪を掴む。
「おぉうっ痛い痛い。乳姉妹ちゃん、可愛い顔して中々剛胆っすねぇ。……そういえば、君のお母上である乳母殿も、お妃様を守って落ちた城の中でがんばってたっす」
「あうぶ?」
「お母上に似たら、君も肝の据わった女丈夫になるっすかねぇ? それはそれで、かっこいいっすね。……強すぎる女の子は、おっかないっすけどね」
「う? きゃはっきゃはっ」
母親に良く似た強い癖のある栗色の巻き毛と濃い眉、そして琥珀色の瞳の赤ん坊は、当然飛刃の言葉が判るはずもなかったが、聞こえてくる陽気な声が気に入ったのか、きゃらきゃらと笑って手を叩いた。
そんな赤ん坊に笑い返しながら、飛刃はふとその笑みを苦笑を混じらせる。
「……すまない事をしたっすね、乳姉妹ちゃん。オイラがつまらない意地を張ったモンだから、乳姉妹ちゃんまでつまらない事に、巻き込んじまったっす」
「うあー?」
「でも大丈夫っすよ、陛下は敵じゃない相手、特に女子供には優しいっす。こうなった以上、オイラも乳姉妹ちゃんの将来を傷つけるような事はしないよう、なんとかするっすから、乳姉妹ちゃんは安心して大きくなって、素敵な男の子と恋するといいっすよ」
「ぉいー、いー」
聞こえてくる言葉を真似するように、乳姉妹は声を上げた。
「おっ、言葉に近い奇声っすねぇ。うんうん、乳姉妹ちゃんは賢いっすねぇ。……オイラの元恋人は、あんまり賢くなかったっすよ」
穏やかな笑顔のまま、飛刃は微かに声を低める。
その音に気付いたのか、乳姉妹は首を傾げ、飛刃を見上げる。
「……あんな事を考えていたとは、思わなかった。……馬鹿女が」
「……うー?」
「ああ、ごめんごめんっす。……ちょっと馬鹿女の事を、思い出していたっす」
「あかぁ? うぁかー?」
「あはは。悪い言葉を覚えさせちまったっすねぇ。……そう、ばーか、だったっすよあの女は。……オイラの立場がどこにあるのかなんて、想像もしなかったっす」
夜闇を照らす月が輝く。
月明かりで輝く水路に目をやりながら、囁くように飛刃は続ける。
「陛下は、オイラが恋人に捨てられた事を、ざまぁ半分、罪悪感半分で、気にされてるようっすけどね。……でもオイラ正直、あの女の本性が判って良かったと思ってるっすよ」
「……あうふ」
「オイラね、これでも一応帝国の第五皇子昂令様――今の国王陛下の護衛武将として、精一杯務めてきたつもりっす。この国にお供する事になった時も、この国に骨を埋めて、陛下の護衛のお役を全うするんだと決心してたっす。だから結婚を考えていた恋人に、思い切って求婚したっす。……都落ちでも良いって言ってくれるならって、少しだけ期待して。でも……あの女は」
飛刃の双眼が、鋭く尖る。
飛刃は君主に言ってない、元恋人の言葉を思い出していた。
―これで帝位から完全に遠のいた、第五皇子なんて見切ってしまいなさいな飛刃―
―多くの戦で打ち立てた飛刃の武勇は、帝都でも有名だもの―
―第五皇子が嫌いな第三皇子辺りに取り入れば、きっと取り立てていただけるわ―
―お話があるんでしょう? あの方なら、もっともっと出世できるじゃない―
―ねぇ……私を愛してくれているのでしょう?―
恋人の言葉は誇張ではなく、確かに飛刃は、一騎当千と皇帝の口から直接称賛され、その噂が帝都でも有名になるほどの武功を、行かされた数々の戦で打ち立てていた。
もっと言えば、恋人の言う第三皇子から、より厚遇で取り立ててやると誘われた事も事実だ。飛刃の主である自分の弟を個人的に疎んでいた第三皇子は、弟が傷付くだろうと判った上で、そんな申し出をしたのだ。だが。
「……オイラ、自分の地位と血筋を絶対と威張りちらす事しかできない第三皇子より、色んな事を我慢して、地味に努力し続けた陛下の方が、よっぽど主として敬えるっす」
――自分なりの納得と誇りを持って第五皇子に仕えていた飛刃にとっては、一考にも値しない、それどころか愚弄してるとしか思えないふざけた申し出だった。
そんな飛刃の気持ちを察するどころか、飛刃が嫌悪しか感じない第三皇子に取り入って帝都で出世しろと囁く女に恋情は完全に冷え、気が付けば飛刃は、ただただ愛していたはずの女を軽蔑し信用できなくなっていた。
あんな苦い思いは、二度としたくない。
女には気を許したくない。遊び相手以上に、深入りはしたくない。
――そんな気持ちを、今の飛刃は払いのけられずにいる。
「……あんな女が妻にならなくて、良かったと思ってるっす。……というか、やっぱりもう結婚はいいって気分っす。……妻なんて信用出来ない他人が家にいて、安心できると思えないっす」
「……」
「……ごめん。こんなの君に言うような事じゃないっすよね。君だっていつか誰かの妻となる、女の子なのに」
「うー」
「……」
懺悔のような囁きを終えて飛刃が顔を上げると、赤ん坊の不思議そうな琥珀色の瞳とぶつかった。
言葉を理解しているはずもない赤ん坊の瞳は静かに澄んでおり、飛刃は一瞬その無垢な眼差しを、じっと見つめる。
――そしてこれがいずれ、あの女のように欲望に囚われ醜く歪むのかもしれないと思うと、少しだけ惜しいと感じる。
「うぁ、う、ぶぁあー?」
「……あはは、ばか、ってオイラの事っすか?」
ばーか。
そんなはずは無いと判っていても、ふと赤ん坊の声がそう聞こえた飛刃は、タイミングの良さに笑ってしまう。
「そうっすねぇ。……確かにオイラはバカだ。……バカだから、つまんない事はさっさと忘れて、この国で楽しく過ごすべきなんすよね」
「うぁーか うあぁーかー」
「はいはい。あーあ、悪い言葉憶えちゃったっすか? まぁまだ言葉としては判ってないなら、大丈夫っすよね」
気楽な事を言いながら歩き続ける飛刃は。
「――これもまだ判らないだろうけど……誓うよ小さなお嬢さん」
――ふと足下の小石でも避けるように、素早く体勢を傾けると。
「オイラの事情に巻き込んじまった君の事は、必ず守る」
それを二度、三度と左右で繰り返し。
「とりあえずは――こいつらからもね」
そしてまるで宙を駆けるように一歩で跳躍し、音も無く狙った『獲物』へと飛び込んだ。
「ご――ぁ!!」
「きさ――ぉ!!」
背後から放った毒塗りの投剣を残らずかわされた上、飛刃の蹴技を頭部と腹に喰らって戦闘不能になったのは、黒ずくめの男二人だった。
「衛兵!!」
「ここに!! 呂将軍!!」
「暗殺者だ。仲間か監視はいるはずだ、周辺の警戒を強化しろ」
「ははぁ!!」
飛刃は兵を呼び、すぐに取り押さえさせる。
「前支配者階層の残党か、それとも帝国からの暗殺者……は無いな。いくらなんでもこれは、やり方がお粗末過ぎる」
「ごほ……こ……の……侵略者……がっ」
「ああ、やっぱりそっち系か。今夜の拷問係はご苦労さん。ここ数日お客さんが増え続けじゃないか。このままじゃそろそろ、満員御礼だな」
「卑劣な帝国の狗……貴様らが……立てた……穢らわしい傀儡の王など……我らの君が……必ず討ち滅ぼ…………あの非道な……帝国暴君の小倅など――ごは!!」
「五月蠅い」
鈍い音を立てて、兵士に両腕を拘束された黒ずくめの男の鳩尾に、飛刃の膝蹴りがめり込んだ。
男の苦悩の叫びから隠すように赤ん坊を抱きしめながら、飛刃は冷めた声で言う。
「我君とその父帝様――今上陛下を随分と貶してくれたが、ならそういう貴様らの主人はどうなんだ?」
「ご……ほぁぼ……っ」
「時勢と大局を見誤り、大勢力の不興を買って国土を侵略され、民を守る事もできずに為す術もなく滅ぼされた能無し君主と、その君主に属する者共」
「黙ぁ――あご!!」
「……そういうのを、俺は『負け犬』って呼ぶ。――連れて行け」
男に蹴りで追撃を加えて黙らせた飛刃に一礼し、兵士達は男達を連れて行った。
「……やれやれ、楽しく過ごしたくても、まだまだ落ち着かないっすねぇ」
「あぅー」
兵士達を見送り、目を塞いでいた赤ん坊の顔から手をどけて、飛刃は再び歩き出す。
「旧支配者勢力残党が山賊化してるって話もあるっすし、当分は荒事担当のオイラが、忙しくなるっすねぇ」
「ぬぅーぷぅ?」
「……あーあ。女が信用出来なくても、女の肌は恋しい。あの柔らかさで包まれたいっす。……花街は今度いついけるっすかね~、っと」
「うぁかー。ばぁーあ」
「あっ、そこはバカにしちゃだめっす乳姉妹ちゃん。男ってのは女に癒されたい生き物なんすからね」
「だー」
「あっ、ひっぱんないでっ。前髪ひっぱっちゃダメっすっ。ハゲはいやっすっ」
武器すら使わず暗殺者を叩き伏せた帝国出身の武将の力に、周囲の兵士達は恐怖するが、腕の中の赤ん坊は相変わらず恐れも泣きもせず、飛刃の髪と戯れている。
「……この度胸。君を妻にしたら、家で一生尻に敷かれそうっす。やっぱり遠慮するっす」
「あいあい、あぁーいー」
げんなりと言う飛刃に、琥珀色の瞳の赤ん坊は、また楽しげに笑った。