終幕後 ――閑話 国王と赤毛青年
「妃……人の話は、最後まで聞きなさい」
部屋を飛び出した妃を追って廊下に出た王は、周囲を見回し、とっくに妃の姿が見えなくなっている事が判ると、小さくため息を付いた。
妃は足が速い。その上今は、少年のような軽装だ。
身分に相応しい、重厚華美で歩くのも一苦労な装いをしている国王では、そんな妃に到底追いつけるはずもなかった。
「――追いかけないのですか?」
「っ――なんだ君か。……今の騒ぎを、聞いていたのかい?」
そんな国王へ、声がかかる。
「何も聞いてはおりませんが、涙を拭う御妃様の御姿をお見かけしましたので。……状況から察するに、陛下が御妃様を泣かせた――という認識でよろしいのでございましょうか?」
「……」
思わず渋顔になった国王に一礼したのは、がっしりとした長身に仕立ての良い長袍を身につけた、長い赤毛の青年だった。――宰相の孫だ。
青年は恭しく下げた頭を僅かに上げ、ちらりと冷めた視線を国王へと向け、言葉を繰り返す。
「それで、追いかけないのですか、国王陛下? 今なら御妃様がどちらに向かったか、この場の誰に聞いても、容易く知る事ができると思うのですが?」
「……顔は上げていい」
――さっさと追いかけろよ、この恋愛経験値極低の朴念仁。
青年からそんな副音声が聞こえてきたような気がした王は、羞恥を誤魔化すように堂々と身を起こした青年の前に立つと、努めて冷静に、否と返す。
「……私は追いかけない」
「……理由をお伺いしても?」
「…………先程のあれは、最後まできちんと話を聞かなかった妃にも否がある。……公の場でそのような失態をする前に、今日の失敗を反省する時間を与えよう……と、思う」
「……」
「……」
青年の冷めた視線に、呆れが加わった。
「……陛下、御妃様関係に限って、嘘付くのが御下手でございますね」
「嘘って断定するな嘘ってっ!」
「嘘でなければ、誤魔化しか強がりか言い訳か意地張りのいずれかでございましょうね?」
「ぐっ」
「陛下、既婚者として言わせていただければ、妻に悪い事をしてしまったと思った時は、さっさと謝ってしまった方が御自分のためでございますよ」
「ぐぐっ……新婚さんが訳知り顔してる!!」
「……妻は泣き顔より笑顔が良い。……この真理に早い内に気付けた私は、幸運にございました。我が妻の微笑みは、伝説の美女西施のように愛らしゅうございます」
「しかも惚気られた!! 西施ってそれ傾国の美女じゃないかっ」
「そこは正反対ですな。我が妻はまだ年若くあれど、私を引き立ててくれる賢妻です」
ギリィ、ギリィ、ギリギリ、と、廊下に独身兵達の怨嗟がこもった歯ぎしりも響いた。
幸せ者など爆ぜてしまえばいい、と内心で吐き捨てる国王に、青年は少々困ったような顔になり、やや親身に話を続ける。
「陛下とて、御妃様が笑顔でお元気な方が、よろしいでしょうに」
「そんなのは当たり前だ」
聞かれるまでもない言葉に、王はやや不機嫌に返す。
「……そこを即答なさるのでしたら、つまらない誤解を招くようななさりようは、慎まれるべきではございませんか?」
王に対してやや不躾な青年の言葉には、幼い頃一緒に遊んだ妃に対する昔馴染みの情と、そんな妃を泣かせた王に対する憤りが感じられた。
「……君こそ、妻女以外の女人を気にしてよいのかい?」
「未来の国母たる御妃様を敬愛する事は、トルキア国民としてなんら恥じる事でもありませんから。……敬愛し、御妃様のご多幸をお祈り申し上げる者達は、城中に決して少なくはございません」
「それは、ありがたい事だ」
「……そして御妃様を敬愛する者達には、陛下の今のお気持ちを、察する事はできません」
「……なるほど」
やや刺々しい青年の物言いに、王は苦笑し冠を揺らす。――だが、青年の懸念を否定しないし、無礼な物言いを叱るでもない。
「……我らが君は、何をお考えなのでしょうか」
「知りたいかい?」
一人言のような言葉に王が返すと、青年はやや眉根を寄せ、戸惑うような表情でしばらく沈黙した後、首を振る。
「いいえ」
「ほう?」
「……今の陛下が、本当の事をおっしゃるとも思えないので」
「慎重だね。一を聞き、その僅かな情報と知識から十を察する、君の祖父のような推理力を発揮してくれてもいいんだよ?」
「私は祖父ではありません。ただの凡夫ですので」
「ただの凡夫は、西の果てから科挙受験に挑んだりしないよ」
「……まだ、予備試験に受かっただけの受験生です」
「それでもすごい。今回この国でその予備試験に受かったのは、君だけじゃないか」
王の言葉に、青年は僅かに照れたように顔を背ける。
隆武帝国の官僚登用試験である科挙は三年に一度行われ、郷試、省試、そして殿試の三段階試験を突破しなければ合格できない、倍率1000倍以上の最難関だった。
女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服している者達など、受験資格を持たない者達以外に受験の門戸はそれなりに開かれてはいるが、それでも有力な学校や優れた家庭教師、受験対策参考書を売る書店など、いくらでも有利に勉強できる環境が整っている帝都在住者と比べ、地方出身者達の不利は明らかだ。
「中央との学力差を跳ね返し、科挙の予備試験を突破した君には期待しているんだ」
「……このままでは、虎娘様への心配で気が散り、失敗しそうです」
「おい?」
「勿論冗談です」
「おーい? 結構イイ性格に育ったじゃないか赤毛君?」
「冗談ですが、やはり後顧の憂いを気にせず受験に挑みたいので、国王陛下におかれましては、さっさと虎娘様と仲直りしていただくよう御期待申し上げております」
「君もう、取り繕う気もないよね?」
「御妃様を泣かせて、徐娘半老に盛ってんじゃねぇよ助平親父っ。――と罵倒しないだけ、ましだと思って下さい」
「してるしてる」
「……貴方がただの近所の兄ちゃんなら、殴っている所だ。くそ」
「それは勘弁してくれ。言動は私が許可しているから良いが、手を出せば流石に不敬罪となってしまう」
将来有望な青年に冗談めかして言うと、王は軽く首を振った。
青年は王を睨んだが、やがて小さくため息を付くと、わざとらしく国王の前に跪く。
「……ご無礼致しました陛下、若輩者の戯れ言と、どうぞお許し下さい」
「心のこもってない謝罪だねぇ」
「………………そうですか?」
「何その間。……まぁいいや。妃と君の友情に免じて許そう」
「……」
「……それとも君の初恋に免じて許そうか?」
「…………」
「冗談だって。無言で睨まないでくれ」
そう返した所で、王はふと気付く。
青年は故郷の期待を背負った受験勉強のため、今は自宅に詰めているはずだった。
「そういえば君、わざわざ城に来るなんて、どうしたんだい? ……下世話な噂話に首を突っ込んできたわけでもないだろう?」
「それほど暇ではございませぬ。郷試の行われる地に出発する日取りが決まりましたので、国王陛下と御妃様へ、ご挨拶にと」
「ああ、そうだったのか」
本試験である郷試は、隆武帝都近郊だけでなく各所で行われるが、それでも最西端に位置するトルキア王国では行われない。青年が郷試を受験するためには、最寄りの受験地まで出向く必要があった。
「……じゃあ、君は今から妃を追いかけるかい?」
「いいえ、そのようなご無礼は致しませぬ。ケンカ友達だった私に泣き顔を見られるのは、あの方にとっても悔しい事でございましょう」
「それはそうか」
「それに、あの方が今追いかけて来て欲しいのは、私ではございませぬ」
「……」
何か言いたげな青年を無視するように、王は微妙に視線を逸らした。
そんな王に一瞬苦々しい顔になった青年は、気を取り直すように落ち着いた表情になると、ああそれから、と言葉を続ける。
「申し訳ございません陛下、これは先に出すべき物でございました」
「ん?」
「こちらに伺う前に、祖父……いえ、宰相閣下の執務室に呼ばれたのですが、閣下に頼まれた物がございます」
「――っ」
弾かれたように、王が視線を青年に戻した。
応えるように青年は、祖父から預かった分厚い書簡を、恭しく王へと差し出す。
「お付きの者達ではなく、必ず陛下に直接お渡しするようにと承りました」
「ああ、ありがとう。――……どれ」
「……陛下?」
受け取って、その場で書簡を開き食い入るように読み始めた王に、青年は少々驚いた。いつになく優雅さのない、王族らしからぬせっかちな様子だ。
「……うん。……うん。……そうか、よしよし……」
だがそんな青年を気にすることなく、王は書簡を読み込み続け――やがて、にやりと嗤った。
『――え、怖っ?!』
王が一瞬見せた剣呑な笑顔に青年は驚くが、王は特に説明する事もなく書簡をたたみ直すと、やがて穏やかな様子に戻って青年に向き直る。
「ご苦労だったね。君の出立直前には、また謁見の機会を設けよう」
「……はっ、もったいない御言葉にございます……」
いつもと変わらぬ王と言葉を交わした青年は、自分がまだまだ祖父のように、王の信頼を勝ち得ていない事を痛感しながら、深々と頭を下げた。
王はそんな青年に一度頷き、書簡を手に部屋の中へと戻って行った。
『……でも俺はやっぱり、御妃様を追いかけた方がいいと思うんだけどな。……陛下も結構、意地っ張りなのか?』
そんな、少しだけモヤモヤとしたものを抱えて家に戻った青年を、旅支度をしていた妻は、笑顔で出迎えた。
「お帰りなさいませ旦那様っ」
「あ、うん。ただいま」
「そして御覧下さいませっ。わたくしが乳姉妹の婚礼祝いと同時進行で仕上げました、力作が完成いたしましたわっ。是非郷試にお持ち下さいませっ」
「え……」
バサリと音を立てて、青年の前に煌びやかな布地が広がる。
「……え、これって」
「これを来て試験を受ければ、きっと神々も御味方してくださいますのよっ」
――それは必勝、神福招来、とデカデカ中央に刺繍され、その周囲から全身に、最近流行のありとあらゆる神名が細々刺繍された上着だった。
「…………」
刺繍自体は見事な出来だが、はっきり言って、猛烈にださい。
「……お、お気に……召しませぬか?」
「……」
ださい――が、そんな事は小首を傾げる愛妻の一生懸命ぶりを見ていると、青年はどうでも良い気分になってきた。
「いや……そんな事はない。とても嬉しいよ」
「旦那様っ」
「文字の刺繍は試験不正を疑われてしまうので、それを来て試験に行く訳にはいかないが、それでもお守りとして、大事に持って行く。ありがとう」
「はい……はいっ。本試験で御力を尽くされます事を、心よりお祈り申し上げますっ」
頬をピンク色にして微笑む妻に、自然と微笑みかけた青年は幸せを実感した。
「……それで……あの、旦那様」
「……うん?」
そんな夫に、新妻はそっと表情を曇らせ、小さな声で問いかける。
「なんだい?」
「……お城の噂は、どうなっていますの? ……その、国王陛下のご寵愛賜る姫君が現れ、御妃様がないがしろにされている……など、そんなのデタラメでございますわよね?」
妻の問いかけに、青年は返す言葉に困った。
内情はどうあれ、そう取られても仕方が無い行動を、王は取っている。
「御妃様……虎娘を泣かせたら、わ、わたくし国王陛下だって許せませんのよっ。……不敬なのは、判っていますけれどっ」
だが妻の泣きそうな顔を見ていれば、とても本当の事は言えなくなった。
――何より、自分が本当の事を見ているとは、青年はとても思えない。
『……多分、何かはあるんだ。……王様と……爺ちゃんや呂将軍達その周辺には。……だが俺には知らされないし、察することもまだできてない。……くそ、俺はまだまだ未熟だ』
「……旦那様」
「いや、なんでもない」
それでもそれ以上見極める事ができなかった青年は、結局妻に誤魔化すように微笑み、安心させるように抱きしめるしかなかった。
「……王様と御妃様は、大丈夫だよ」
「……本当、ですか?」
「ああ。……きっと大丈夫だ」
妻は少しだけ不安な顔をしたが、やがて小さく頷き、夫を抱きしめ返した。
「貴方様のおっしゃる事ならば、わたくしは信じます。……愛しい旦那様」
独身男達「「「「「「(゜皿゜メ)ギリィ!!!!!!」」」」」」
※科挙について
科挙制度当初の時代設定と、複雑化して確立した時代設定を混ぜてアレンジを加えています。総合すると嘘っぱちなので、信用しないで下さい。




