第2話 契約と眼鏡オフ
「……正気ですか? 公爵令嬢が、私のようなしがない文官を?」
公爵邸のサンルーム。
最高級の茶葉の香りが漂う中、リアム様が困惑の色を隠さずにそう言った。
私は優雅に紅茶のカップを置く。
カチャリ、とソーサーが立てる小さな音が、静寂に響いた。
「ええ、大真面目ですわ。リアム・フォン・ベルン男爵令息」
私は手元の書類をテーブルに広げた。
そこには、彼に関する詳細な調査報告書が記されている。
「ベルン男爵家は領地の不作により困窮。現在、王都の商会に多額の借金がある。貴方はその返済のために、宰相府で薄給のまま馬車馬のように働いている……違いますか?」
リアム様の眉が、ピクリと動く。
眼鏡の奥の瞳が、少しだけ鋭さを増した気がした。
「……よくご存じですね。一介の文官の懐事情まで」
「欲しいもののことは、徹底的に調べる主義ですの」
私は扇子を開き、口元を隠して微笑んだ。
悪役令嬢らしい、不敵な笑みを意識して。
数日前の「発見」以来、私は公爵家の情報網をフル稼働させた。
彼がどれほど優秀で、どれほど不当に扱われているかを知るたびに、私の「推し活」の炎は燃え上がるばかりだった。
今の彼は、ブラック企業で使い潰される社畜だ。
才能の無駄遣いにも程がある。
「単刀直入に申し上げます。私の専属補佐になりなさい」
「……専属補佐、ですか?」
「ええ。表向きは私の公務の補佐役。給金は現在の三倍。さらに、ご実家の借金は私が全額肩代わりします」
破格の条件だ。
普通の下級貴族なら、飛びついて感謝の涙を流すレベルだろう。
しかし、リアム様は動じなかった。
むしろ、警戒心を強めたように背筋を正す。
「過分なご提案ですが……お断りします」
「あら、なぜ?」
「私は、目立つのが嫌いなのです。公爵家に関われば、平穏な生活は送れません」
彼の答えは想定内だった。
調査報告書にも「極度の目立ちたがり屋嫌い」「功績を他人に譲る癖がある」とあった。
彼は、自分の能力を隠したがっている。
なぜかは分からないけれど、その奥ゆかしさもまた尊い。
でも、ここで引くわけにはいかない。
「平穏? 今の生活が平穏だと言うのですか?」
私は身を乗り出した。
「毎日の残業、上司からの理不尽な叱責、成果を横取りされる日々。それが貴方の望む平穏?」
「それは……」
「才能ある者が、その能力を発揮できずに埋もれていく。私、それが一番許せないのです」
少し、熱くなりすぎたかもしれない。
オタクとしての熱意が漏れてしまった。
私は深呼吸をして、声を落ち着ける。
「それに、貴方には選択肢がありませんわ」
「……どういう意味でしょう」
私は懐から一枚の紙を取り出した。
それは、彼の実家が借金をしている商会からの「債権譲渡通知書」だ。
「貴方の借金の債権者、実は昨日付けで私になりましたの」
リアム様が、初めて目を見開いた。
口元が引きつるのが見える。
「なっ……いつの間に」
「お金の力とは偉大なものですわ。さて、リアム様。借金の一括返済を求められたら、ご実家はどうなるかしら?」
脅迫だ。
完全に悪役令嬢のやり方だ。
でも、推しを救うためなら、私は喜んで悪魔にでもなろう。
リアム様はしばらく黙り込み、そして深いため息をついた。
観念したようだ。
その、憂いを帯びた表情さえも美しい。
「……分かりました。貴女の補佐をお引き受けします」
「賢明なご判断ですわ」
「ただし、一つ条件があります。私の生活リズムを乱さないこと。そして、あまり派手に連れ回さないこと」
「善処しますわ。……では、契約成立の証に」
私は立ち上がり、彼の正面へと回り込んだ。
彼は椅子に座ったまま、私を見上げている。
至近距離。
眼鏡越しでも分かる、肌のきめ細かさ。
整った顔立ち。
ああ、心臓が痛い。
「眼鏡を、お外しになって?」
「……は?」
「これからは私の顔として働いていただくのです。身だしなみのチェックは必要でしょう?」
もっともらしい理由をつけたが、本音はただ一つ。
素顔が見たい。
あの回廊で一瞬だけ見えた、宝石のような瞳を直視したい。
リアム様は渋々といった様子で、手を顔に持っていった。
「……私の素顔など、見ても面白くありませんよ」
「それは私が判断します」
彼がゆっくりと、黒縁の眼鏡を外す。
その動作だけで、世界が変わるような気がした。
かけられていた「認識阻害」のような靄が晴れ、真実の姿が露わになる。
眼鏡が外された瞬間。
「…………っ!」
息が止まった。
そこにあったのは、美の暴力だった。
切れ長の瞳は、吸い込まれそうなほど深いアメジスト色。
長い睫毛が憂いを帯びた影を落とし、鼻筋は彫刻のように完璧。
眼鏡で隠れていたせいで気づかなかったが、左目の下にある小さな泣き黒子が、反則的な色気を放っている。
(尊い……無理……しんどい……)
脳内の語彙力が消滅した。
前世の記憶にある乙女ゲームのスチルなんて目じゃない。
生きた芸術品が、ここにいる。
「アデライード様?」
彼が不思議そうに私の顔を覗き込む。
その瞳に、私の間抜けな顔が映っているはずだ。
「……美し、すぎ、ます……」
私はうわ言のように呟いた。
視界が揺れる。
血流が一気に頭に上り、そして急激に下がっていく感覚。
あまりの供給過多に、脳の処理が追いつかない。
「えっ、ちょっ、アデライード様!?」
リアム様の慌てた声が聞こえる。
彼が椅子から立ち上がり、私を支えようと手を伸ばしてくるのが見えた。
その手が触れる瞬間、私は幸福感の中で意識を手放した。
推しの腕の中で気絶するなんて、オタクとして本望だわ……。
薄れゆく意識の中で、私は確かにそう思った。
***
「……どういうことだ、これは」
意識を失った公爵令嬢を抱き留めながら、リアムは呆然と呟いた。
彼女は「美しい」と言って倒れた。
自分の素顔を見て。
(この眼鏡の認識阻害効果は、公爵令嬢クラスの魔力でも完全には無効化できないはずだが……)
リアムは手の中にある眼鏡を見つめた。
彼が隠しているのは、単なる顔立ちだけではない。
膨大すぎる魔力と、それ故の特異性。
それを彼女は、魔道具の効果ごと「美貌」として認識したのか。
それとも、彼女の目が特別なのか。
「……借金の件といい、油断ならない方だ」
腕の中のアデライードは、幸せそうな顔で眠っている。
先ほどまでの高圧的な態度はどこへやら、無防備そのものだ。
リアムは小さく溜息をつき、彼女をそっとソファへと運んだ。
厄介な主に捕まってしまった。
平穏な日々は、もう戻ってこないかもしれない。
けれど、彼女に抱きとめられた瞬間、彼の中で何かが微かに揺らいだことも、また事実だった。
「……契約は契約だ。精一杯、働かせていただきますよ。ご主人様」
彼は静かに眼鏡をかけ直し、再び「地味な文官」の仮面を被った。
その口元に、微かな苦笑を浮かべて。




