終幕後 ――乳姉妹十歳⑥
こうしてしばらく市場で騒いだわたし達は、すっかり日も暮れる頃になってようやく良い土産物を見つけ、城へと帰りました。
「……でもわたし、今日までは登城禁止なのですが、よろしいのでしょうか?」
「乳姉妹ちゃんの登城禁止は、今日の勤務時間終了までっすね。定時だと既に帰宅時間っすから、私的なら城に行っても問題無いっす」
「なんだか、詭弁っぽいですね」
「詭弁っすから」
「えっ」
「妃の土産に、乳姉妹ちゃんを付けろっていう陛下の御言葉がありましてねー」
なるほど。御妃様にはわたしも早くお逢いしたいですし、国王陛下が良いとおっしゃるならば、問題はありませんが。
「……陛下。……さっきの視線……すぐ消えたけど、絶対誰か見てたっす……陛下の手の者だったら……くっそ面倒臭ぇあの文弱モヤシ……」
……しかし呂将軍は、まだ何か狼狽えてますねぇ。文弱モヤシって国王陛下の事ですか? 不敬極まりないですよ。的確な表現だとは思いますが。
「――あれ?」
――などと思いながらちょっと懐かしい王城の廻廊を歩いていると、廻廊の突き当たりに在る部屋の扉の隙間から、何かが漏れ聞こえている事に気付きます。
「……箜篌の音?」
それはすっかりわたしの耳に馴染んだ弦楽器、箜篌の音でした。
そしてその繊細な絹糸弦の音に寄り添うように、少女の澄んだ声が、滑らかな隆武の詩歌を重ねます。
「――……
弋言加之 ――弋して言に之れを加つれば((獲物を)首尾よく射止めて来て下されば)
與子宜之 ――子の与に之れを宜とせん(わたしが料理の腕を振るいます)
宜言飲酒 ――宜として言に酒を飲み(それを肴に飲み交わし)
與子偕老 ――子と偕に老いん(共白髪まで添い遂げられるよう祈りましょう)
琴瑟在御 ――琴瑟御にあれば(私が琴、貴方が瑟、二人仲良くつまびくなら)
莫不靜好 ――静好ならざるは莫し(これほどの幸せはありません)……――」
(※鄭風 女日雞鳴 第二節)
「これは……――」
邪魔できず、そっと扉の隙間からのぞいた部屋の中には――箜篌をつまびく仙女がいました。
「――……陛下、これは夫婦の歌なのか?」
「ああ、そうだよ妃。夜明けの夫婦の問答歌だ。――妻は夫に、もう夜明けだからさっさと狩りに行ってよ。と、せかしつつ、貴方が首尾良く獲物が手に入れたら、どれほど素敵な事でしょう。と、おだてるんだ」
「あはは。妻は夫を、手の平で転がすつもりなんだな」
広い布張りの座具で寛ぐ国王陛下の横に腰掛けていた仙女は、御妃様でした。
髪を上品に結い上げて、裾のゆったりとした丈の長い絹衣を身につけ、更に頭から指先まで豪奢な金銀の宝飾で装った御妃様は、崑崙山上におわす西王母のように神々しく、そしてお美しかったのです。
「――乳姉妹っ」
いつの間にか呂将軍が開けていた扉に気付いた御妃様が、お顔をこちらに向けてわたしを呼ばれます。
自然のままでもお美しかったお顔は、白粉と紅で上品に粧され、……まるで本当に大人になられてしまったかのようでした。
「……御妃様」
……いいえ、御妃様がそうなられる日も、遠くはないのでしょう。
それを慶ぶ反面、どこか寂しく感じてしまうのは……わたし達がもう二度と、無邪気に幸せだった赤ん坊には、戻れないと判っているから。
「御妃様、お久しゅうございます。……お側を離れる失態を犯した事、どうぞお許し下さいませ」
「乳姉妹……うわーん逢いたかったぞぉーっ!!」
……それでもやっぱり、わたしに飛びついてくるこの方のお側に在るのは、わたしの幸福です。
「ごめんっ私こそごめんな乳姉妹っ!! この十日間で私は反省したぞ!! ――今度からケンカしたりやり返す時は、人目につかないように気を付けるっ」
「…………反省……本当にしておられますか御妃様?」
「無論だっ。誰にも見られないように気を付け、口封じも済ませれば、騒ぎにも問題にもならんと私は気付いたのだっ」
「そういう問題じゃないだろう妃っ」
「あいたっ」
だから御妃様。どうかわたしを、ずっとお側に。
美しく飾り付けられた頭を国王陛下に叩かれた御妃様を支えながら、わたしはそっと内心でそう願います。
「乳姉妹~っ陛下がいじめるぞ~っ」
「いいえ、今のは愛の躾けでございます御妃様」
「おや、判ってくれるかい乳姉妹?」
「大切な事でございます、国王陛下。……御妃様の素晴らしき御将来のためならば、この乳姉妹いかなるお力添えも厭いませぬ」
「ほう……良く言った乳姉妹。それでこそ王妃の腹心となるべき女官だ」
「ひぃい?! 陛下に加勢する気か乳姉妹?!! 私をうらぎるのかーっ?!!」
「御妃様……大人になるって、悲しい事なのでございます」
「悲しいと言いつつ顔は笑顔だ!! 乳姉妹が冷酷になったぁー!!」
そしてその願いを叶えるためなら、どのような努力だってする事を、こっそりと誓ったのでした。
「あのかわいかった乳姉妹に戻ってくれーっ!!」
……がんばりましょうね、御妃様……大切な我が君? ……ふふふ。
「――というわけで、お土産でございますよ御妃様」
「うぅ~……あっ林檎だっ。それに棗椰子、葡萄、無花果もあるっ」
「王都の大通りで、呂将軍と購入しました。あの賑やかな市場通りは、外国から様々なものが入ってきておりましたよ」
「うわぁっ、ありがとう乳姉妹っ飛刃っ」
その後。かわいくなくなった乳姉妹に衝撃を受けていた御妃様は、それでも市場で仕入れた果物を手渡すと表情を輝かせ、笑顔に戻りました。
よかった。その立ち直りの速い前向きさが、愛おしいです御妃様。
―― 一方。
「……飛刃ー?」
「……からっ……誤解……ってるっすよ陛下っ」
「間諜が偶然……なに……ようは……ということだ。……結果良ければ……なぁ飛刃?」
呂将軍は御妃様からお礼を言われた事にも気付かず、部屋の隅っこに引っ張っていった国王陛下と、なにやら小声で口論していました。
「心配するな……女童好みだったと……噂を……国中に……やる……これで万事解決」
「いぎゃぁあああああああああ?!! アンタ何言ってるっすか?!! 何人のモテ期に死刑判決下そうとしてるっすかこのド鬼畜陛下ぁあああああああああ?!!」
……なに言ってるんでしょうねぇあの方々?
「ん? 飛刃はどうしたんだ乳姉妹?」
「さぁ……?」
といっても、お二人の個人的な事なら、わたし達が口を出すべきではないでしょう。
「長い付き合いのお二人ならば、たぶん色々あるものなのですよ」
「ふーん? 男二人で色々かっ」
「その言い方やめてくださいっす御妃様!! 余計な誤解まで招くっすよ!! それこそオイラのモテ期が完全終了っすよぉおおおおお!!!」
「? 飛刃は何を焦ってるんだ?」
「さぁ……? あ、強く握ると果物の汁がついてしまいますよ御妃様。お口になさるなら、わたしが皮を剝き切りましょう」
「うんっ」
騒ぐ呂将軍と、呆れ嗤う国王陛下。そんな部屋隅の男性二人への興味をあっさり捨てて、御妃様は頷かれました。
「じゃあ林檎がいいっ。――そうだ、これもジャラジャラして、食べる時邪魔だなっ。外してしまおうっ」
そうして御妃様は、身を飾っていた金銀の宝飾品を次々と外し、先程まで座っていた座具の上に放り投げます。……おや?
「ふぅ、重かったっ」
「……これは?」
宝冠に首飾り、腕飾り、耳飾り、指輪等々……。
宝飾品よりも御妃様の美しさに魅入っておりましたが、一つ一つ単体で見ると、これらは大変豪華で美しいものでした。
純金に純銀、それに大粒の宝石も皆本物でしょう。わたしには想像もできませんが、恐ろしく高価なものである、という事だけは理解できます。
……国王陛下が御妃様のために、作らせたのでしょうか?
うーん? どちらかと言えば慎ましく上品な意匠を好む国王陛下には似合わない、贅沢なものに見えますが……?
「ああ、これはな、全部贈られてきたものなんだ」
「贈り物、でございますか?」
「ああ。面倒臭くて疲れたが、礼儀として一回は付けなさいって、陛下に飾りつけられてしまったんだ。やれやれ、宝飾品屋の飾り棚になった気分だったぞ」
「これほどの品を、贈り物だなんて……」
一体どこの誰が、どんな目的で贈って来たのでしょう? ……まさかキナ臭いものではないでしょうね?
「心配そうな顔だな、乳姉妹」
「っ……陛下」
気が付くと、部屋隅から国王陛下が戻ってこられました。後ろにはまだ騒ぎ足りなさそうな呂将軍も続いております。
「心配無い。あれは変態だが、心の女神と定めたらしい我が妃に、妙な邪心は無いようだ」
「へ、へんたい……でございますか?」
「そうだぞっ。ほらっ」
そう言って御妃様は、どこからか折りたたんだ上質の紙を持って来られました。……これは、手紙……ですか。
――我が薔薇の美神の面影を宿せぇし、麗しぃ~いの義姉様へ。……五兄上とお二人、お元気であられるでしょ~うか。……貴女様の成長しただろう姿を思い浮かべぇ~る度、ワタシの心は愛ゆえの歓喜に踊り、その衝動を叫ばずにはいられませぇ~ん。……立ち寄った異国の地で、また貴女様にお似合いだろぉ~う芸術品を手に入れましぃ~た。美神の化身である御身を我が貢ぎ物でお飾りいただけたなぁ~ら、これほどの悦びはありませぇ~ん。ああ愛、愛愛あぁ~いあいあぁ~いあい……――
「……」
……今わたし、手にしたコレを、クシャっと握り潰したくなりました。
「なっ、変態だろ乳姉妹っ」
「……え……あ……いえ御妃様……ええと……」
あれだけのものを贈ってくる権力者なのは判るので、勿論そんな事はできませんが。
……一体なんなんですか? この頭が緩んだような、タワゴトの贈り主は?
「これはな……私の六弟だ乳姉妹」
「お……」
弟って……ああ、確かに義姉上とか書いてますけど。
……とりあえず、今頭の中に浮かんだこの六弟様に対するあらゆる言葉は、胸の中にしまっておくべきでしょう
「……気にするな乳姉妹。多分今お前が頭の中で思った、あいつに対するあらゆる言葉は、多分間違っていない。一言で言うなら、こいつは馬鹿だ」
「左様にございますか、国王陛下」
「あいつは……一度この国に来たのだがな、その際当時一歳半だった妃を見て……その、まぁなんというか……非常に気に入ってな」
「……さ、左様にございますか、国王陛下」
口には出せませんが大変だ。大変な変態だ。
「……いや。その感情には今は折り合いを付けているから安心しろ。ただ時々こうして、遠くの妃に想いを巡らせて、贈り物を贈ってくるくらいだ」
物に罪は無いですが、なんだか変態の怨念がこもってそうで怖いです。
「でもあの変態、宝飾品ばっかりだな。どうせなら果物とか麦とか家畜とか、もらってうれしいものを贈ってくれればいいのに」
御妃様、タダより高いものはないんですよ?
「そんな事を言ってはいけない、妃」
「陛下」
そうですよね、陛下。
「こういう宝飾品は、国や民の有事の際には売り飛ばして、他国から食料や物資を揃える事もできるんだからね妃」
「そっかっ。この国のために、役に立つんだな陛下っ」
そういう意味ですか陛下?!
「という訳で妃、金ヅル……ではなく素晴らしい贈り物をしてくれた六弟に、丁寧な返礼の手紙を書くように」
「わかったぞ陛下っ。金ヅル……じゃなくて六皇子様が、また何か贈って来たくなるような、立派な返礼を書いてみせるぞっ」
金ヅルを連呼するお二人は、うふふと顔を見合わせ笑いました。……そんな所は、似た者夫婦ですね。それとも御妃様への国王陛下による、教育の賜物でしょうか?
「……しかしこの宝飾品の意匠は、南方のものだな。……六弟はまた航海に出たらしいが、今度は南洋航路を進んでいるのか」
「六皇子様って、まだ旅人なのか?」
……旅人?
「ああ、六皇子様は、隆武帝国の船にのって、あちこち見て回るのが仕事なんだそうだ」
わたしの不思議そうな顔に気付いたのか、御妃様が説明して下さいました。
「あの馬鹿が、諸国の視察には案外役に立ってるらしい。諸外国の探訪記や、珍しい香辛料、染料、宝石、それに動物なども、隆武に持ち帰ってきたそうだ」
「あちこちフラフラしてたせいで語学は堪能っすし、周辺民族の動向にも詳しい上、無駄に色男で愛想も良いっすからねぇ。周辺諸国を警戒させず探るには、もってこいの人材だったってわけっしょ」
ほう……ただの馬鹿ではなかったのですか。……しかし。
「……隆武の直系皇族ともあろう御方が、随分危険なお仕事をなさっておられるのですね」
遠方諸外国への旅というものは、それだけで命の危険に晒される難事業でしょう。……帝国の頂点に連なるはずの貴種が、勇気があるというか、命知らずというか。
「六弟が望んだのだ」
「……望まれた……のですか?」
頷き、国王陛下は苦笑を浮かべ続けられました。
「あいつは政略結婚を断固拒否してな。『ならばその働きで隆武に利益をもたらしてみせろ』――と皇上(皇帝陛下)に命じられ、『やってみせましょう』と、海洋航路の探訪を受けてたったのだそうだ」
「け、結婚したくないから、難事業を受けてたったのですか?」
それはすごい。やはり六皇子様とは、筋金入りの幼児性愛者だったのでしょうか。
「……結婚断固拒否という意思表示も、勿論あるのだろうが。……あいつの安らぎはもはや隆武帝国ではなく、苦しい旅路の中にしか無いのかもしれないな」
……国王陛下?
「陛下、どうしたんだ?」
「……いいや妃。あの馬鹿者が元気そうで、よかったと思っているだけさ」
「そっか……そうだなっ。毎回付いてくる手紙も面白いし、私もあの人の事は、割と好きだぞっ。元気でいてほしいっ」
「そうだね」
笑顔で見上げてくる御妃様に、僅かに沈黙した国王陛下はやがて暖かい笑みを返し、御妃様の頭を撫でられたのでした。……やはり遠方におられる弟君の事です。色々と思う所もおありなのでしょうね。
「……だがなー。……乳姉妹」
……え?
「……ウチにも約一名いるが、名も地位もある男が結婚断固拒否というのは……あまり良くない主張だと思わないか?」
「そそそこでなんて乳姉妹ちゃんに話を振るっすか陛下ぁあああああ!!!」
何故か非常に焦った様子で陛下を遮ろうとする呂将軍ですが……そうですねぇ。
「……恐れながら、おおせの通りだとわたしも思います。国王陛下」
「乳姉妹ちゃぁあああああん!!!」
正直な所、私もいい年した身分ある男がフラフラ遊び続けるのは、あまり良くない事だと思いますよ呂将軍。
遊ぶ事に悪気はなくても、いらぬ嫉妬や恨みを買ったりする事だってあるでしょうし、失恋すれば悲しいのでしょうし。
……なにより呂将軍はずっとお一人よりも、家族を得て奥様と御子達に囲まれる方が似合っている気がします。
「そうか。……なぁ乳姉妹。私はこれはこれなりに、一度女にとっ捕まったら、良い家庭を築くような気もするのだが、お前はどう思う?」
「まこと仰せの通りかと、国王陛下」
「乳姉妹ちゃんやめるっすぅうううううう!!!」
しかし何故、呂将軍は先程から大暴れして、周囲にいた兵士達に止められておられるのですかね。……褒めているつもりなのですが、お気に召しませんか?
「そうかそうか。……乳姉妹、いずれはお前も嫁ぎ、人の妻となるだろうな?」
「家福により、そういったお話をいただく事もございましょう」
「……もし、だぞ乳姉妹。もしお前が、飛刃のような好色な浮気者の妻になる事になったら、お前はどうする」
「陛下ぁああああああむぐ?!!」
「五月蠅いので兵士達、黙らせろ」
「御意のままに。国王陛下」
呂将軍のような旦那様ですか? ……うーん……そうだな。
「その方の妻として、精一杯お仕えいたします。……そして」
「そして?」
「その方の首根っこを押え尻に敷けるよう――心身共に全力で追い詰めます」
いぎゃあああ、と呂将軍から悲鳴がまた上がってますが、本心です。
ここは蓄妾(妾を囲う事)が当たり前の隆武帝国領ですから、妾の一人や二人で目くじらは立てません。……ですが呂将軍のようにあちこちで遊び呆けるような旦那様では、家族としては困りますし、ね。
「……良く言った、乳姉妹」
そんな私の言葉を生意気とおっしゃる事もなく、国王陛下は至極満足そうに頷くと、両手を私の肩に乗せられます。
「お前は私の期待通りに成長しているようだ」
「畏れ多い御言葉にございます」
……そうか。国王陛下は御妃様付きの女官に対し、夫すら尻に敷く強さも求めておられたのですね。――これは励まなければ!
「私は乳姉妹がその決意を忘れず、大きく成長する事を期待している」
「御意のままに。国王陛下」
より強く。そしてより加虐的に。
ご期待に添えるよう、がんばります国王陛下っ。
「ちがうんだ乳姉妹ちゃ――むぐぐっ!! うわー離っせぐぐぐっ!! んがぁーっ!!!」
「大人しくなさいませ呂将軍!!」
「国のため、俺達のため大人しく鬼嫁もらって尻に敷かれて下さい!!」
「好色色男なんぞ滅びろ!!」
「妓楼のおねーちゃん独り占めするんじゃねぇええ!!」
「あんたみたいなのは独身男最大の敵なんだよぉおおお!!」
「お前ら本音ダダ漏れっすよぉおおおお!! 乳姉妹ちゃん!! 乳姉妹ちゃん騙されちゃだ駄目っすぅうううううう!!」
しかし呂将軍、同性の人望がまるでありません……こりゃ確かに、きちんと結婚して落ち着いた方がいいのかもしれませんね?
……奥さんとなる女人は、大変そうですけど。
呂将軍の未来の奥方様、ご愁傷様です。
そんな夜が明けた翌日。
「おっはよーっ」
「――虎娘……虎娘のバカバカバカバカバカぁああああああああああああ!!!」
停学と登城禁止が解けた御妃様とわたしは、なんだか懐かしい気分になりながら、女児学校の教室へと戻ってきたのでした。
教室に入った途端、手にしていた刺繍を机に放りだして飛びついてきたのは、御妃様の(ちょろい)お友達でした。黒髪黒目の東方美少女は、目に一杯の涙を浮かべながらも御妃様を睨み付け、ポコポコと叩きます。
「わたくしのせいであんなケンカ!! あんな!! ばかばか!! 淑女のする事ではありませんのよ!!」
「すまなかったな、心配させた」
「し――心配なんて!! してたにきまっていますわばかばか!! が、学校に国王陛下が来られたと聞いてばかばか!! 国王陛下のお怒りを受けて、貴女が学校を追い出されてしまったのではないかってばかばかばか!!」
「あ……いや、大丈夫だったよ。な、乳姉妹?」
「はい」
「ほ、ほんとうに大丈夫だったの? 虎娘ちゃん……」
「よ……よかったよぉ。……ずっと来ないから、退学になっちゃったんじゃないかってっ」
「馬鹿ね、違うって女老師様もおっしゃっていたではないのっ」
「もう男の子なんか、相手にしちゃだめよ。てんで、子供なんだからっ」
気が付けば、他の女の子達にも囲まれてました。
本当の事を言うわけにもいきませんでしたが、心配してもらった気持ちは嬉しく、御妃様とこっそり視線を合わせ、照れたように笑い合います。
「……やっぱり今度ケンカする時は、誰にも見られないようこっそりと、だな」
「そもそも、ケンカを選択肢に入れてはいけません虎娘様」
「ちぇっ。やっぱり強くなったなー乳姉妹っ」
「虎娘っ、あなた本当に反省していますのっ?!!」
「も、もちろんだ。勿論私は、反省しているぞ」
そして友達に怒られます。
「だいたい貴女は――」
「はいはい、話題転換……っと? 立派な刺繍だな。……これは帯かな~?」
「ああっ!! そ、それは、なんでもありませんわっ!!」
「……男性用だな。しかもこの色模様……ふーん? 赤毛の男子に良く似合いそうだっ」
「きゃぁあああああ!! こここここれはただのお礼ですのよぉおおおおおおお!!」
「うわわっ、あまり頭をポコポコやるな。簪が取れてしまう」
「――えっ? ……あら虎娘、簪を付けるようになりましたのね?」
かくも平和な時間が過ぎ去る日も、遠くはありません。
「……まぁな。これは令との約束。……大人への準備というやつだ。――なっ、乳姉妹?」
「はい、虎娘様」
……でもだからこそ、残り少ない日々を楽しみましょう御妃様。
貴女が名実共に国の母となり、国王陛下の横に立ち並ばれるその日が来るまで。
――隆武帝国領トルキア王国黎明期の将軍、呂飛刃の正室――通称呂妻は、歴史書や公式文書に一切名前が出ていない。
勿論歴史の表舞台に出ていなかったならばそれも珍しい事ではなかったが、呂妻はトルキア王妃の側付き女官として長く勤め、最終的には女官長にまで出世して王城奥向きの差配を司った、女ながらにトルキア王国重臣の一人である。
当然王国内の文書に記される機会は多く、本来ならば本名を記す文書が見つかってもおかしくない立場のはずだった。
だが王国内に残された資料には、彼女は呂ノ妻こと呂妻、もしくは乳姉妹という通称でしか記される事はなかった。なお、乳姉妹というのは、彼女がトルキア王妃の乳姉妹だったからである。
この事は後の研究者の様々な憶測を呼び、呂妻複数説、呂妻入れ替わり説、呂妻王妃の影武者説、とんでもない珍説になると、王妃=呂妻説と、様々な仮説が語られる事となった。
これらの仮説はどれも根拠根拠に乏しく、決め手にも欠けるものだったが、後年トルキア遺跡研究チームが発掘した遺骨のDNA鑑定によって、面白い仮説が立てられる事になった。
呂妻――王妃の乳姉妹は遺骨のDNA鑑定の結果、隆武帝国出身者に多いモンゴロイド人種ではなく、旧トルキア王国に多いコーカソイド人種と判明した。
その事実を踏まえ、呂妻は旧トルキアの民であった可能性が高く、そんな彼女が本名を隠していたのは、旧トルキア王国の民として与えられた名前を、隆武帝国に奪われないためではなかったか――という仮説だ。
この仮説は、多くの仮説の中でも最も現実味があるものとして、現在では認知されている。
何故なら旧トルキア王国の民は、隆武帝国に併合後様々な同化政策によって『隆武帝国人化』し、特に女児達は隆武帝国風の名前と教育を与えられた後、隆武帝国人の妻や妾となり、支配国民の中に組み込まれていったからだ。
それを大人しく受け入れ、隆武の民として生きた者達が大多数だった事は、その後の歴史が証明している。
だがその中で、既に存在しない自分の故国が残したものを愛し、心の片隅に残して隠した者がいても、おかしくはなかっただろう、と研究チームはまとめている。
――その証拠のように、ただ『乳姉妹』とだけ記された、呂妻の母が娘に当てた手紙が残っているという。
もっとも、その仮説が正しかったにしろ、呂妻が隆武の将軍である夫に嫁ぎ、隆武の民として生きたのは事実である。
年の差はあったが夫婦仲はよかったらしく、呂妻の副葬品には、愛妻家の呂飛刃が贈ったらしい、多くの装飾品が発見されている。
――なお、実は呂飛刃は恐妻家で、贈り物で妻のご機嫌を必死に取っていた、という説も残っている。
どちらが真実だったか、記す後の帝国歴史書は存在しない。
※中国名詩選上 岩波文庫 松枝茂夫編




