終幕後 ――乳姉妹十歳⑤
それから十日間。登城禁止となったわたしは、自宅で両親と過ごしました。
「まぁ、御妃様がケンカ? ……ふふふ、御学友の涙を見過ごせないとは、さすがはこの乳母の乳で、強く逞しく育った御方ね」
「お、お母さんったら……それでいいの?」
「そう、良くはないわね。だからそんな無茶をなさる御妃様を上手くお止めするのが、これからの貴女の役目ですよ、乳姉妹」
「……お母さん」
「小さな見習い女官さん、失敗を糧にして励みなさい。貴女ならきっとお役目を果たす事ができるようになります」
「……はいっ」
呂将軍の前で泣いて愚痴を零して、すっきりしたせいでしょうか。
「うん、私も君ならできると思うよ、乳姉妹ちゃん」
「……」
「あっ……い、いや……私の意見なんか、別に関係ないと思うんだ……けどさ。……は、はは……」
「……お義父さん」
「は……い」
「……ありがとうございます。励まして、くれたんですよね」
「……えっ。……あ、う、うんっ。そのつもりだったよっ。私あんまり人と関わってないから、妙に聞こえるかもしれないけどでもっ」
「……はい。大丈夫です、ちゃんと伝わりました」
「う……うん。……ははは」
胸にくすぶっていたモヤモヤが薄れ、母とも、そして義父とも、少し素直な気持ちで接する事ができました。
……思えば一人前の女官になるのが目標となってから、わたしは精神的に、随分肩肘を張っていた気がします。どんなに背伸びしたって、まだまだわたしなんか発展途上の子供に過ぎないのに。
……そういうわけで。
「乳姉妹、お隣さんに凝乳のお礼を持って行ってちょうだい」
「はーいっ。お洗濯干したら行きますっ」
「あと水くみと、薪割りと、かまど掃除と……」
「ちょっとちょっとお母さんっ、押しつけすぎっ」
「あら、身重のお母さんを労りなさいという、国王陛下のご命令でしょう?」
「もーっ、妊婦だからって家でダラダラしてたら、太りますよっ」
定職処分中は、久しぶりに遠慮なく言葉を交わし合いながら、母にこき使われる事となりました。
「あ、それ赤ちゃんの肌着?」
「ええ。貴女の肌着を繕って、再利用ね。ほら、花の刺繍がかわいいでしょう」
「男の子だったら、どうするんですか?」
「あら、かわいいじゃない」
「え、えぇー……」
母はわたしに家事を押しつけながら、楽しそうに出産準備に入っていました。
仕方が無いから、手伝いますけどね。……なにせ家族が増えるのですから。
「……ねぇ、お母さん」
「なに?」
「その……義父さんのこと……好きですか?」
そしてそのついでに、ずっと気になっていた事も、聞いてしまいました。
「あら、どうして?」
「……もしかしたら……国王陛下に命じられて、断れなかったのか……と」
勅命だったとしたら、断れるはずもありませんが……もし事実だったら、母が可哀想だと実はずっと思っていました。考えてみればそれが、義父に対するわだかまりになっていたのでしょう。
「違いますよ乳姉妹。確かに国王陛下からお話はいただきましたが、私はそうしたいと思い、あの人に再嫁したのです」
「本当に?」
「ええ、本当に。好きですよ、あの人の事は」
でもそんなわたしに、母はなんでもない事のように穏やかな調子で頷くと、大きくなったお腹を撫でました。
「あの人も貴女も、この子の事も、家族として本当に大切に想っています」
……死んだわたしのお父さんよりも?
「……乳姉妹?」
「……いいえ、なんでもありません。お母さん」
……そう頭に浮かんだ質問は、口には出さない事にします。
「……幸せそうですね、お母さん」
「ええ、幸せよ。……さて、そろそろ夕餉の支度をしましょうかね」
「じゃあ、手伝います」
「ええ、頼むわ。まずかまどに火を起こして――……」
今の母の言葉が本当なら、わたしはそれでいいんです。既にいないわたしの実父への想いなど確かめるのは、野暮というものでしょう。
――ちなみに。
「……お義父さん、お母さんの事が好きですか?」
「ひぇ?! なっななな何を急にいうんだちちち乳姉妹ちゃんっ。……あ、あたりまえじゃないか……君のお母さんは、優しくて明るくて包容力があって、福々しい丸顔も可愛らしくて……」
「……」
尋ねた瞬間真っ赤になって大いに狼狽えたくせに、そのまま延々惚気だした義父の気持ちはよーく判ったので、今後はつっつくのはやめておきます。
しょぼくれた中年男の惚気とか、聞きたくありませんからね。全く。
こうして両親と過ごした十日間は、気が付けばあっという間に過ぎ、残すところあと一日です。
「お邪魔するっすよ~発明家」
「おお、これは呂将軍。どうなさったのですか? 武具のご注文ならば、お呼びいただければ……」
「いや。今日はお前じゃなくて、乳姉妹ちゃんを誘いに来たっす」
そして、そろそろ登城の支度でもしようかと思っている所に、呂将軍がやってきました。……わたしに御用ですか?
「………………呂将軍、いくら普通の女性に飽きるほどおもてでも、十歳になるかならないかの女童を誘うのは流石に……」
「おい元部下。お前、オイラをなんだと思ってるっすか発明家?」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「そこで目を逸らして黙るなっす。まったく、仕事のお誘いっすよ?」
「仕事ですか、呂将軍?」
「そーなんすよー、乳姉妹ちゃん」
わざと困った風な顔になって、呂将軍は続けます。
「十日間王妃らしい恰好で、みっちり淑女のたしなみ各種を特訓をさせられグッタリなさってる御妃様のために、オイラは市場で何か、楽しいものを手に入れてこなければならないんすよ~」
うわぁ……御妃様、本当に十日間特訓漬けだったんだ……。
「だ、大丈夫でしたか? ……御妃様は、相当お疲れになったのではありませんか?」
「反省してた事もあって、大嫌いなズルズルした恰好に転びそうになりながらも、がんばっていたっすからねぇ。でもアレ以上じっとしてたら、心的負荷でそのまま倒れてしまいそうだって、国王陛下も気付かれたっす」
「そうでしょうね……」
わたしはつい、草原を自由に駆け回っていた虎が、豪華な狭い檻に閉じ込められてしまう姿を想像してしまいました。
「という事で、お仕置きは今日で終わり。がんばった妃にご褒美でも買ってこいと、陛下がオイラを城から追い出したわけっす」
「なるほど。それで、わたしも同行しろと?」
「御妃様が好きなものは、乳姉妹ちゃんが一番知ってるっすからね。側付き見習い女官さん?」
……ふふ。そういう事なら、ご期待に添わなければなりませんね。
――そして。
「うわぁ、いつ来ても中央通りはすごい人ですね」
「オイラから離れるんじゃないっすよ~乳姉妹ちゃん。外国からの露店も建ち並んでる繁華街だから、悪党達も商売に励んでるっす」
わたしはまた呂将軍の袖無外套を掴みながら、色鮮やかな人と物とで埋め尽くされた、賑やかな市場を歩いたのです。
「さーてっ、何を買うっすかねぇ? 綺麗な髪飾り? 美味しい果物? 面白い姿の動物や奴隷? ここには海外から、じゃんじゃん入って来てるっすよ~っ」
「うーん……ここに一緒に連れてきてあげるのが、御妃様にとっては一番元気が出るご褒美だと思います」
「ははは、流石は乳姉妹ちゃん。きっと正解っすね。ちゃんと護衛を連れてなら、国王陛下も許してくれるっすよ」
それはきっと、大喜びなさるでしょう。
……それにしても国王陛下は、意外な程御妃様の自主性を尊重なさいますよね。
「御妃様に淑女の教養を躾ける反面、国王陛下は御妃様が好きな事も否定せずやらせて下さる、というか……」
「『人生、何が必要になるか判らない』っていうのが、陛下のお考えっすから。実際兄皇子様に下々の町や市場に連れて行かれた経験は、陛下の中で無駄になってないそうっす」
「なるほど……」
確かに、いざという時には御妃様が学んでいる乗馬や剣術は、役に立つかもしれません。とはいえ。
「仮にも一国の王妃様の乗馬や剣術が役に立つ機会なんて、無い方が良いのでしょうが」
侵略や内乱、暴動、謀反、暗殺等々。嫌な機会しか頭に浮かびません。
「だーいじょうぶ大丈夫♪ オイラがいる限り、国王御夫妻の御身の心配は無用っすよ~乳姉妹ちゃん♪」
「そうですね」
それでもこの方なら、きっと国王陛下と御妃様を守ってくださるでしょう。
「……えっ」
「……どうしたんです、呂将軍?」
驚いた顔してなんですか。えって。
「あー……いやぁ、なんていうか。あんまり女の子から……そんな風にあっさり、純粋な信頼の視線を向けられた事がなかったっていうか……」
「ああ、でしょうね」
「そこあっさり認めるっすか?!」
「確かに『女性』が異性として見ると、呂将軍はこれ以上ないくらい信用できない方に見えますから」
「乳姉妹ちゃん容赦ないっす!!」
権力者で、美男子で、態度も口調も明るく軽く、フラフラと美女から美女へと渡り歩く独身主義者――なんて、甘い夢を見たがる女性達だって心惹かれる反面、よほど頭がお花畑でない限り、遊ばれて捨てられたくないと警戒するでしょう。
「そうなんっすよね~……結局紅夢楼の姐さんも、『睦言を信用させる素振りくらい、していただきたかったですわ』とか言って、オイラをポイ捨てしたっすぅ……」
「あ、先日一緒だった美女にはもうフラれたんですか。……呂将軍っておもてになるのに、本当に恋人関係が長続きしませんね。これが人徳の有無というものですか? それとも結婚相手としては問題外だからでしょうか? 地味に独身女性達から人気があり、『あの誠実な御方なら、側女でも大切にしてくださるはず』と、秘かに二号三号の座を狙われている国王陛下とは、雲泥の差ですね。わたしも呂将軍のような男性を夫や恋人にした女性は大変だと思います」
「もうやめて。おにーさんの生命力は零っすよ……」
あ、座り込んでいじけた。つい本当の事を、言い過ぎでしまったでしょうか。
……でも。
「……あくまで異性として見れば、の話ですよ。呂将軍」
「……なにそれー」
むくれ顔で唇尖らせて見返さないで下さい、いい年した大人が。可愛いですから。
「わたしは貴方様の事を、自国の将軍として最高の御方だと思っております」
「……え」
「国王陛下にお仕えする将達の中で、貴方様以上に信頼できる方を、わたしは知りません。――貴方様は、例え一人となっても最後まで主君を守ろうと戦い続ける、そんな方だと思います」
「……」
言動は軽く不敬でも、呂将軍が国王陛下と御妃様の、誰よりも誠実な盾である事くらい、わたしにだって判ります。
呂将軍が、わたしの為人を黒歴史も含めてよくご存じなのと同様に、わたしだってこの方の事は、色々知っているんです。
……良くも悪くも、付き合いは長いんですから。
「……買いかぶりっすよ」
「そうでしょうか?」
「でも……不意打ちだ」
「え?」
……呂将軍?
「……嬉しかったって、ことっすよ」
……。
…………。
………………――うわ。
本当に嬉しそうな、優しい笑顔がわたしに返ってきました。
「……なにこれこわい」
「オイラが?」
「い、いえっ。なんでもありません呂将軍っ」
西国で作られた男神像を思わせる、華やかに整った美丈夫の艶やかな微笑みは、まるで光り輝くようで。
この方を見慣れているはずのわたしですら、冗談抜きでクラクラと目眩がし、気が付けば赤面しているほどの高威力です。
飛び抜けた美形というのは、表情一つで異性に衝撃を与える事ができるものだったのか。……恐ろしい。
「ありがとうっす~乳姉妹ちゃんっ。おにーさんちょっと感激っす~♪」
「……ただ普通に、そう思ってただけですが……」
「オイラへの信頼が、乳姉妹ちゃんの中にフツーにあるってのが、嬉しいんっすよ~。最近はずっとツンツン冷たかったから、おにーさんちょっと寂しかったっす~」
「なんですかそれは……」
冷たく、というよりお城にお仕えする者として、目上の方への態度で接するようにしていたのですけど。
「……もしかして呂将軍、気になさっていたのですか?」
「そりゃね~。実はとうとう嫌われちまったかって、思ってたっす。……だって女遊びする男とか、真面目な女の子には嫌悪対象になるだろうし~」
「そんなわけありませんよ」
呂将軍の女遊びなんて、今更ですし。物心付いた時から綺麗なお姉さん達に囲まれている姿を見れば、そういうものだと納得もできます。
「……ほんとーにー? 男としては、ズタボロな評価なのにー?」
「本当ですってば」
む、ちょっと信用されてないみたいですね。
さっきイジメ過ぎたのもあるでしょうが、見習い女官として気負っていた時の態度も原因なら、わたしの責任でもあるのでしょう。
「――好きですよ」
「――――――へっ?」
ならば誤解は、きちんと解いておかなくては。
そう決心したわたしは、ようやく立ち上がった呂将軍の目の前に立ち、疑いようのないほどはっきりと呂将軍に告げました。
「呂将軍。わたしは貴方様を尊敬し、お慕い申し上げております」
「っ――」
「この気持ちが揺らいだ事はございませんし、貴方様が貴方様である限り、今後も揺らぐ事はございません。……これからもお側にいられれば、幸せでございます」
「―――――――――――――――――――――――――――――――――」
これほど真剣に断言すれば、嫌われていないと判るでしょう……が?
……呂将軍、どうしたんですか顔が強張ってますよ?
「……乳姉妹ちゃん」
「はい?」
「今のは――『呂将軍。わたしは貴方様を『この国の武将として』尊敬し、『お兄様のように』お慕い申し上げております。この気持ちが揺らいだ事はございませんし、貴方様が貴方様である限り、今後も揺らぐ事はございません。……これからも『国王陛下にお仕えするもの同士』お側にいられれば、幸せでございます』――って意味っすよね?」
「当たり前ではありませんか」
先程貴方様に対する男性評はお聞かせしたはずですし、まさか異性の恋情的な意味と誤解はなさいませんよね?
「――乳姉妹ちゃんっ」
「はい?」
――とっ? 呂将軍? なんでわたしの両肩掴んで、ものっすごく真剣なお顔をなさってるんですか?
「ありがとう乳姉妹ちゃん、その気持ちはとても嬉しい。でもそういう事は、陛下の前では絶対言わないように。絶対っすよ? いいっすねっ?」
「……はい?」
そりゃあ、何度も言うつもりはありませんが、国王陛下の前で言ったからと言ってなんなのでしょうか?
「まさか国王陛下が、このような小娘の言葉に妙な誤解はなさいますまい?」
「誤解じゃなく、確信犯的に言葉を曲解する可能性があるんっすよっ」
……曲解?
「『あっちがお前を好いているならば、問題ないだろう♪』とか言って、例の書類の強制執行とか――オイラを人生の墓穴に放り投げたがってる、あの野郎ならやりかねないっす!!」
「あの野郎って……」
良く判りませんが、わたしの知らない所で、国王陛下と呂将軍にも色々と確執があるのでしょうか?
「それでも国王陛下に対し、不敬はよくないと思いますよ」
「この件に関してはいいんっすよっ――ん?!」
……どうしました呂将軍? 突然すごい勢いで後ろを振り返って?
「……誰かの視線を感じたっす」
「注目する人も、いるのではないですか?」
美男子の奇行なんて、見てて面白いでしょうし。
「しまった……つい油断してたっすが、嫌な予感がするっすっ!! 陛下の間諜達はそれなりに優秀だしっ!!」
「……はぁ。なんでも構いませんが、そろそろ買い物に戻りませんか呂将軍?」
「乳姉妹ちゃん、視線が冷たいっすっ」
「だって、御妃様がお待ちなのでしょう。お疲れのあの方をお待たせするくらいなら、呂将軍の疑心暗鬼などどうでもいいです」
「言葉も言葉の内容も激冷っすっ! 冷酷っすっ!」
そうですね。……ようやく泣く前の、いつものわたしに戻れたような気がします。しかも、気負ってないのが自分でも判ります。
「呂将軍に色々と正直になったおかげでしょうか。ありがとうございました」
「ち、乳姉妹ちゃん……オイラに正直になると、冷酷になるっすか?」
どうやらそのようです、呂将軍。
……昔から貴方様に構っていただくのが好きでしたから、もしかしたら貴方様をイジメたくなるのは、その延長かもしれませんね。ふふ。
次回最終回予定。




