第6話 王子の嫉妬
かつてその男は、王宮の書類決裁の三割を一人で担っていたという都市伝説がある。
「アデライード様! 大変です!」
公爵邸の図書室で優雅に読書を楽しんでいた私のもとに、情報収集役のメイドが飛び込んできた。
血相を変えている。
「落ち着きなさい。何事?」
「王太子殿下の側近たちが……リアム様に『追加業務』を命じたそうです!」
私は本を閉じた。
パタン、という乾いた音が室内に響く。
「内容は?」
「北方魔獣討伐の兵站管理、および過去五年分の財務監査資料の作成……。期限は『明日まで』と」
私は眉をひそめた。
それは通常、専門の部署がチームを組んで一ヶ月かけて行う分量だ。
それをたった一人に、しかも一日で?
「……呆れた。嫉妬に狂った男ほど見苦しいものはないわね」
王太子アルフレッド殿下とその取り巻きたちは、最近のリアム人気が面白くないのだ。
舞踏会で恥をかかされ、ブロマイドの売上で負け、聖女にも「あの方素敵」と浮気されかけた。
その鬱憤を、陰湿なパワハラで晴らそうというわけだ。
「失敗すれば『無能』と罵り、処分を下す口実にするつもりね」
許せない。
私の推しに、理不尽な残業を強いるなんて。
労働基準法のないこの世界でも、私の「推し活ルール」には違反している。
「馬車を用意して。宰相府へ行くわ」
「えっ、今からですか? でももう夕刻です」
「だからこそよ。差し入れを持って、彼を救出しに行くの」
私は立ち上がった。
待ってて、リアム。
貴方を過労死なんてさせない。私が権力でねじ伏せてでも休ませてみせる。
***
宰相府の執務室前。
廊下には、すでに嫌な予感が漂っていた。
王太子の側近である騎士団長の息子と、数人の取り巻きたちが、ニヤニヤしながらドアの隙間を覗いている。
「おい見ろよ、あの書類の山」
「明日の朝には泣きついてくるだろうさ」
「身の程知らずの文官風情が、いい気味だ」
低俗な笑い声。
私は扇子を強く握りしめ、彼らの背後に立った。
「あら、皆様。随分と楽しそうですわね?」
「うわっ!?」
彼らがカエルのように飛び上がって振り返る。
私の氷のような微笑みを見て、顔を引きつらせた。
「ア、アデライード嬢……なぜここに」
「私の補佐役が不当な扱いを受けていると聞きまして。……そこをどいてくださる?」
私は彼らを押しのけ、執務室のドアをノックもせずに開け放った。
「リアム! 今すぐ仕事なんて放棄して……」
叫びかけた言葉は、喉の奥で止まった。
そこにあったのは、予想していた「悲壮な光景」ではなかった。
「……あ、アデライード様?」
部屋の中央。
リアムがデスクに向かっていた。
彼の周囲には、床から天井まで届きそうな書類の塔が四本、聳え立っている。
物理的に埋もれている。
けれど、彼の周りだけ、重力が異なっていた。
シュババババババッ!
信じられない音が響いている。
彼の右手にはペン。左手にもペン。
さらに、宙に浮いた三本のペンが、魔力で制御されて自律的に動いている。
(……は?)
五本のペンが、それぞれ別の書類に猛烈な速度で走る。
彼の瞳は、右の書類を見ながら左の書類の内容を把握し、さらに手元の計算を行っているように高速で動いていた。
眼鏡のレンズが、青白い魔力の光を反射して怪しく輝く。
「あ、少々お待ちください。あと三枚で終わりますので」
彼は私を一瞥もせず、淡々と言った。
「あと……三枚?」
私は書類の塔を見上げた。
これ全部が「処理済み」なの?
「検証完了。承認。却下。再計算一致。……はい、終了」
最後のペンが止まると同時に、宙に浮いていたペンたちが整然とペン立てに戻った。
リアムがふぅ、と息を吐いて眼鏡の位置を直す。
壁の時計が鳴った。
ボーン、ボーン、ボーン……。
午後五時。
定時だ。
「……計算通りですね」
彼は満足げに頷き、立ち上がった。
そして、唖然とする私と、廊下で固まっている側近たちの方へ向かってくる。
「な、な、な……」
側近の一人が、震える指で書類の山を指差した。
「ば、馬鹿な! これだけの量を、半日で終わらせただと!?」
「適当に書いたに決まっている! デタラメだ!」
彼らが書類に飛びつき、中身を確認し始める。
私も一冊、手に取って見た。
(……綺麗)
美しい筆跡。
一分の隙もない計算。
兵站の物流予測には、天候不順による遅延リスクまで備考で添えられている。
完璧だ。
いや、完璧以上だ。
「ど、どうなっているんだ……」
「この計算式、魔導士団でも一週間かかるはずじゃ……」
側近たちの顔色が、青から白へ、そして透明になりそうなほど血の気が引いていく。
無理難題を押し付けたはずが、相手の異常な有能さを証明する結果になってしまったのだから。
リアムは上着を羽織り、私の隣に立った。
いつもの涼しい顔で、彼らを見下ろす。
「ご心配には及びません。業務効率化のため、独自の並列思考術式を展開しました。……ああ、それと」
彼は側近の一人が持っていた書類を指差した。
「その財務監査ですが、三年前の第三四半期、王太子殿下の交際費に不自然な使途不明金が紛れていましたよ。一応、赤ペンで修正しておきましたので、後ほどご説明をお願いします」
「ヒッ……!」
側近が書類を取り落とした。
やぶ蛇だ。
嫌がらせのために過去の書類を掘り起こさせたら、自分たちの主人の不正が見つかってしまったらしい。
傑作すぎる。
「さて、アデライード様」
リアムが私に向き直り、優しく微笑んだ。
仕事モードの冷徹さから一転、とろけるような甘い表情。
「迎えに来てくださったのですか?」
「え、ええ。……貴方が無理をしていないか心配で」
「ふふ、貴女が待っていると思えば、どんな仕事も苦ではありませんよ。……それに」
彼は私の耳元に顔を寄せ、悪戯っぽく囁いた。
「残業して、貴女との夕食に遅れるなんて、それこそ万死に値しますから」
(っっっ……!!)
至近距離でのウィスパーボイス。
しかも「私との時間」を「仕事」より優先したという事実。
私の心臓はキャパシティオーバーで爆発寸前だ。
「い、行きましょう! レストランを予約してありますの!」
私は顔が赤くなるのを隠すように、彼の手を取って歩き出した。
側近たちが「ま、待て! この不正の記録はどうすれば!」と叫んでいるが、知ったことではない。
「ご自身で処理なさい。彼はもう定時ですので」
私は背中越しに言い捨て、廊下をカツカツと歩く。
リアムが私の半歩後ろを、誇らしげについてくる。
廊下ですれ違う職員たちが、伝説を目撃したかのように道を開けた。
明日からまた、彼の武勇伝(とブロマイドの売上)が増えることだろう。
「……ところでリアム、さっきの浮遊するペン、格好良かったわ」
「おや、そうですか? 腱鞘炎防止のために開発した横着魔法なのですが」
「横着? あれが? ……貴方、やっぱり規格外ね」
馬車に乗り込みながら、私は幸せな溜息をついた。
有能な男が、自分のためだけに力を振るい、そして自分のもとへ帰ってくる。
これ以上のカタルシスがあるだろうか。
ざまぁみろ、殿下。
貴方が手放した(というか気づきもしなかった)人材は、貴方の想像を遥かに超える怪物よ。
夜の王都を走る馬車の中で、私は推しの手をこっそりと握りしめた。
彼もまた、優しく握り返してくれた。




