終幕後 ――乳姉妹十歳④
不幸中の幸いか、御妃様と男子達の喧嘩はあっという間に打ち切られました。
「――何をしているのです貴方達は!!」
「――っ!!」
取っ組み合いの大喧嘩になる寸前に、どこからともなく駆けつけてきた学校の職員達によって、御妃様と男児達が取り押さえられてしまったからです。
「はっ離せ女老師様!!」
「いいえ、いけません虎娘様!! ――貴方々!! 女子と男子が学舎で喧嘩とは何事ですか!! まして女子一人を相手に男子複数など!! 恥を知りなさい!!」
御妃様を取り押さえた女老師様の一喝に、男性老師達に取り押さえられた男子達は、言葉を失い俯きます。――どうやら美しい大人の女性に叱られて初めて、男子達は羞恥と罪悪感を覚えたようでした。
「とにかく虎娘様はこちらに――乳姉妹も、ついて来なさい!」
「は……はい」
「やだ離せっ!! あいつら絶対やっつけてやるんだ!!」
「虎娘様!!」
それでも暴れる御妃様でしたが、女老師様、そして女老師様の助力に来た職員達大人数名の力には流石に敵いません。結局羽交い締めにされるようにして抱えられると、学舎の中へと連れて行かれてしまいます。
「乳姉妹、立って歩けますか?」
「……大丈夫です」
……そして酷くふらつき、情けない気持ちで一杯になりながら、私もその後に続いたのでした。
連絡を受けたのでしょう。私達が連れて来られた学舎の校長室へと、国王陛下が荒々しい足取りでやってこられたのは、それからまもなくの事でした。
「――この愚か者!!」
「――っ」
国王陛下はいつになく厳しい表情で御妃様を見下ろすと、激しい口調でそう御妃様を叱責なさいました。
「王妃が下々と喧嘩などと!! 何を考えているんだ!!」
「だっ……だってっ」
……ほんとうにいつもとは違う、御妃様に対して怒りを覚えておられるご様子です。
御妃様も気付かれたのでしょう。びくりと一瞬身を竦ませて叱責を受けられましたが、それでもやはり納得いかないのか、顔を上げて国王陛下に反論なさいます。
「悪いのはあいつらだったんだ!! だから私はあいつらをやっつけてやろうと――」
「それを本当に、君がやっていいと思っているのか!!」
「え……っ」
その反論を撥ね付けた国王陛下は、怒りを隠さない冷徹な声で続けます。
「君は考えたのか? 君に――自国の『王妃』に手を上げる。その行為がどれだけの罪を君の国民に負わせる事になるのか、君は考えた上で行動に移したのか?!」
「……っ」
「君は自国の民に、一族郎党処刑されてしまう程の重罪を負わせようとしたんだぞ!! 判っているのか!!」
判っていなかったのでしょう。御妃様の表情が、驚愕に強張りました。
「――弁えよ!! この国において君の立場は、私に次いで重い!! 君の軽々な振る舞いは、周囲にも君自身にも不幸を招く事になるんだ!!」
その御妃様に相対する国王陛下は、とてもお怒りであると同時に、お悲しみでした。
「……へい、か」
――御妃様の事を真剣に想うからこそのお怒りとお悲しみなのだと、御妃様もご理解なさったのでしょう。
強張ったままの表情で小さく震えた御妃様は、やがて零れそうになる涙を耐えてしかめっ面になりながら見返し、そして消え入りそうな小声で、国王陛下へと気持ちを伝えられたのでした。
「……ごめんなさい」
「……うん」
御妃様の言葉に頷いた国王陛下は、ようやく表情を緩めて跪くと御妃様を抱きしめ、御妃様の御髪を優しく撫でられます。
「……君に怪我が無くてよかった」
「……でも……友達は泣かされたんだっ……だから……私……っ」
「友達のために怒った事は、間違って無いんだよ。……でもね妃、例え正しい怒りでも、示し方を間違ちゃいけない。……王族の間違いというのは、民の大きな不幸に繋がってしまう事だってあるんだから」
「……そんな事、考えなかった……ごめんなさい」
「判ればいい。……校長、老師達」
国王陛下の声に、部屋の隅で最敬礼をとっていた大人達が、より深く頭を垂れます。
「此度の一件はただの子供の喧嘩であり、『虎娘』の振る舞いもまた良くなかった。この子と喧嘩した男児達を、法で裁く事は無い」
「おお……慈悲深き国王陛下の御厚情に、感謝申し上げます」
「……ただし」
「は、はいっ」
「罰しなくとも、叱る必要はある。面白半分に女子をいじめるような悪ふざけは、男子として恥ずべき事だとしっかり伝え、罰則として学舎の掃除でもさせてくれ。その子達のためにもなるだろうからな」
大事にならずに済んで安堵したのでしょう。大柄な校長は何度も平伏し、国王陛下の御言葉に従う事を誓ったのでした。
……これで、あの男子達の罰則は決まりましたね。……後は。
「……そして妃、乳姉妹。この件に関しては、君達にも罰を与えなければならないね」
……ですよね。
「えっ……陛下っ、喧嘩したのは私で、乳姉妹は止めようとしたんだっ。乳姉妹は悪くないぞっ」
「いや、悪い。彼女は君を『止めようと』ではなく、『止めなければ』ならなかったんだ。それが君の側付き女官見習いである彼女の役目だ。それを果たせず事態を悪化させてしまった以上、処罰しなければならない」
……役立たずだと、思われてしまったでしょうか。
国王陛下の静かな御言葉に、わたしへの失望を感じ取ってしまいそうで、わたしは思わず自分の裳の布地を握り締めました。
「まず妃、君は十日間の登校禁止。外出も禁止。その間城内で礼儀作法を中心に、女子のお作法の短期集中特訓を受けてもらおう」
「う……判りました、陛下。……なんでちょっと嬉しそうな顔なんだ?」
「え? 気のせいだよ?」
……でも、役立たずと思われても、仕方が無いかもしれません。
わたしは御妃様を止める事も、お守りする事もできず……男子に突き飛ばされた衝撃と恐怖で震え上がり、へたり込んでしまっていたのですから。
「そして乳姉妹には、十日間の登校と登城禁止を命じる」
「……おおせのままに、国王陛下」
……やっぱり……わたしなんて。……わたしなんかじゃ……。
「……外出禁止にはしないから、十日間お母さんをよく手伝ってあげなさい。乳母殿は身重で、そろそろ家事も辛いだろう、乳姉妹」
「……」
「妃は連れて帰る。……呂将軍、乳姉妹を家まで送ってやれ」
「御意、国王陛下」
どこかお優しい国王陛下の御言葉にも、一層情けなさが増し。
わたしは、零れそうになる涙を必死に堪えながら、拝礼の姿勢を保つのが精一杯だったのです――。
「……元気だすっすよー乳姉妹ちゃん。大事にはならなかったんだし」
「……」
酷く重い気分を抱えながら、わたしは家路に着きました。
むっつりと黙り込むわたしを送り届ける呂将軍は、なんでもない風にそう言うと、ゆっくりわたしの前を歩きます。
「学校の教職員達の中には、秘かに御妃様を護衛している者達もいるっすからね。また何かあったとしても、すぐ今日みたいに駆けつけて来るっすから、大丈夫っすよ」
「……」
……ああ、やっぱり。素早い対応なはずです。
……間違い無く、呂将軍はわたしを慰め、安心させようとして下さっているのでしょう。
でもその言葉にわたしが感じたのは、安堵ではなく暗澹たる惨めさでした。
「……乳姉妹ちゃん?」
「……」
……わたしは最初から、本当の意味で、御妃様をお守りする頭数には数えられていなかったんですね。
……そんなの当然です。
……だってわたしはまだ、ほんの子供で。
……乳母である母の縁故で、御妃様にお仕えする事が叶っただけの……ただそれだけの子供に過ぎません。
「……ちょ……どうしたっす乳姉妹ちゃん?」
……まだなんの実績もなくて。
……これからだって……国王陛下のお目がねに適うような、優秀な女官になれるかなんて……わからなくて。
……なのに……。
「……ぅ……っ」
……どうしてわたしは、勘違いなんかしてしまったんでしょうか。
「な、泣く事ないっすよ? 陛下は乳姉妹ちゃんにはそんなに怒ってなかったっすっ。どちらかと言えば乳姉妹ちゃんへの処罰は、周囲を納得させるためのもので……」
「……情け……ない」
「……え?」
泣くなんて……こんなの情けない。みっともない。
貴人にお仕えする女官が、感情のまま醜態を晒してはならない。そんなの見習いとして最初に教わった、初歩中の初歩の心得なのに。……止まらない。
「……わ……たし」
「……ん?」
「……わたし……不安を感じながらも、きっと内心で……傲ってました。……見習いとしてでも、御妃様をお守りする女官として認められたんだから……だからわたし……自分にはその力があるんだって……いつのまにか……でも……」
気が付けば、わたしは前を歩く呂将軍の袖無外套を掴み、惨めな気分のまま泣きじゃくっていました。
「……でも……わたしなんか本当は……御妃様をお止めする事もできない……男子一人に突き飛ばされて……怖くて……竦んでしまうくらいの……意気地無しで……っ」
「……」
子供の癇癪のようなそれを、足を止めた呂将軍はただ黙って聞いておられます。
……いいえ、聞いてなどいないのかもしれません。ただ同情しているだけか。それとも呆れられているのかもしれない。
それでも傍にいてくれる人に――呂将軍に、わたしは弱音を吐き出しました。
「……わたし……こんなに……なにもできなかったんだ……っ」
みっともないけれど、今のわたしは誰かに話を聞いて欲しかったのです。
「……」
どれくらいそうしていたでしょうか。
ふと動く気配を間近に感じて顔を上げると、呂将軍はすぐ前に跪き、わたしを見つめていました。
「……」
「……」
……う。……中身はともかく、巷間の美女も恥じ入るほどの美形、という呂将軍の評判は誇張ではありません。……中身はともかく、そんな美形がわたしのぐしゃぐしゃになった泣き顔を見つめていると気付けば、恥ずかしくもなります。
「……あの――」
あまり凝視しないで下さいますか、とお願いしようとしたわたしの頭に、軽い感触。
「……呂将軍?」
「よしよし」
いつの間にか笑顔の呂将軍の手が、わたしの頭を掴むようにして、ぐしゃぐしゃとかき混ぜてました。
――って簪っ!! 簪がずれますっ!! 折角朝苦労してまとめているのにちょっと――。
「――『なにもできない』」
「……え?」
「それはとても、大切な自覚っすよ乳姉妹ちゃん」
同情も嘲りも感じられない呂将軍の言葉は、微笑ましげでした。
驚いて思わず見返すと、それがまた面白かったのか、呂将軍はとうとう声を立てて笑いながら、わたしの頭を両手でグシャグシャにしやがりましたっ。
「ちょっ……や、やめて下さいっ。もう小さな子供ではないのですからっ」
「あはははは、そうっすねぇ。大人ぶってるんじゃない。乳姉妹ちゃんの中身は、ちゃーんと成長してるっすね。おにーさんなんだか感動っすよ」
「なっ何をおっしゃっているのですか呂将軍っ」
「ねー乳姉妹ちゃん。この世で最も、自分の望みは何でも叶うって思ってる人間って、なんだか判るっすか?」
「……え?」
なんですか突然? ……なんでも……ですか?
「……隆武の、皇上様とか」
「あはははははっ。そっかー、知らない人はそう思うっすかぁ。万歳爺(皇帝への敬称)を含め、世の権力者達ってのは、あれで中々大変なお立場なんっすけどねぇ~」
「ち、違うんですか?」
「違うっすよ~」
「じゃ、じゃあ……なんですか?」
呂将軍は目を細めてわたしを見返し、答えます。
「赤ん坊っすよ」
「……赤ん坊?」
「そう。お腹空いたーって泣いたら乳がもらえて、漏らして気持ち悪いーって泣いたらおしめを変えてもらって、だっこーって泣いたら抱っこしてもらって。この世に権力者は数あれど、良い母親に育てられた赤ん坊ほど全てを満たしてもらってる方は、まずおられないっすよ」
戸惑いつつも、わたしは反論できません。……確かに、間違ってはない気がします。
「そして赤ん坊ほど、『自分は最高の存在だ』って思ってる存在は無いっすよね。何しろ泣けば全てが叶うんっすから」
「……はぁ」
「で、その赤ん坊時代からの万能感を、小さな子供ってのは引き摺っているもんっす」
……かもしれません。……御妃様と自分の小さな頃を思い出すと……は、恥ずかしいほどの、怖いもの知らずっぷりです。
「その幻想がぶっ壊されるのが、オイラ成長のきっかけってやつだと思ってるっすよ」
「……成長」
「そうそう」
もう一度わたしの頭を撫でくり回すと、呂将軍は立ち上がりました。
「わ……っ」
袖無外套を掴んだままだったわたしもつい引き摺られ。いえ、手を離せばよかったのですが、なんとなくそのまま顔を上げてしまいます。涙の跡がみっともない顔なんて、見せたくないのに。
「無力を思い知った時は辛いっすけどね、でもだからこそ、本気でヤル気になれる機会でもあるっすよ」
「機会、ですかっ?」
「うん。本気でヤル気になって、大きく成長する機会。機会を活かすも殺すも、乳姉妹ちゃん次第っす」
成長……できるのでしょうか、わたしに。
「わたし……でも、また失敗してしまったら……」
「そんなの、国王陛下も想定内っすよ。成長を期待している子供を召し抱えるってのは、そういう事っす」
「……っ」
期待されてる? ……陛下に? 本当に?
「そして、成長前の補助は、大人の役目っす。後ろは任されるっすから、どーんと御妃様にぶつかるくらいの勢いで、あのお転婆娘と渡り合ってみるっすよ」
「そ、それは……難しいとは思いますけれど」
「大丈夫。最近大人しぶっちゃいるっすけど、オイラが知る乳姉妹ちゃんは、御妃様にも負けぬお転婆娘だったっすからっ」
「そっ、そのような事はございませぬ呂将軍っ」
ムキになって言い返したわたしは、いつの間にか胸の中に燻っていた色々な感情が薄れ、気持ちが軽くなっていた事に気付きました。
「――それとも、もう迷惑な御妃様の傍付きなんて、やりたくない?」
「そんな事はございません!」
だからこそ、御妃様に対する想いを、はっきり答える事ができました。
「確かに時々無茶をなさいますが、それでもわたしは物心付いた時から、あの強く優しい方が大好きですっ」
「そっか」
そして、断言してすっきりしました。
……そうです。確かに色々困らせられる事はあるけれど、わたしは御妃様が好きです。だから正式にお仕えすると決まった時嬉しかったし、早く一人前になろうと思いました。
「じゃあ、がんばっすよ乳姉妹ちゃん」
「は……はい、呂将軍」
今それを思い出せたのは、この方のおかげです。
……この方がいなかったら、わたしは暗澹たる気持ちのままお役目に復帰し、そしてまた同じ失敗をしてしまっていたかもしれません。
……ありがとうございます、呂将軍。
「……あの」
「ん? なになに~乳姉妹ちゃん、オイラに惚れたっすか? 駄目っすよ~オイラ悪い男っすから~♪」
「ち、違いますっ」
でもお礼を言おうとした途端茶化され、またムキになってしまいました。
――こ、この赤くなった顔は、そんなんじゃありませんっ。呂将軍みたいな方に対して恋慕の情など考えもしませんが、それでもこの方は飛び抜けて性的でお美しいのです。いくら見慣れてたって、見つめ合ってしまえば多少は照れても仕方がないのですっ。
「……そ、その……」
「ん?」
「…………ええと……こ、この借りは……いつか必ず返しますからっ」
「……」
……やや焦ってしまったせいか、言葉選びは失敗してしまったような気がしますが、言いたい事の雰囲気は、空気で察して下さいっ。
「……へぇ~乳姉妹ちゃん」
な、なんですか呂将軍? ……なんだか楽しそうなお顔ですが。
「オイラに何か返してくれるっすか? 何してくれるっす? ちょっと楽しみっすね~♪」
「え――えぇっ?」
そこでわざわざ真に受けてみせる辺り、やっぱりこの方は悪い男だと思いますっ。
「ねぇねぇ、何してくれるっす~?」
「そ、それは……そのうちにっ。か、帰りますっ」
「はいはい、お供するっすよ~」
「どうぞっ」
そっぽを向いて歩き出したわたしに続いた呂将軍は、少し笑ったようでした。
その声の優しさに顔を向けると、呂将軍はやはりにこにこと微笑み、わたしを見下ろしておられます。
「……呂将軍」
「なんっすか?」
……誰もが振り向く、その立派な御姿を眺めているうちに、尋ねたくなりました。
「……呂将軍も、若い頃無力感にうちひしがれた事があったんですか?」
「そりゃ~もう。だからこの通り、影のある良い男に成長したっすよ~?」
いつもと変わらない、明るくふざけたような呂将軍の声。
「……?」
……でも優しい笑顔がほんの少しだけ、寂しげに陰ったような気がしました。




