19 僕と妃と六弟⑦
残酷描写あり
第六皇子――六弟は、蹲ったまま無言で肩を震わせ、涙をこぼしていた。
「うぁぶ? あー、あー……」
「ああ、御妃様身を乗り出してはなりませぬ。水に落ちてしまいますよ」
「いいよ乳母殿。僕がだっこしよう。……おいで妃」
「うー」
何かを感じ取ったのだろうか。
僕は洞窟の高台に佇む彫像――母親の姿を模した女神像へと、しきりに手を伸ばしている妃を乳母殿から受け取ると、できるだけよく見える場所に近づき、像を見せてやる。
「……君は母上に、よく似ていたんだね妃……美しい女性だ」
「うぁー……まー……」
赤ん坊も一年半成長していると、将来の容姿を予想させる程度には、顔立ちがはっきりとしてくる。
そんな妃の顔貌には確かに、彫像のそれとよく似た、神々しい美貌の鱗片が在った。
一度も顔を合わせた事もないはずなのに、確かな繋がりを感じさせるなんて。……血の流れというのは、本当に不思議なものだ。
「……君の御父上……この国の前国王は、本当に君の母上を愛していたんだ。……君の母上が亡くなった時に、王妃の生前の姿を記憶に残すのは自分だけだと、城にあった彼女の絵姿や彫像を、全て破壊してしまうくらいにね」
……帝国の大軍が王都に迫っていると知りながら、ね。
為政者としては、もっと他にやるべき事が山ほどあっただろう、このバカが。と、大いに呆れてしまうのだけど……一国の王ともあろう者がたった一人の女に抱いた、自分の立場や責務を全て放棄してしまうほどの強い愛情と執着には、ほんの少しだけ羨望を覚える。
そんな激情を、僕は知らないから。
「それで、ここにしか君の母上の姿似は残っていなかったんだ。……すぐに国を侵略されて……処刑された前国王には、遠くにあるこの像を、始末する事はできなかった」
「うぁうー……」
もしかしたら、像を破壊しろという命令くらいは行ったかもしれないけど、どさくさで届かなかったか、邑人達が握りつぶしたのかもしれない。なにせ一見して彫像は、金目の物だ。ほとぼりが醒めた頃に西域の好事家にでも売り払えば、一財産になっただろう。
「……そういう欲望が、命取りになったのかもしれないけど」
「う?」
「なんでもないよ妃。……ああでも、飛刃が報告した通り、この像を持ち出すのは難しそうだなぁ……」
「そうっすよねー陛下? オイラ達もちょっと見て、すぐには無理だって思ったっすもん」
「ああ、そうだな飛刃」
「ぶぅ……」
妃、そして飛刃と一緒に像を見上げながら、僕はため息をつく。
洞窟の一部となっている巨大な素材不明の白石に直接刻み込んである彫像は、未だ白石と一体化しており、切り出さなければ外に持ち出すのは不可能だ。
見た感じ、よっぽど上手く切り出さなければ、彫像自体が壊れてしまいかねないだろうし……気長にやるしかないかな。できるなら妃のためにも、城に持って帰ってやりたいんだけど。
「……まぁうぅ……ぶぅう」
「……妃?」
ふと気が付くと、妃は僕の服をぎゅっと掴み、僕にくっついていた。
……心なしか、少し寂しそうに見える。
「……もう、いいかな?」
「あう」
動かない彫像を赤ちゃんが見つめても、よく判らなかったかもしれないな。……それでも、逢わせてやれたのはやっぱりよかった。
「飛刃、乳母殿。妃と兵士達を連れて、馬車に戻っていてくれ」
「え?」
「う、うーっ?」
「ごめんよ妃。僕はまだ、あそこで蹲っている六弟に用事があるんだ」
服を一生懸命掴む妃を可哀想に思うが、……ここからは他の者達には聞かれたくない。……意気消沈した弟が大丈夫か、一応確かめておきたいんだ。
「オイラが陛下のお側を離れるわけには、いかないんすけどね?」
「それは判る。……だが、命令だ飛刃。敵はいないし、毒虫や猛獣が潜んでいるようにも見えないし、大丈夫だろう?」
「……」
命令という形で権限と責任の所在をはっきりしてやると、飛刃はとても苦い顔をしながらも妃を受け取り、更に乳母殿へと渡して兵達に人払いを命じた。
「オイラはすぐ外にいるっすからね」
「わかった」
「うーっ、うぁーっ!」
「ごめんよ妃。すぐに戻るから、待っていてくれ」
「やーっ! いぁーっ!」
いやいやと首を振る妃だったが、乳母殿達に連れ出されて、洞窟の外へと出て行った。
……さてと。
「……」
六弟は動かず、そんな妃へと視線を向ける事もない。どうやら相当な衝撃だったらしい。
静かな洞窟に取り残された僕は、複雑な気分になりながらもそれを出さぬようにして、蹲る六弟へと声をかける。
「……大丈夫かい?」
「……はい」
意外にも、六弟は落ち着いた声でそう応えると、顔を上げて僕を見た。
涙跡が残る顔が見苦しくないのは、悲しみつつもどこかすっきりした表情と、柔らかく整った顔貌のせいだろう。優男は得だな。
「……五兄上、貴方は容赦のない方ですね。……十年以上、私はこの夢の中で幸せでしたのに……」
「そろそろ、一兄上のご迷惑になるような振る舞いは慎む年頃だろう、六弟? あの方を最も支えて差し上げられるのは、同腹の兄弟である君のはずだ」
「まっぴらごめんです。……一兄上は嫌いではありませんが、所詮あの男の出来の良い手駒だ」
「あの男って……皇上(皇帝)の事かい? 流石に不敬だよ六弟」
「敬ってなど、おりませんから」
浮かれた態度と口調が消えた六弟の言葉は、冷徹ですらあった。
僕は同意せず、沈黙でこの話題を拒否する。
「……はは。五兄上はそういう方だ。……ご自身の分を弁え用心深く、それでいて物静かな態度に、僅かな感情の不快を紛れ込ませる」
そんな僕を見た六弟は、薄く嗤うと彫像を見上げる。
「……愚かな私にはできませんでした。……だからこそ、私は彼女を失った悲しみを抑える事ができなかった」
「……それがこの美神にも、妃にも似た、『彼女』?」
「っ……ご存じでしたか?」
「予想はしていたよ」
こいつは色々と口走っていたし、部下も色々と言っていたからな。
こいつがいきなりまだ赤ん坊の妃に傾倒したのには、何か理由があるのだろうとは思っていた。
「……『彼女』は……後宮の片隅に在る、美しい女官でした。……私は私の世話をする一人だった優しい彼女の事が、大好きだった」
六弟の静かな声が、洞窟に響く。
「皇后に仕える末端の女官として、皇帝に存在すら知られず、大勢の女達に埋もれてひっそりと暮らしていた身分の低い彼女は……それでもとても美しかった。……元々は、西域から連れてこられた奴隷だったそうです。金髪碧眼の珍しい容姿に目をつけた帝国の有力者が、養女という事にして後宮に送り込んだのです。……あわよくば、を狙って」
あわよくば、皇帝の目に留まってか。……馬鹿馬鹿しい。
後宮の片隅に咲く可憐な花が、皇帝の寵愛を受けその一族は栄耀栄華を極める。……そんな絵物語のような幸運は、それこそ砂浜で砂金の一粒が見つかるような奇跡だ。
「五兄上、今馬鹿馬鹿しいと思われましたね?」
あ、ばれた。
「……ええ、馬鹿馬鹿しい、浅ましい下級貴族の野心でしたよ。……でもその野心さえなければ、彼女はまだ生きていたかもしれない」
「……何かがあったのは、君が後宮で暮らしていた頃かい?」
「ええ。皇宮には噂が届かなかったかもしれませんね。……あんなおぞましい女達の噂なんか」
……まさか。
「……殺されたのか?」
「ええ」
「何故?」
六弟の表情が、忌まわしげに歪む。
「彼女が、あの男に偶々見つかって、気まぐれに手を出されたからです」
「……父帝のお戯れなんて、いつもの事じゃ……」
「……皇后の、誕生日に」
「え……」
「必ず行くと皇后と約束した日に、気まぐれを起こしてもですが?」
「…………あー……」
それは――とてもとても、非常にまずい。
現皇后は非常に自尊心が高く、だからこそ正式な恋敵である妃達を理不尽に虐げたりはしないが――それ以下の、労働力や家畜程度にしか思ってない女官や婢に対しては、恐ろしく冷酷になる事があると、噂に聞いた。
「……皇后陛下が、皇上から一方的に約束を反故にされ……しかもその原因が、よりにもよって、自分に仕えていた末端の女官……それは、最悪だ」
「彼女のせいではありません!」
「そんな事は判っているよ六弟。……だが、おそらく後宮における最大の虎の尾を、憐れな女官は踏んでしまった」
どうなってしまったか……想像したくない。
「……彼女は皇后に命じられた宦官共に、惨たらしい方法で嬲り殺されました」
「……」
「しかもそれを皇后から報告されたあの男は――手を出した彼女に既に興味を失っていたんです!! 『ふん? そんな女がいたか? 戯れなど一々覚えておらんな』――あの男はそう言ったんですよ!!」
「……言いそうだ」
大国の為政者としては尊敬できる部分もある父帝だが、後宮の女達に対する冷淡さは、皇后以上だ。……皮肉でもなんでもなく、気まぐれに抱いた女官の事など興味も無く、皇后が処分したと聞いてもなんとも思わなかったのだろう。
……権力者達の犠牲となったその女官には、同情するしかない。
「……私も……助けられなかった」
「……六弟」
「助けたかったのに……状況をより悪くしてしまった!! 彼女の助命をする私を見た皇后は、怒りを増してしまったのです!! ――『我が君だけでなく、妾の大切な息子まで誑かしたのか』と――そういって皇后は私の目の前で……彼女の顔に焼き鏝を――!!」
「っ……もういい、やめろ六弟。それは幼かった君のせいじゃない」
六弟は掠れるような嗚咽を漏らし、再び涙をこぼした。
……皇后、怒り狂うのは勝手だが、母親としてそれはどうなんだ。母親の鬼畜行為なんか見たがる子供はいないぞ。
「……それから……熱い、水をという彼女の断末魔が……耳を離れなくなりました」
「……だから、雨か」
「そう……なのかもしれませんね」
「……」
雨を――救いを求めていたのは、彼女であり、まだ幼いこいつだったんだろう。
……逃げたくたって、逃げられない。どこをフラフラしていたって、こいつが隆武帝国皇帝と皇后の息子だという事実は変わらない。唯一の逃げ道があるとすれば、それは死しかない。
「……私は、皇帝と皇后が……あの残忍な権力者が嫌いです。……でも彼らの庇護から退かれる事も、死ぬ事もできないまま、心を癒すため美しいものを求めて逃避し続けてきた臆病な私自身の事は……もっと嫌いです」
そう重い胸中を吐き出し終えた六弟は、静かに涙を拭う。
「……彼女は私の事を、許してはくれないでしょう」
「……」
そうかもしれない。それでもそう六弟に言う気にはならず、僕は僅かに話題を逸らした。
「妃を『助けたかった』のは、その代償行為だったというわけかい?」
「……そうですね。……でもそれだけではありませんでした。……私は……幸せになりたかったんです。……彼女によく似たあの子が、政略の駒という立場から解き放たれ、私に愛され幸せになったら……私も幸せになれるような気がした」
「そうか」
同意はできなかったが、気持ちは判る気がした。
「……でも、余計なお世話でしたね」
「ん?」
「あの子は既に幸せでした。……貴方と愛し愛されているあの子は、例え政略結婚の結果だったにしろ、充分幸せそうでした。認められず、見苦しく抵抗してしまい申し訳ありません」
「……え?」
愛し愛され? ……そう見えるのか? 僕はまぁ、妃の事は大事に思っているけど、妃の方は、僕より乳母殿や乳姉妹ちゃんや飛刃や宰相の頭を、気に入っているような気がするんだけど?
……どうせ僕なんて、渾身のいないいないばぁで、泣かれる男さー……。
「どうかしましたか五兄上?」
「…………いや、別に?」
……まぁ、そう見えるならいいか。訂正するのは、なんだか切ない。
「……帝都に帰ります」
そんな僕の内心を当然知らない六弟は、なんだかすっきりした調子でそう言い、立ち上がる。
「五兄上にはご迷惑をおかけしました。……皇后、母に送った手紙を早急に訂正しなければなりません」
「あ、本当に送ってたんだ」
「本気で、あの子を手に入れる気でしたからね。……皇后の事は嫌いですが、使える力は使った方が効率的ですから」
……そういう所は、こいつもやっぱり、あの父帝の息子なんだと思う。
……あ、何してるんだ六弟?
「……薔薇の美神」
躊躇無く浅い水溜まりを歩いて渡り、六弟は彫像を見上げ囁く。
「……貴女は言っていたね。……故郷には、沢山の野薔薇が咲き、それは綺麗だったと。……貴女と一緒に……貴女の故郷で暮らしたい。……そんな愚かな夢を……ずっと見ていた……許してくれ……っ」
そして強く彫像が立つ土台に当たる白石に手をついた六弟は、贖罪の言葉を漏らしながら、何度も手を白石に打ち付けた。
……ん?
「愛していた……愛していたんだ! 幼い恋心でしかなかったのかもしれない! それでも私は……貴女の事をずっと愛していた! ……我が薔薇の女神! 我が愛! 我が美の化身!」
……おい?
どん、どん、どん、と白石に六弟の拳が打ち付けられるたび、なんかピキピキという音がするぞ?
……と、というよりむしろ……元々あったのか白石にヒビが入ってて……不安定に彫像が震えていて……。
「私はもう、誰も愛さないだろう! ――今気付いた!! 私の心は、貴女とともに死んだのだと!!」
バキ!! という音が、六弟が殴った白石から響いた。
「――っ?」
メキメキメキと、白石――そしてそこに掘り出されている彫像が震動した。
これは――これは!!
「おお我が薔薇の女神!!! 我が真実の愛を今貴女に――」
「――六弟危ない!!」
え? という不思議そうな六弟の声が聞こえた。
陛下!! という珍しく焦ったような飛刃の声も同時に聞こえた。
その声に跳ね押されるように、僕の身体が走り出し――気が付けば、崩れ落ちてくる彫像の真下にいた六弟を、渾身の力で突き飛ばしていたのだった。
……だめだろう、この短慮は。
そう思いながら僕は、落ちて来た白石の破片に激突し、意識を失った。
――どうしよう……妃。
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