終幕後 ――妃十五歳①
トルキアをぐるりと見渡すように、国都の最奥にそびえ立つ王国城。――その更に奥。
トルキア国王妃の私室窓際に設置された机の上には、金糸、銀糸、色とりどりの絹糸。そして美しく輝く様々な玉や羽柄が、所狭しと並べられている。
「なぁ乳姉妹……私は本当に、美しいのだろうか?」
十五歳になった私――トルキア国王妃虎娘がそんな事を呟いたのは、机上のそれらを使って、一針一針慎重に、細い飾り帯を刺繍していた時だった。
言ってからちょっと後悔する。恥ずかしい。
でも側に最も信用している女官が一人だけ、という時間に、つい口が滑ってしまったのだ。
「……まぁ、御妃様」
そんな奇妙な問いかけに動じるでもなく、私の背後に控えていた王妃付女官こと乳姉妹は、女官らしく緩やかに広がる長い袖で上品に口元を抑えながら、主君に返した。
「そのような、お戯れを(今更、何バカな事を言ってるんですかアンタ)……」
すごいな乳姉妹。上品な女官らしい返答と共に、お前の本音が伝わってきたぞ。これが副音声というものか。
「建前の隙間隙間から、そっと意見をお伝えする。女官の嗜みでございます」
「なるほど、女官とは奥が深いものなのだな。……おおっと! 危うく刺し間違える所だったぞっ」
会話に気を取られていたら、下絵からずれた場所に針を突き立てていた。私は慌てて、失敗しかけた刺繍針を帯から抜く。
そんな私へ乳姉妹は、袖で口元を抑えたままやはり上品に微笑し告げる。
「多少間違った所で、問題はございませぬ王妃様」
「そうはいかん。――なにしろ、他ならぬお前と飛刃の婚礼祝いなのだからなっ」
私同様十五歳となり、隆武女子の結婚適齢期に入った乳姉妹は、数年前正式に婚姻話がまとまったトルキア王国の将軍、呂飛刃の元に嫁ぐ日が近づいていたのだった。
「夫婦の末永い健勝を祈り、祈りを込めた祝いの品を贈るのは当然だろう」
正直な事を言うと、乳姉妹を飛刃に取られてしまうような気がして、ちょっとだけ複雑だ。でも二人の幸せを祈る気持ちも本当なので、今は素直に祝福している。
そういう訳で私は今、もうすぐ夫婦となる二人への贈り物として、婚礼衣装用の飾り帯を二本仕上げているのだ。
――なお、飛刃の飾り帯の裏地に爆童女愛と刺繍しようとしたのを、国王陛下に止められたのは内緒だ。ちっ。
「苦手だろうと、こればっかりは手は抜かんぞっ」
私は、自分で下絵から考えた飾り帯を見下ろし、拳を握った。
――うん、昔に比べれば大分マシ……のような気がしないでもない、多分。
乳姉妹や女学校時代の友達ほど上手くはなれなかったが、私だって少しは腕を上げている……はずだっ。
「必ず立派な飾り帯を贈ってやるからな。期待して待っていてくれ乳姉妹っ」
「……御妃様。御厚情、真に感謝申し上げます(ありがとう、うれしい)」
私の奮闘と失敗を傍で見続けていた乳姉妹は、僅かに女官用ではない素の笑顔を見せながら、嬉しそうに応えた。可愛い。
「――でも、婚礼衣装の飾り帯に、妖怪縫い付けられるのはちょっと……」
「妖怪?!!」
そして素直な毒舌を返した。可愛くない。
「違うぞ乳姉妹っ!! 妖怪ではないっ。これは瑞獣っ、隆武の瑞兆の証しなのだっ」
「……白豚か何かの化身ではなく?」
「瑞獣白澤だーっ!! 病魔避けの霊験あらたかな神様なのだぞーっ!!」
刺繍を乳姉妹の前に広げ、私は力説する。これのどこが豚かっ。ちょっと顔が大きく曲がってしまって、四つ足が短かくなってしまって、鼻が横に広がってしまっただけではないかっ。
……うぅっ。書画としての下絵はそれなりに描けるのに、何故それを刺繍で表現しようとすると、大きく崩れてしまうのだっ。解せぬっ!
「……左様にございますか。我が見識の至らなさを、どうかお許し下さいませ御妃様」
そんな私に、なんだか生暖かい笑顔を向けて詫びる乳姉妹。くっ、『もっとがんばりましょう』、という副音声が聞こえてくるぞっ。
「……それはそうと、御妃様」
……ん? ――おっ。
「先程おっしゃられた御言葉なのですが」
「ん……ああ」
一瞬で、乳姉妹は再び女官の顔に戻っていた。
王妃の話相手となり、その憂いを取り除く事も大切な仕事である国王妃側付女官の顔で、乳姉妹は私に問いかける。
「……『私は本当に、美しいのだろうか?』――などと、御妃様が抱く事すら不思議な疑問の理由を、よろしければこの乳姉妹に、お聞かせいただけないでしょうか?」
……この顔は、ある程度『原因』の見当はついてるんだろうな。
…………原因そのものについてはあまり言いたくないから、少し遠回しに尋ねてみようか。
「――こほん。いや、それほど、大袈裟な理由じゃないんだ乳姉妹。……ただ私もとうとう、トルキア国王妃の公務として表に出るようになったからな。堂々と振る舞うためには、まず自分の価値をきちんと把握しておくべきだと思った」
「……左様にございますか?」
それとなく話し出した私の言葉を吟味するように、乳姉妹は着席を許した向かいの椅子に座り、首を傾げていた。私は続ける。
「うん。女児学校を卒業した頃から、陛下と共に謁見の間で、様々な者達を迎えるようになっただろう? 彼らは驚く程に私の外見を持ち上げるからな。自己評価は逆に、慎重になるべきだと思った」
――なんとお美しい御妃様でございましょう。
――まさにトルキアの薔薇、いや、至宝に相応しい絶世の美姫にあられますな。
――これぞ美の女神。まるで光輝かんばかりの麗しさ。目が眩んでしまいそうです。
周辺諸国の貴人、使者、大商人等々。謁見の間で迎えた男達の言葉をちょっと思い出すだけで、私は何とも言えない居心地の悪さを感じてしまう。
薔薇だ宝だ女神だと、赤毛君や学校の友達にでも聞かれたら、大笑いされてしまいそうな美辞麗句の大安売りだ。陛下の側で聞いてた飛刃には、後から散々からかわれてしまったしなっ。
「謁見した者達の言葉を、信じられませぬか?」
「丸呑みにはしない。なにしろ私は一応、この国で最も高貴な身分である王妃だ。謁見にきた者達はまさかそんな貴人に対し、二目と見られない醜女だなどとは言わんだろう?」
いや、いくらなんでも自分が、二目と見られない醜女だとは思ってないが。というか、思いたくないが。
「勿論でございます。王の妃や寵姫を賛美するのは、謁見する者達にとっては当然の礼儀であり、処世術でございますから」
「そうだろう?」
「ですがだからと言って、彼らが本音ではない、とも言えないのでございます」
乳姉妹は目を細め、ねぇ? と言うように頭を揺らした。
丸顔の、どちらかと言えば綺麗よりは可愛いが似合う乳姉妹は、こういう表情をすると不思議なほど大人びて鋭利に見える。王城に仕える、老練な上級女官達と同じ顔だ。
「社交辞令で駱駝を女神と讃える事ができる者達だろうと、本気で美しいと感動し、心から賛美する事もございましょう。要は、人の心一つという事でございます」
「本当か嘘か、それを見抜けという事か?」
「勿論トルキア王国妃としては是非、見抜けるよう読心眼を養っていただきたいですね」
「うん」
それは是非、国王妃として磨きたい技術だ。
「ですがそれ以外にも、見抜く方法はございますよ。……この城の至る所にある目や耳を、利用するのでございます」
女官の顔で、乳姉妹は微笑んだ。ああ、なるほど。
「やっぱり、来客は監視しているのか」
「おもてなししているのでございますよ。……そして私共女官の忠誠は、他の誰でもなく国王陛下、そして御妃様ただお二人へと捧げられておりますゆえ」
多分、他の城もこうなんだろうな。外国公務があったときは、言動に気を付けよう。
「そんな『城の目耳』として申し上げさせていただくならば、御妃様のご尊顔を拝した後の謁見者達の様子は、皆同じでございましたね」
「というと?」
「魂を抜かれたようでございました」
「……なんだって?」
どんな怪奇現象だそれは? 乳姉妹は続ける。
「彼らは頬を上気させ目を潤ませ、口元をだらしなくニヤケさせ、『なんと清楚可憐な美妃か……はぁああタマラン』や、『金髪美少女最高ウヘヘヘ』や、『こっちみて笑った……俺に気がある……絶対ある……』などと、ぼんやり妄想の世界に耽溺しながら、妄言を垂れ流しておられました」
「……そ、それまさか、私を見たからじゃ無いよなっ?」
「畏れながら……」
首を振るな乳姉妹っ。なんだその光景はっ。想像すると寒いぞっ。
「――私の本音を申し上げさせていただきますと、御妃様は世の美しい娘好きな男達の理想を具現化したような、一目見た者達を魅了して恍惚とさせてしまうような、絶世の美姫でございます。少なくとも外見だけは」
「さらっと外見だけ扱いされたのは置いておくとして――おかしいだろうそれはっ。納得できんっ」
私は乳姉妹の言葉を却下した。
私が男達の理想? 見た者を魅了? ――それはどうにも納得がいかんっ。
「……と、申されますと?」
「だってな乳姉妹、この城で私に魅了されている男なんか、いないじゃないかっ」
私は、城の者達を思い出す。
国王陛下「こら妃っ、いいかげん淑女らしくしなさいっ!!」
飛刃「あはは。中身が子虎っすからね~御妃様は。元気なのは良い事っす♪」
兵士達「御妃様っお城でお転婆するのはやめて下さいっ! 不審者と間違えますっ!」
宰相「おっ、御妃様っ、わっ儂の頭を凝視するのはやめて下されっ」
赤毛君「我妻が、御妃様の乳姉妹に贈る飾り帯は大丈夫かと、心配しております……」
「――っとこのザマだぞっ。どこが魅了だっ。――というか、赤毛君はいつ私の友達を落としたんだっ! 手早いぞ赤毛君っ!! 君がそれほど甲斐性に溢れた男だとは知らなかったっ!!」
「ああ、先月の赤毛の若様と御妃様のお友達の結婚式は、お幸せそうでしたねぇ」
それ自体はめでたいんだがっ、もうちょっと恋愛でモジモジしてるあの子の姿を見て楽しみたかったっ。あれは可愛かったっ。
「とにかく、私が本当にお前の言う、周囲を魅了力する絶世の美少女だったら、今頃城中の男達は、メロメロのクラクラになっているのではないだろうかっ?」
想像するとかなり怖いっ。よかった、そんな怪奇が蔓延している城になってなくてっ。
「つまりそれが、だいたい中身のせいという事でございましょう」
「……中身? 外見以外?」
「はい」
何かを思い出すように、遠い目をして乳姉妹は言う。
「おむつ一枚で寝台に転がっていた御妃様や、腹掛け一枚でハイハイしていた御妃様や、お風呂上がりに寝間着を嫌がって丸裸で走り回った御妃様や、陛下の【パオーン】を確認しに寝室へ忍び込もうとした御妃様を、城の者達は見慣れてしまったのでございますよ」
ぎゃあああっ!!
「乳姉妹ぃいーっ!! 『御妃様』の上に、『赤ん坊の頃の』をつけてくれっ!! それでは私がまるで、恥女のようではないかーっ!!」
「春画片手に陛下の【パオーン】を確認しにいかれたのは、ほんの五年ほど前の事でございますよ?」
「細かいぞ乳姉妹っ。そこはおまけしてくれっ」
「おおせのままに」
乳姉妹の優しい苦笑が胸に痛いっ。そういう顔をするとやはり親子、母親の乳母にそっくりだっ。
「い、今の私はそんな事はしていないぞーっ」
「勿論、存じております。……御妃様は御立派に成長なされ、今や陛下の横に添われる御方となられました」
……っ。
…………陛下。
「……それなのに、御妃様?」
「……なんだ、乳姉妹」
「それほどまで成長された貴女様は、自信を失っておられる。……違いますか?」
…………違わない。
「外見への不安など、ただの一因でございましょう? ……貴女様は、もっと大きな不安に、お心を乱されておられる」
「……乳姉妹には敵わないな」
「それはもう、乳姉妹ですから」
どこか得意げに言う乳姉妹に、自然と気分が軽くなる。……やっぱり、信頼する者が側にいてくれるのは、とてもありがたい事だ。
「お前の言うとおりだ、乳姉妹。私は悩んでいる」
乳姉妹の声に力付けられ、私は告白する。
悩むなど性に合わないし、いつまでも悩み続ける自分が情けなく感じていたが、ならば行動するしかないではないか。聞いてくれ乳姉妹。
「……私は陛下にとって、美しい存在ではないのではないかと悩んでいるのだ」
トルキア国王陛下。私の夫であり、心優しい庇護者。
そんな彼の姿を求め、私は席を立つと窓辺へと寄り、外に広がる中庭へと視線を向ける。
「……陛下は」
そこに彼はいた。――美しく私とは全く違う、小柄で華奢な黒髪黒目の美女に寄り添いながら。
「陛下は、かの姫を、美しいと思ってらっしゃるだろう? それは見ていれば判る」
彼女は、トルキア王国の近隣にある、とある国の王妹姫だった。
戦災のどさくさで蛮族に誘拐された王妹姫を、国王陛下は助け出し、この国へと連れ帰ってきたのだった。――そして現在、この城で大切に保護している。
「……そして彼女がこの城に来てから……私は陛下に避けられるようになってしまった気がするんだ。……間違っているだろうか、乳姉妹?」
陛下は、私より彼女を美しいと思われたのかもしれない。そして美しい彼女を、私より好かれたのかもしれない。
もし、私の考えが当たっていたならば――私は陛下のため、そして自分のために、どう動くべきか?
不安に囚われ悩んでしまったが……やはり逃げずに考え、そして行動しなければならないだろう。
まだ本当の夫婦にはなっていなくても、私はトルキア国王の――令の、妻なのだから。
熟年(十五年)夫婦の話です。




