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終幕後 ――妃十五歳④

一礼して入室した国王の部屋は、風通しを良くする大きな窓に、強い日差しを遮る薄い御簾が幾重にも掛けられた、静かな一間だった。


「……ここでいいかな。座りなさい、妃」

「はい、陛下」


 その室内中央。落ち着いた飴色でまとめられた木造調度品の中でも、一際重厚な造りの椅子に腰掛けていた陛下が立ち上がり、わざわざ私のために、机の下から椅子を出してくれる。


「それから……茶器と湯を用意している、出そう」

「あ、だったら私が入れるぞ陛下っ。大丈夫、女老師様に注ぎ方は教わったんだ」

「そうか……では頼もうか。その卓上だ」


 左右には護衛や女官達の控え室があり、そこには勿論誰かが詰めてはいるだろうが、それでもこの部屋には、約束通り陛下と私の二人きりだ。

 ……という事は、こういった部屋の中の些事も、全て自分達の手で行わなければならないという事で……。


「――おっととっ」

「……うん。零れてはいないが、茶器の使い方はまだまだ危なっかしいね妃」

「うぅ……乳姉妹なら、音も立てず完璧に用意して、手早く出してくれるんだが……」

「それは良い女官ぶりだ。あの子もそろそろ一人前か」


 こういう時は、自分が常日頃いかに女官達の手助けに慣れているか、痛感してしまう。

 基本は女児学校で学んだのに、これではいかん。


「やらない事とできない事は別だからな。……陛下、私ももっと、こういった事を上達したい」

「それでも妃、赤ん坊の頃と比べると、大分上手になったよ?」

「……それはあんまり、褒めてないと思うぞ陛下」

「それはそうだね」

「自覚ありかっ」

「……赤ん坊の頃、君は隆武から持って来た高価な茶器を、おもちゃ代わりにしてあちこちに投げた事があったからねぇ……高価な茶器が割れるパリーンパリーンという音と、顔面蒼白した女官達の悲鳴は、今でも忘れられないよ」

「きっ、記憶にございませんだぞ陛下っ! 赤ん坊ならば致し方なしっ! 赤ん坊無罪というやつだっ!」

「まぁ、それはそうだね」


 過去を持ち出され、思わずむくれた私の顔を見て、陛下はくすくすと笑った。

 ……あ。


「……」

「……ん? どうかしたかい妃?」

「……い、いや。なんでもない」


 ……なんでもないんだが……陛下がそんな風に笑うのを見たのは、久しぶりな気がして。

 それから。


「今やっと……眉間の皺が、とれたなって」

「あぁ……難しい顔にはなっていただろう。戦後は後始末が山ほどあるから」

「うん。ここしばらくは、大変なご多忙であったものな。……お疲れ様です」

「ありがとう」


 あの姫の事を置いておいても、戦争から帰って来てからの陛下は、ずっと忙しかったものな。

 

「……座ろうか、妃」

「はい、陛下」


 身近で言葉を交わし合い、些細な変調に気付く。……そんな事に、やっと陛下が戻ってきたと実感しながら、私は陛下に茶を差し出した後、向かい合って椅子に腰掛けた。


「……」

「……」


 ……私達以外、薄い御簾と、茶碗から立ち上る湯気を揺らす風しか動くものが無い部屋は、穏やかにひっそりとしている。

 こうやって向かい合って座るのも、幾日ぶりだろう。ついそのまま、じっと見てしまう。


「……私の顔など、君にとってそれほど珍しいものではないと思うがね?」

「……うん。珍しくは、ないな」

「だろう?」


 私の返しに、東方の民らしい黒髪を揺らして陛下が微笑む。

 涼やかに整った顔貌に、やや線は細いが決して軟弱ではない、しっかりとした体躯。

 儚げな少女のようだと思った()()()()()は、月日を重ね、威厳と年輪を感じさせる立派な殿方になったけれど、それでもやっぱり彼は物心付いた時からずっと傍に在った人だ。珍しいはずがない。

 ……でも。


「でも、なんだか…………懐かしくて……」


 ――え? と、虚を突かれたような陛下の声がした。


「……あ」


 でも正直私も、気付けば口から漏れていた自分の言葉に、少しだけ驚いた。


「……お、おかしいな。……懐かしいなんて」

「……」


 ――この気持ちは、戦からお帰りになるのを待ち侘びていた時のものじゃない。

 これは多分、『陛下がお帰りになってから』今までに感じた、陛下への懐かしさだ。


「そんなものを感じるほど、私はここ最近、陛下と長く離れていたわけではないのにな……」


 今日だって会ったし。陛下が帰ってきてから、顔なら何度も合わせていたはずなのに。

 ……なのにどうしてか私は、まるで……産休で長い事会えなかった乳母と、やっとまた会えた時のような暖かい喜びを、陛下の間近にいて感じている。


「い、いや、今のは大袈裟だったな。忘れてくれ陛下。ははは」

「……」


 冗談で誤魔化したいが、陛下を懐かしがる私の感情は、後から後から湧き出してきて止められない。

 それは胸が熱くなるような、締め付けられるような。知らず顔が微笑んでしまうような、泣きだしてしまうような。――なんとも制御が難しい、全身を満たすような強い感情だった。 

 ……自分でも思いがけない気持ちに、戸惑ってしまう。

 一人前の王妃になるためには、感情の制御だって大事だというのに。 


「……妃」

「え……っ」


 俯いていた私の手を、そっと陛下の両手が取った。


「人と人との間というものは、不思議なものだ」

「……」

「遠く離れていても、身近に感じる事もあれば……近くにいながら、遠くに感じてしまう事もある」

「っ……」

「……妃、私達はしばらく、離れてしまっていたようだね。……すまなかった」


 静かな、でも込められた気持ちが伝わる、誠実な言葉だった。

 ……手の温もりと共に、地面が水を染み込むように、私の中に陛下の言葉が届く。


「……陛下」


 顔を上げると、触れられるくらい近くで、陛下が私を見ていた。 

 陛下の姿と温もり。香りや声。……全てが今、私に一番近い場所にある。


「妃……話をしよう」


 ……鼓動が聞こえるくらいだ。

 とくとくと……陛下と私の鼓動が二つ……きっと重なるように、鳴っている。

 ……陛下…………。


「…………ん?」


 …………えっ?


「……ん?」

「……い、いえ…………ええっ?」


 ……お……おかしい。

 ……すごく……おかしいぞっ! 


「う――うっわわわぁっ?!」

「おっとっ? の、仰け反っちゃ危ないよ妃っ?」


 ボンッ、と自分の顔から音がして、火を噴いたような気がして、私は慌てて陛下から離れた。

 急に何故だ? ――陛下が傍にいるのが、突然、とても――恥ずかしいっ!!


「なな、なんでもないんだ陛下なんでも……」

「……と言いつつ、椅子の影に隠れて床に座り込むのはやめなさい妃。どうしたんだ急に、はしたない」

「は――はしたなくなんか――なんか……はしたないっ!! はしたないのか私はっ?!」

「えぇっ?!」


 近くになんか、ずっといたはずなのにっ。

 近くどころか、好きなだけ抱きついたり全裸で腹に乗っかったり髪を引っ張ったり手を食べたりしていたらしいのにっ(幼少期)


「な――何故今更っ?! なんでよりによって今、突然こんな風になってるんだっ?!」

「お、落ち着きたまえ?」

「すごく落ち着かないっ!! どうしようっ!! 陛下っ!! 今の私はおかしいんだっ!!」

「だ、大丈夫だ妃っ、君がおかしくなかった事はあまりないからっ?」

「否定はできないが酷い言われようだぞ陛下っ!!」


 いつもの調子に言葉を返すも、急に早まった鼓動も熱くなった顔も全く収まらない。

 なんだこれは。どうしたんだ私は。

 いつも一緒にいた、陛下じゃないか。

 赤ん坊の頃から私を育ててくれた、令じゃないかっ。

 生まれた頃から今まで、良くも悪くも私の歴史を知り尽くしてしまっているようなこの人に対して、今更なんで、こんな嬉しいような恥ずかしいような羞恥を覚えてしまっているんだ私はっ。


―それが、恋ですよ御妃様。……不本意ながら、私も経験してしまいました―

―それが、恋というものなのよ虎娘。ああ、お子様には判らないでしょうけど―


「なんだってぇー?!!」

「どうしたんだ妃ぃー?!」


 突如友達二人の言葉を思い出した私は、更に顔が熱くなる。

 ――恋っ?!

 ってあれかっ?! 学校の女の子達が、キャッキャウフフしていたあれかっ?!!

 いや、陛下の事は大好きだし、いつかは私もみんなのように、キャッキャウフフするのかもしれないとは思っていたが、あれはこんなにも突然、いきなり始まるものだったのかっ?!!


「こ……こんな挙動不審になるのなら、心の準備くらい、させて欲しかったんだぞっ!!!」

「……君が挙動不審なのは……まぁそうだね」

「ほっといてくれ……あぁああ……」


 思わず椅子を抱え、陛下から後退してしまう私。

 なんという事だ。ああ、このまま逃げてしまいたい。


「妃? ……話があるんじゃあなかったのかい?」


 ――――くっ、だが逃げられんっ。

 今日はただでさえご多忙な陛下に、わざわざ時間を割いてもらったんだ。ここで。


『ナンデモアリマセンデシタ~、ソレジャ、ソウイウコトデッ♪』


 などと言い捨てて逃げるのは、陛下に対しあまりにも失礼っ。


「……ぅう」

「……ん?」


 ……だが。

 ……恋? してしまったこの状態で……こんな気持ちで、私は陛下にティーナー姫の事を確かめるのか? 

 確かめて……もし陛下がテイーナー姫に恋をしていたら……私はティーナー姫をお迎えするよう、陛下にお勧めできるか?


「…………」

「……妃……今日話は、できないのかい?」

「……っ」

 

 王妃として、しなければならない事だ。

 ――だが、それはとてもとても――先程決心した時よりもずっと、辛いだろう。

 ……どうして恋なんて、今この時自覚してしまったんだ。

 ただの大好きのままなら……まだ今よりは辛くなかっただろうに。


「……」

「……」


 とうとう部屋の隅で黙り込んでしまった私を、陛下は怒ることもなく待っておられるようだった。


「……陛下」

「……うん、なんだい妃?」


 ……約束したから、ちゃんと私の話を聞いてくれるんだ。

 ……そうだ。だったらそれは、私も話すと約束したも同じ事じゃないか。


「……」


 私は抱えていた椅子を正し、離れてしまった距離はそのままで、椅子に座り直す。


「……陛下。……お尋ねしたき議が、ございます」

「……うん、聞こう」


 ……小さく息を吸い、吐く。

 整えた声でなくてはならない。

 動揺など微塵も感じさせず、陛下がお答えしやすい話題から始め、そっとお気持ちをきかなくてはならない。

 ……私は、トルキア国王の妃なのだから。


「陛下は……」


 どう、問いかけよう。――最初は……そうだ。


「……陛下は、艶やかな黒い髪と瞳を、美しいと愛でられておられるでしょうか?」


 私とはまるで違う――ティーナー姫のような。


「……」


 自分が発した問いかけに、私の鼓動は嫌になるほど乱れた。

 不安なのか……それとも期待、しているのか。

 そうではないと、私が好きなのは、お前のような金の髪と青い瞳だと、言ってもらいたいのか。陛下に言わせたいのか。

 ……我ながら悔しいが、浅ましいな。


「……そうだね」


 ――っ!!


「……慣れ親しんだからだろう。……私にとって黒い髪と瞳はとても美しく、また好ましいものではあるよ。……確かに間近で愛でる事ができれば、さぞ心は躍るだろう」



 ……呼吸が止まった。

 そうですか、と返さなければいけないのに。

 ならば、かの姫君もやはりお美しいと、好ましいとお思いですかと、穏やかに問いかけねばならないのに――声がでなかった。


「だが――……妃?」


 視界が歪む。耳が熱い。何も聞こえない――聞きたくない。


「……ぅ」

「……き、妃?」


 ……どうして……どうして私はこんなに……辛いんだ……。

 どうしようもない事なのに……なのにどうして陛下が……美しいと愛でる黒を持っていない事が……こんなに悲しいんだ……っ。


「……っ……陛下……すみ……ま……っっ!!」

「妃っ?! 待ちなさいまだ――」


 立ち上がると、大きな音を立てて椅子が倒れる。

 ――それを直す事もできないまま私は駆け出し、そして部屋から、全力で逃げだしてしまった。


「……話は……終わってない……」



 ……私は……王妃失格だ。

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