16 僕と妃と六弟④
昔。
ざぁざぁ あははっ
ざぁざぁざぁ あはははっ
ざぁざぁざぁざぁ あはははははっ! ふれふれあめよ! もっとふれっ!!
第六皇子は、深夜降り注ぐ雨が好きだった。
皇后が、後宮の女達が麗しいと溺愛し、勝手に磨き上げた自分の全身に、容赦無く降り注ぎ濡らし汚す冷たい雨は、とても愉快だった。
―あめ、あめ、あぁ~めよ~……あの子にとどけぇ~―
大振りの雨の夜、慌てる召使い達を振り切って庭に飛び出し、踊り詠う。
そんな儀式めいた遊戯を夢見心地で、第六皇子は後宮から離れ、皇族男子達が住む皇宮へと移った後も続けていた。
―……あの子を……ひやせぇ……―
―……あのこは……きっととてもとても……あつかっただろうから―
眠っていながら雨音に起き出し、フラフラと彷徨う第六皇子は異様だったが、皇后を恐れ、誰にも止められない。
唯一止めようとした長兄も、弟の『事情』を知ると、苦悩の表情になって口を閉ざす。
そうして幼い少年の夢遊の病は酷くなる一方で、第六皇子は自分の世界に閉じこもり、深夜の雨と戯れて続けた。
―……もうなにも……みたくない……―
―……わすれてしまいたい……―
―……このよの……おそろしいもの……おぞましいもの……すべて……―
そんな第六皇子を。
―……なにをしているんだい、六弟?―
―……え?―
すぐ上の兄――第五皇子昂令がみつけたのは、偶々だった。
―六弟、こんな寒い夜雨にうたれるなんて。風邪をひいてしまうよ?―
―あ……あははははっ―
久しぶりにかけられた心配そうな声に、第六皇子は笑った。
―かぜっ! かぜっ! いいなぁ!―
―わたしがびょうきになったら、ははうえたちはかなしむっ―
―わたしをびょうきにしためしつかいたちは、み~んなくびをきられるっ―
―いいなぁっ! いいなぁ! ざまぁみろっ! あはははははっ!―
狂ったように大笑いする第六皇子を驚いたように見つめながら、昂令は静かに言葉を返した。
―……ほんとうに、病気になっていいのかい?―
淡々とした声は、哄笑している第六皇子の耳に、不思議とすんなり届いた。
―僕は嫌だな。痛くて、苦しいじゃないか。……死んでしまうかもしれない―
―……ねぇ六弟、君は自分が、殺してしまいたいくらい嫌いなのかい?―
意識しなかった問いに思わず答えられず、第六皇子は昂令を睨む。
昂令は小さくため息をつき弟に近寄ると、手を取り屋根の下へ戻れと引く。
―僕には君の事情は判らないけれど―
―……迷ったなら六弟、それは君は自分を見捨ててないって事じゃないのかな―
第六皇子は、やはり答えられなかった。
―っ……五兄様は、なぜこんなあめのよるに、こんなばしょに?―
それが妙に悔しくて関係無い事を問うと、それまで冷静だった昂令は、意外にも微かな狼狽を浮かべ、雨が降り注ぐ中庭を囲む壁の一方向を見上げると、小さな声で答えた。
―……琴の音が―
つられて耳を澄ませた第六皇子の耳にも、壁の向こう――後宮から、雅やかな楽の音が聞こえてくる。
―……母上の琴の音だ。美しいだろう?―
思わず漏れたような昂令の声に、気がつけば第六皇子も頷いていた。
後宮から漏れ聞こえる管絃の音は、美しかった。
皇帝の寵愛を得るため、醜い女達が争い奏でるものでしかないと判っていてなお、優美に響くそれは、聞く者の心を掴み安らがせた。
―……美しいものは好きだ。慰められるから―
一人言のようにそう呟いた昂令は、それきり屋根の下で、じっと耳を澄ます。
―……そう、ですね―
やがてその呟きにもう一度頷いた第六皇子も、昂令と同じように屋根の下に留まり、楽の音色に耳を済ましていた。
―……美しい存在は……かのじょは……わたしをなぐさめてくれた……―
「――……懐かしぃ~い夢をみまぁし~た。……ああ、あの頃の五兄様は、俗世離れした繊細な感性をお持ちの、ワタクシと響き合ぁ~う風流人であられましたのぉ~に~……」
――全力で否定したいフザケた妄言を力無く吐きながら、朝日を浴びて第六皇子が城の二階窓辺にもたれかかっている。
見目麗しい優男は、姿だけ見ればきゃーきゃー言う女達だらけになりそうだったが、城の女官達はあいつに近寄るどころか、姿を見ると極自然に視線を逸らし、避けて通る。――変態だからだ。
「あーう?」
「しっ、御妃様っ。見ちゃいけませんっ」
妃を抱いた乳母殿などは、その丸い身体で覆うように妃を隠しながら、全力で遠ざかる。――妃が変態の標的だからだ。
「おぉ~!! 我が薔薇の美神よ!! ワタクシは真実の愛にかぁけてっ! 必ず貴女様を、政略の悲運から解き放ってさぁしあげますからぁねぇ~っ!!」
「へ、へぇんた? へんたぁあい?」
「うんうん。変態で合ってるけど本当の事は言っちゃいけないよ妃。はい乳母殿、行った行った」
「御意。それでは、失礼いたします陛下」
現在、生後一歳六ヶ月の幼児に求婚した変態に居座られている僕の城では、住人ほぼ全員参加の、『幼児を変態の悪影響から守ろう活動』を実施中だ。
「――はっ!! 五兄様!! 我が薔薇の美神をどぉこに連れていくのでぇ~すか~!!」
「妃は、乳姉妹や乳母達と共にお散歩の時間です。赤ん坊には赤ん坊の付き合いがあるのです。部外者はご遠慮願います」
「ああ!! 我ぁが真実の愛を貴女様にぃ~!!」
「はい、御妃様。バイバイしましょうね~ばいば~い」
「ばぅいば~いっ! ばぁ~いっ! へんたぁ~ぃっ!」
万一変態に影響されて言動なんかを真似し出したら、妃の将来が心配だからね。ここはしっかりガードしておく。
妃を見つけ下に駆け下りてきた変態を僕が防ぎつつ、乳母殿には妃を抱えて、その場から逃げてもらった。よしよし。
「ぐぬぬっ!! あくまで我が愛を阻みますか五兄様!!」
「はっきり言わせていただきます第六皇子殿下。あの子に恋だ愛だは、まだまだ十四、五年は早い!」
「なぁんと無粋な事を!! 愛に年齢は時間は関係あぁりませぇ~ん!!」
「乳幼児の健全育成に、爛れた欲情は不必要です!!」
交渉決裂した以上、この件に関して遠慮は無用。
頭の中が花畑を刈り取るように、変態の戯言は全て却下してやる。
「五兄様に指図される筋合いはない!! 我が女神を政略の駒としか見ない貴方などに!!」
「そのような事は――」
「皇族の権力を利用してでも、私は貴方から我が薔薇の美神を解放するのでぇ~す!! ――皇后陛下にはもうお手紙しまぁした!!」
「っ……どうぞ、ご随意に」
……皇后の権力ずくで、と言われれば怖くないはずはない。
でも今まで仕事で信頼に応えてくれた宰相が、大丈夫だと請け負ってくれたんだ。……宰相! 君の言葉は、育毛情報以外は信用するぞ!
「それでは、私はこれより午前の政務ですのでこれで。第六皇子殿下はどうぞごゆっくり、来賓棟にてお過ごし下さいませ。外出なさるならば、お供をお忘れなく」
国王夫妻居住棟には入ってくるなよ、と言外に込めて慇懃無礼に申し上げてやれば、さすがに伝わったのか、第六皇子はムッとした表情で僕を睨み付け、部屋に戻って行った。
……さてと、仕事仕事。
「――飛刃、女官達に第六皇子の旅行道程は確認させたか?」
「ばっちりっす陛下。――ええと、バカが詩作に耽ってたとかで結構寄り道してて、一般の交易商達が通る道からは、かなり外れた行路で入国したみたいっすね。――ほら、入国一日目の宿とか、殆ど廃村っすよ。人いたみたいっすけど」
「ふぅん……この国に来て、城に着くまでに寝泊まりしたのが二晩。……こことここ……か。……確かに小さそうな村だな。……なるほどなるほど。……一日目夜は雨……」
「オアシス都市って、とことん乾燥してるようで、案外雨が降るんっすよね」
僕は日常政務をこなす一方、女官達を使って、第六皇子側近達から収拾させた情報も、地図を広げて確かめる。
「陛下、一体何が気になってるっすか?」
「ちょっとな。……なぁ飛刃、お前第六皇子の子供の頃の癖を知ってたか?」
「癖っすか? いや、おいらが皇宮に来た時は特に何も聞いて無いっすねぇ?」
「……実はな、あいつ子供の頃雨の夜に、寝たままフラフラ部屋を出たりする事があったんだ」
「ああ、寝ぼけてっすか?」
「まぁ、そうだな。医者は、夢遊の病って言ってた」
「ふぅん。で、それがどうしたっすか陛下?」
「うーん……どうかしたかもしれないし、しなかったかもしれない」
「……?」
色々な情報があると、それだけ様々な仮説が湧き上がるんだよな。
……やっぱり、確かめてみるしかないか。
「――トルキア王国国王付近衛武官長、呂飛刃将軍」
「――はい。御前に、我君」
改まって呼ぶと、気付いた飛刃も改まり、恭しく一礼した。
僕は身につけている首飾りを一つ外し、飛刃へと差し出す。
金製のそれは、隆武帝国、そしてこのトルキア王国王室二つの印章が彫り込まれた、属国王の権威の証しだ。
「我が命令下において、トルキア国王代理の王権行使を許す。隊を編成し、『第六皇子が宿泊した一日目の宿』を調査せよ」
これでいい。――僕の気になった事がもし現実だったなら、飛刃ならきっと、僕が見つけたかった『証拠』を見つけるだろう。
「御心のままに、国王陛下。御命令、しかと承りました」
儀礼通り金印を受け取った飛刃は、だがいつも通り不敵な笑みを浮かべ、不敬にもひょいと顔を上げる。
「まぁ、オイラに任せてくれっす陛下。麗しき御妃様のため、がんばるっすよ」
……ふん。お前が昔よく老師に書かされた、心のこもってない反省文以外は、信用しているぞ飛刃。
こうして、軽はずみには動けない僕の代わりに、飛刃は編成した調査隊を率いて東からの行路を辿って行った。
「うぁーう? ひじー? ひじぃ?」
「飛刃かい? 飛刃はね、お仕事だよ妃」
いつも僕の政務が終わると遊んでくれる飛刃がいないのが不思議なのか、妃は首を捻って僕を見上げた。
「飛刃はね、麗しき御妃様のために、がんばってくるってさ。誰の事だろうね~?」
「だーぅ?」
「あははは。……まったくもう。……薔薇の美神だの麗しき御妃様だの、……知らない人が聞いたら、どんな傾国の美女を僕が妃にしてるんだって思うよね?」
「だうだうっ。ぶっ」
「しかも、齢一歳半にして夫以外の求婚者、とか。――妃、君噂に尾ひれ背びれ付いて広まる遠方では、妲己や妺喜、褒姒並みの絶世の美悪女扱いされるかもしれないぞ~?」
「あうじょー? あうじょーっ。あうあぅっ」
「こらこら、ノリノリになっちゃいけません。悪女は魅力的だけど、おっかないから僕は遠慮したいんだぞ?」
「あぅじょーっ」
「……しまった。また変な言葉を覚えちゃったよこの子」
しかもなんだか嬉しそうに胸を張る妃を抱っこして、僕は中庭に出る。相変わらずオアシスの夜は寒いが、空は綺麗だ。
飛刃はのんびりした旅人達と違い、訓練された軍用馬で高速移動しているから、一晩で目的地には到着するはず。
「……僕の予測通りなら……いや、あいつならうまくやるはずだ」
「うあぶー?」
「大丈夫だよ妃。……もうすぐ、安心して暮らせるようになるからね?」
「うぁいっ」
「はい、よくお返事できましたっと」
全く不安を感じないと言えば嘘になるが、命令した以上その迷いを外に見せてはいけない。……でもやっぱり不安だから、僕は腕に少しだけ力を込めて、妃を抱きしめた。
うん、あったかい。
「うぶぁーっ。あぶーっ♪」
「あいたたたっ。丁度良い所にあったからって、髪ひっぱらないでよ妃~」
こうして妃と一緒に少しだけ不安な時を過ごした僕の元に、飛刃が報告を持って帰ってきたのは、それから三日ほど経った後の事だった。
「陛下ーっ! 陛下の読み、ばっちり当たってたっすよーっ」
「そうかっ、でかしたぞ飛刃っ」
「兵士達に命じて、『現場保存』してるっすよ」
よーし……それじゃあ、そろそろケリをつけさせてもらおうかっ。




