パラレル・アップデート 〜別世界の自分の記録をなぞったら、俺自身が消去され始めた〜
23時50分。
アパートの一室に響くのは、壁一枚隔てた隣人の無遠慮ないびきと、空調の低いうなりだけだった。
宮代直樹は、いわゆる「報われない」側の男だ。
29歳、広告代理店の営業職。と言えば聞こえはいいが、現実は厳しい。
「宮代、まだノルマ届いてねえのか?お前、やる気あるの?」
上司に皆の前で公開処刑されるのは恒例行事。
努力はしているつもりだ。だが、どれだけ足を棒にして走り回っても、ライバル大手企業のネームバリューの前に門前払い。ようやく話を聞いて貰えたと思っても、最後には「君、真面目でいい人なんだけど……ごめんね」という断り文句と共に断られる。その繰り返し。
そんな屈辱に耐えて得ることが出来る報酬は、手取りで17万円ほど。ボーナスで大きく年収が変わる会社だが、その金額を決定する基準は営業成績のみ。つまり、直樹にとっては期待するだけ無駄なもの。
毎月の家賃と光熱費を払い、そこから奨学金の返済を済ませたら、自由にできるお金はほとんど残らない。
ランチは激安スーパーに売っている一番安い弁当。同僚たちが「今日、あそこのランチ行こうぜ」と談笑しながら外へ出るのを横目に、自席でスマートフォンの画面を眺めるのが日課だった。
預金残高は12万円と少し。
これが社会に出てから積み上げた人生の総量だと思うと、乾いた笑いが出る。将来の展望なんて、どこにもない。
結婚?マイホーム?冗談はやめてくれ。
自分一人が食べていくので精一杯の男が、そんな夢を見ること自体、不相応な贅沢に思えた。
「……いつまで、こんな生活が続くんだよ」
いつも夜遅くに帰宅し、薄暗い部屋で一人、天井を仰ぐ。
明日の仕事も、どうせ頭を下げて終わるだけだ。
ベッドに潜り込んでも、脳裏をよぎるのは仕事のミスと、来月の支払日のこと。
そんなことを考えているうちに午前0時をまわる。
その時だった。
充電器に接続したままのスマートフォンが、枕元で短く振動した。どうせ大した通知じゃない。そう思いながらも手を伸ばす。
暗い部屋の中で、スマートフォンの画面がまぶしく発光した。そこに表示されていたのは、心当たりのないシステム通知だった。
[データ同期開始:外部接続元 - β]
データ同期なんて操作した心当たりは無い。勝手に同期なんて始めないでくれ。そう思った直樹は、睡魔でまどろむ目でそのまま通知をタップした。そこに表示されたのは、見慣れない不気味なシステムメッセージだ。
[PARALLEL UPDATE – Synchronization Start]
[同期先:ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・デルタ]
[同期元:ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・ベータ]
[同期内容:個人データ、金融情報、行動情報]
「パラレル……アップデート……?」
意味不明で怪しい通知であることは確か。だが、たしかに自分の名前が記されているそれを、直樹は無視することは出来なかった。思わず「続行」と書かれたボタンをタップする。
[続行確認。インストールを開始します]
は?インストール?おいおい、意図せず勝手にインストールされているアプリなんて大抵ロクなもんじゃない。それくらいの知識はある。
だが、インストール完了の通知と同時にアプリは自動的に起動されてしまった。
そんなふざけたアプリの名前は『Beta Log』。そしてスマートフォンの画面上に映し出されたのは、まるで意味の分からない文字の羅列だった。
[ようこそ、あなたの『Beta Log』へ]
[私たちは、あなたの人生をより輝かせるためのパートナーです。別世界のあなた(β世界)が到達した『成功の軌跡』を、現在のあなたに最適化して提供します]
[目標設定:資産10億円以上の達成。社会的地位の獲得]
[準備はよろしいですか?]
「なんだこれ……?」
思わずそう口に出してしまう。どう考えても怪しい。そう思っていた直樹だったが、画面上の「10億円以上の達成」という甘い誘惑には正直惹かれてしまう。次に示されたのは、目を疑うような内容だった。
明日発表される、大規模な企業合併の情報。そしてその結果、急騰する銘柄の株価と売買シミュレーション、その最適なタイミング。他にも、誰もが知るような大企業との大型契約を取るための営業戦略や、それを可能にするシチュエーション。それらすべてが詳細なタイムスタンプ付きで記録されているのだ。
何よりも理解を超えていたのが、全ての行動に「記録対象:宮代直樹」と、自分の名前が記されていた点だ。
直樹はゴクリと唾を飲み込んだ。紛れもなく自分を指している。詐欺の類いにしては、いくらなんでも詳細すぎる内容。だが、すべて身に覚えのない出来事だ。しかも、未来の出来事ばかりが記されている。
もしかしてこれは、彼の知る「宮代直樹」ではないのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。
さっきアプリを起動した際に表示された「別世界のあなた」という言葉から、一つの仮定。この行動記録は、別世界線の──アプリの言葉にならうならβ世界に存在する「宮代直樹」の行動記録だとでも言うのだろうか。
もしそうだとするならば……。
当然、この記録に書かれていることがデタラメだと切り捨てるのは簡単だ。だが、あまりにも詳細なこの記録内容に、直樹の心臓は、静かに、しかし熱を帯びて高鳴っていた。
どうせこのままの生活を続けても大した人生になどなりはしない。これが人生を変えられる最後のチャンスかもしれない。
もちろん、失敗すれば来月の家賃すら払えなくなる。だが、今の泥水をすするような生活を続けて、一体何が手に入るというのか。
俺もいよいよ頭がおかしくなっちまったかな。
やっぱりやめておくべきなんじゃないか。
いや、どうせ詰んでる人生だ、試す価値はある。
そんな葛藤を幾度も繰り返しながら、直樹は眠れない夜を過ごしていく。いま目の前にある情報が、彼の平凡な人生を最高の状態へと『アップデート』するための、完璧な「攻略本」だと信じるべきか否か。
そして直樹は、覚悟を決めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『Beta Log』を手にした日の翌朝。
直樹は震える指先で、証券口座を開いていた。そして『信用取引』の申請ボタンをタップした。
手持ちの資金を担保に、約3倍の金額を動かす。失敗すれば、借金すら背負いかねない。文字通り、人生を賭けた勝負。
これが、一晩考えた末に出した、直樹の結論だった。
心臓の鼓動が耳元でうるさく響く。仕事中も、スマホの通知が気になってまともに手がつかなかった。
「おい宮代、また手が止まってるぞ! さっさとリスト回せよ!」
上司の罵声が飛ぶ。いつもなら胃がキリキリ痛む場面だが、今の直樹の頭の中は株価のチャートで一杯だった。
(黙ってろ。今に見てろよ……)
心のどこかで、今までにない反骨心が芽生え始めていた。
そして、午後。
運命のニュースがスマートフォンの通知を揺らした。
『【速報】ナノ・フロンティア社、企業合併を電撃発表。合併するのは──』
その瞬間、画面上のチャートが垂直に跳ね上がり、やがて止まった。いわゆる「ストップ高」だ。一日あたりの上昇上限に到達したのだ。
「マジかよ……。本当に、ログの通りだ」
直樹はトイレの個室に駆け込み、証券アプリの画面を凝視した。あの一瞬だけで12万円が19万円に増えている。
数分前まで「明日の飯代」を気にしていた自分が、今の一瞬だけで7万を稼いでしまった。
もし、あの『Beta Log』にある情報の全てが本物だとしたら。もし、こんな取引を何度も繰り返せるとしたら。想像するだけで興奮が収まらない。
だが、驚くのはまだ早かった。その後も二日目、三日目と、株価は最高値を更新し続けていった。
「……おいおい、嘘だろ」
仕事中、トイレの個室に駆け込み、証券アプリの画面を更新する直樹は、一人呟いていた。
前日比プラス20%、さらに翌日もプラス20%……。
複利とレバレッジの暴力が、12万円という端金を、数十万円、そして百万円という塊へと変えていく。このままいけば、たった数日で年収を優に超える金額を手にしてしまう勢い。
その事実に、脳を焼くような強烈な快感が駆け巡る。これまでの惨めな人生が、たった一つの「情報」で書き換えられていく。
とその時、スマートフォンからピロンと明るい通知音が鳴り響いた。
[素晴らしい判断です! 資産の増幅を確認しました]
[現在、あなたの人生は「理想のタイムライン」と8%同期しています。この調子で、最高の自分を目指しましょう]
別にアプリに親近感が湧いた訳ではないが、ここまで褒められて悪い気はしない。というか、まだこれで8%なのかよ?俺の人生、どこまで成功の道を歩んでいくんだ……?
そんな想像をしながら、直樹の心臓は再び熱を帯びて高鳴っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その後も直樹は『Beta Log』を使って大きな取引を繰り返し、一週間も経つ頃には既に資産は300万円に到達していた。
あの日、初めて『Beta Log』が起動してから、アプリの画面には常にこう表示されている。
[次の情報をお待ちください]
[次回のアップデートは14時間52分後です]
[アップデート間隔 - 72時間ごと(0時更新)]
この表示の通り、三日置き、かつ日が変わるタイミングで『Beta Log』には新たな記録が追加され続けていた。その中には仕事に関するログも含まれていた。
この1週間で株取引の成功を繰り返すことで自信を得た直樹は、この情報も参考にすることにした。
結果は、圧倒的だった。
直樹が勤める広告代理店で、誰もが「絶対無理だ」と諦めていた超大手飲料メーカーのコンペ。その「正解」となる企画書の内容と、担当者が最も喜ぶ接待の場所、そしてライバル会社の致命的なミスの内容。こんなの、失敗する方が難しい。
[New Achievement!]
[年収1,000万円相当のスキルをアンロックしました]
また何か表示されている。要するに今の行動を続けていけば年収1,000万円に到達できる。こんなにも簡単に。最高の人生はきっともう、手の届く所にある。
これまでの成功体験は、彼の平凡な日常を急速に塗り替えてく。彼は、望むことを全て叶えることが可能だという全能感に満たされていった。
もう直樹の瞳からは、かつての弱々しさは消えている。
彼は『Beta Log』に書かれていることが、これまでの単調だった人生を一気に覆す確固たる情報であると確信していた。
自分の人生を「アップデート」する。
それも、最高の人生に。
平凡な”俺”は、最高の”俺”になる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれから月日が経ち、今晩が新たな記録が追加される日だ。直樹は自室で最新の資産状況を確認しながら更新時間である深夜0時になるのを待っていた。
そして深夜0時。アプリの画面が突然、いつもとは違う表示に変わった。
[最終アップデートのご案内]
[おめでとうございます! 全ての条件が整いました。72時間後、あなたとUniverse-Betaの「完全な統合」が実行されます]
[統合後は、もう迷うことも、将来を不安に思うこともありません。あなたは「完成された存在」として、永遠の成功を享受することになります]
[最終アップデート実行まで:残り71時間59分]
直樹は目を疑ったが、見間違いなどではない。『最終』と書いてあるのだ。つまりこの『Beta Log』を利用できるのは残り72時間しか無いということ。
直樹は焦燥感に駆られた。3日後に追加される情報で大きな富を得られるかの確証はない。つまり、今ここにある行動記録だけで、大きな富を得る必要があった。
先程の同期で追加された行動記録を慌ただしく確認する。
そこに書かれていたのは、彼の現在の全資産を賭けた、海外大手企業への巨大な投資案件の詳細だった。成功すれば、彼はもはや単なる実業家の枠を超え、世界の経済を裏から操る「支配者」とも言えるような存在となる。だが、もしこの契約を落とせば、いま手にしている富も、名声も、タワーマンションの鍵さえも、すべてが砂のように消えてなくなる。
直樹は、『Beta Log』に示された企業との最終交渉日時を凝視した。そこには、最終同期と同じ日時が記されていた。
「……これ、両方ピッタリ72時間後じゃないか。ちょうど最終更新のタイミング……。つまり、失敗すれば終わり」
恐怖がないわけではない。だが、今の直樹はこんなことで躊躇うような以前の弱気で平凡な「宮代直樹」ではない。なにより、これまで全て成功してきたという事実が背中を押してくれる。今回も『Beta Log』に従いさえすれば、勝利は約束されている。
「上等だ。やってやるよ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日。朝6時。直樹は、昨晩から何度も確認したスマートフォンの画面を再び見つめていた。当然、何も変化はない。
[最終アップデート実行まで:残り65時間59分]
72時間の期限が設定され、カウントダウンが進んでいく。直樹の最後の大勝負が始まったことを表していた。
契約に向けた打ち合わせを行うため準備を整え、ふと鏡を見ると、そこにはかつての「自分」の面影はほとんどなかった。高級なスーツに身を包み、冷徹な光を瞳に宿した、見知らぬ男が立っている。
「はっ……誰だよこいつ」
かつての自分の姿を思い出しながら、鏡の中の見知らぬ男に苦笑し、直樹は家を出た。
初日は最後の大仕事に向けた手回しに丸1日追われたが、『Beta Log』の通りに進めることで全て上手くいった。もう残すところ数回の打ち合わせのみというところまで無事に終え、全てが順調かに思えていたその時、最初の「違和感」が訪れた。
それは、投資案件の打ち合わせで訪れた高級ホテルのラウンジで起きた。初対面のはずの、M&A専門の金融コンサルタント。直樹が名刺を差し出そうと用意をしていると、彼は当然のような顔をして直樹に右手を差し出してきたのだ。
「宮代さん、お久しぶりです。2年ぶりですね。以前ご一緒した、あの東南アジアのインフラ案件以来でしょうか。またタッグを組めて光栄です」
直樹は、そのコンサルタントと会うのは、間違いなく初めてだった。
いや、待て、初めてだったか……?
違う、そうだ、2年前だ。会っているじゃないか。
ああ、思い出した。
直樹は「ええ、あの時の勝利は忘れられません」と応じた。
本 当 に そ う か ?
いま確かに直樹の脳裏には、熱帯の湿った空気の中で、この男と肩を並べて交渉に挑み、成功に導いたという、極めて詳細で、鮮明な「記憶」が浮かんでいる。
だがその記憶はあり得ない。
なぜなら彼にとっての2年前は、ごく平凡な広告代理店の営業職。目立つ実績はなく、常に平均的な評価の「宮代直樹」のはずなのだから。
この違和感を無視していいのだろうか。言葉に出来ない大きな不安に駆られながらも、失敗するわけにいかない最後の計画の期限はすぐそこであることを思い出し、そのまま準備を進めようとした。
そして、2度目の違和感が訪れる。
今日は、最終同期が実行される運命の日。最終交渉の場へ向かうため、直樹は先週契約したばかりの定額制移動サービスを利用した。車内に入り、彼は運転手に「いつもの、冷えたレモン水を」と要求した。
待て、いま俺はなんて言った?冷えたレモン水だと?
以前の直樹が好んで頼んでいたのは、砂糖たっぷりの炭酸飲料だった。それなのに、いま俺は「レモン水」が自分らしい飲み物であると、一切の疑いなく要求していた。
運転手は、慣れた手つきで後部座席のクーラーボックスから冷えたレモン水を取り出し、差し出した。運転手は直樹に言った。
「宮代様の健康志向は、ずっと変わらないですね」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。この運転手は、いつから俺を知っている?俺は先週このサービスを契約したばかりのはずだ。
そう困惑していると、スマートフォンからいつもの通知音が響いた。『Beta Log』だ。
[パーソナライズ状況のご報告]
[現在の状態: 適応率 82.0%]
[アップデート内容: 嗜好パターンの最適化を完了しました]
[以前のあなたが好んでいた過剰な糖分摂取は、集中力の低下と健康リスクを招く「非効率な習慣」でした。成功者である『理想のあなた』に相応しい、健康的なレモン水への切り替えが正常に終了しました]
おい待て。これが仕様だって言うのか?
そんなことは望んでいない。
まさかと思い、恐る恐るスマートフォンで『Beta Log』に残されている飲食履歴を確認した。そこには、別世界の「宮代直樹」が、健康維持のために冷えたレモン水を常飲していたという記録が残されていた。
ある恐ろしい仮説が確信に変わっていった。その震える指で更に画面をスクロールしていくと、そこには直樹が普段から利用しているレストランの名前もあった。普段自分が繰り返し食べているメニューはオムライス。だが『Beta Log』にはシチューばかりが履歴に残っている。自分とは好みが違う。
[食事の嗜好パターン、最適化済み]
[注記: 以前の「オムライス」という選択は、リソースの無駄です。消去されました。現在のあなたに相応しいメニューが、あなたの『嗜好パターン』として再定義されています]
ああ、その通り。これで間違っていない。
俺はシチューが好きだった。
いや違う、待て。待ってくれ。
そうじゃないだろう。何を言っている。
脳細胞がショートし、思考が混濁していく。
──俺は、誰だ。
初対面の人間の記憶、小さな習慣、通い慣れた店の好み。これらすべてが、元々の直樹の記憶と混ざり合い、2つの記憶を持った「宮代直樹」になろうとしていた。
焦燥感が彼の内部を蝕み始める。
そうか。初めからアプリに表示されていた「アップデート」という言葉。あれは単なる「アップデート」ではなかったのだ。
彼の存在、彼の世界線そのものが、別世界の「宮代直樹」と徐々に、しかし確実に、同一の存在になろうとしているのだ。いや、正確には、平凡だった頃を覚えている元々の直樹だけが残る形で、だ。
別世界の俺を、俺が消しているっていうのか。
『Beta Log』を利用し続け、別世界の自分と同じ人生を辿ることで、周囲の世界が容赦なく、成功者「宮代直樹」は今ここにいる彼であると、認識を上書きしているのだった──。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
直樹は、必死に思考を冷静に保とうとした。
最終同期が実行されるまで、あと12時間。最終アップデートを迎えた瞬間、平凡な「宮代直樹」がいた世界は完全に消滅し、別世界の成功者「宮代直樹」がいた世界と一つになる。直樹はそう結論づけた。
しかし、もう引き返す道はない。既に彼の周囲の人間は、彼が成功者「宮代直樹」であることを受け入れ始めている。
それに、いまの時点で投資案件を放棄すれば、彼が築き上げてきた富や名誉、信用と地位、それら全てが確実に破綻し、失う。さらに付け加えるならば、彼が平凡だった頃の世界線は既に消え始めている。つまり、ここで引き返せば、落ちぶれた「宮代直樹」として、みじめに生きるだけになってしまう。
彼は、もはや自分の意志で動いているわけではない。彼は、『Beta Log』という完璧な脚本に従う一人の役者と化していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最終アップデートまで、残された時間は、40分。
都心高層ビルの最上階。重厚なオーク材のテーブルを挟んで、直樹は海外投資企業の代表たちと対峙していた。室内の空気は、触れれば切れるような緊張感に満ちている。相手は百戦錬磨の専門家たちだ。彼らは直樹の若さと、これまでの急激な台頭を疑い、何とかして有利な条件を引き出そうと、言葉の端々に罠を仕掛けてくる。
だが直樹には『Beta Log』がある。彼らの狡猾な戦略がすべて「既知のデータ」として透けて見えていた。
「宮代氏、この提示価格はあまりに強気ではないか? 貴殿が指摘してきた『隠された負債』とやらだが、そんなデタラメをよくも──」「そうですね。では3ページ目を開いてください」
直樹は相手の言葉を遮り、冷たく言い放った。彼の声には、かつての自分にあった「相手を気遣う響き」が微塵も残っていない。それはまるで、計算機が弾き出した最適解を読み上げる音声データのようだった。
「その日付の裏帳簿、およびシンガポールのダミー口座の記録です。……それで?まだ、交渉の余地があるとお考えですか?」
先程まで隠す気もない苛立ちを見せていた相手の代表が絶句し、顔を青ざめさせる。直樹は相手側の決定的な弱点である「隠された債務」の証拠を事前に用意した上で、冷徹に、強気な買収価格を提示したのだ。
これで大丈夫。そう勝利を確信したその瞬間、強烈な目眩が直樹を襲った。視界の端が白く爆ぜ、自分のものではない記憶が、濁流となって意識の底から噴き出してくる。
──見たこともない美しい女性と、シャンパングラスを合わせる記憶。
──広大なプライベートビーチで、異国の言葉を操りながら電話をする記憶。
──そして、それらすべての「輝かしい過去」が、自分の中にある「宮代直樹」という名の、冴えない男の記憶と一つに混ざりあっていく感覚。
樹は机の下で、自分の腿を強くつねった。だが、痛みすらも遠い。
「宮代さん? どうかされましたか?」
隣に控えていた金融コンサルタントが、不審げに覗き込んできた。
「いや……何でもない。続けよう。こちらが先にサインするので、そちらもサインをお願いします」
直樹は、もはや自分の意思でペンを握っているのか分からなかった。手が勝手に動き、自分のものとは思えないほど滑らかな筆跡でサインを書き込む。
これで無事、契約書にサインがされ、莫大な富を得ることが確定事項となった。
[Congratulations!]
[最終ステップへのカウントダウン]
[おめでとうございます。これで統合の準備が100%整いました]
[さあ、新しい、最高の人生があなたを待っています]
これで最後か。そう思っていた時だった。直樹のポケットの中のスマートフォンから、これまでの優しさを全て否定するような、耳をつんざく不快な警告音が鳴り響いた。
驚きながらアプリを開いた直樹が見たのは、これまでの親しみやすかったUIが消え去り、無機質な黒い画面に、冷徹な白いフォントが並ぶ「実行ログ」だった。
[System Information]
[Universe-Beta データの完全展開を確認]
[Universe-Delta 旧個体(MIYASHIRO_N)との整合性チェック:不要な差分 99.8%]
[処理:旧個体データのパージ(破棄)を開始します]
「パージ……? 何を言って──」
次の瞬間、視界が真っ白に爆ぜた。
脳を巨大な磁石でかき回されるような激痛。記憶、思い出、感情。
昨日まで大切にしていたはずの「自分が自分であるための何か」が、高速で塗り替えられていく。
代わりに、見たこともない異国の景色や、話したこともない成功者たちの顔が、濁流となって無理やりねじ込まれる。
[Finalizing...]
[同期完了率:100%]
[現個体の意識を「管理者権限」より削除。統合を完了しました]
[新個体への主導権譲渡に成功]
[これまでのご協力、感謝いたします]
その文字を最後に、アプリは音もなく終了した。そこに立っていたのは、紛れもなく宮代直樹だった。だが、それはもう「彼」ではなかった。
『Beta Log』の画面が強制的に閉じられ、ホーム画面へと戻る。そこには一通の下書きメッセージへのショートカットが新たに設置されていた。
作成者:宮代直樹
最終更新:23:59:59 JST
そんな、まさか。直樹の心臓が早鐘を打った。そう、それは、他でもない「自分」からのメッセージだった。
お前は、どんな俺だ?
なあ、このメッセージを見ているのか?
お前が俺の人生をなぞるたびに、俺の世界ではすべてが変わっていった。俺の記憶が、周囲から消去されていった。
俺は今、ひどい記憶の欠落に襲われている。
いつも通っていたはずの店の名前も、場所も思い出せない。
なあ頼む。行動記録を見ないでくれ。
お前自身も後悔することになるぞ。
ああ、だめだ。俺が俺じゃなくなる。
俺の人生を生きないでくれ。
もしまだ間に合うのなら、それ以上は──
メッセージは明らかに書きかけのまま、そこで無残に途切れていた。
彼は間違いなく、自分の人生を『アップデート』した。しかし、彼が手に入れた「最高の人生」は、どこからか湧いてきた幸運ではない。別世界でその人生を歩んでいた「もう一人の自分」から、その存在そのものを奪い取り、自分の世界と一つになったのだ。
同期、そして統合の完了。それは奪う側が「完璧な自分」になり、奪われた側は「この世のどこにも居場所のない虚像」として消滅することを意味していた。
直樹は、いま自分がいる豪華なオフィスを見渡した。この高級な家具も、地位も、名声も、すべては別世界の自分が流した血と涙の結晶。それを彼は、アプリのボタン一つで横取りしたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
成功者として数日を過ごした後、宮代直樹は、自らが手に入れた最高級のオフィスで夜を迎えていた。彼の新しい人生は完璧に合理的で、一切の矛盾がない。
宮代は、グラスに注がれたカクテルを静かに傾けた。
宮代は、このまま成功者「宮代直樹」として、これからの人生を過ごしていくのか。そんなことを考えていたその時、ジャケットの内ポケットに入れていたスマートフォンが、突然震えだし、通知音を響かせた。
聞き覚えがある。忘れるわけが無い。そうだ、これは、最終同期が行われた時に聞いた、あの通知音だ。
画面には、システムメッセージが表示されていた。
[PARALLEL UPDATE – 新たなプロジェクトの開始]
[同期元: ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・デルタ]
[同期先: ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・アルファ]
[現在の役割:成功モデル(提供側)]
[行動データのアップロードを開始します]
ああ、そうか、そういうことか。
直樹は、冷静に事態を理解した。彼は今、かつて自分に警告を送ってきた側の存在、すなわち「奪われる側」となったのだ。彼の成功体験は、誰かにとっての「攻略本」として、次の「宮代直樹」へと送信が始まったのだ。
これは、終わりのない、成功と喪失の循環だ。今度は、彼の人生が、次の平凡な「宮代直樹」に利用されるのだ。
ふと『Beta Log』の画面に、以前は無かった記録が増えていることに気付いた。震える手で画面をスクロールしていくと、そこにはかつての「攻略本」とは真逆の、自分が自分で無くなっていく行動記録が冷徹に刻まれていた。
09:16:現預金が下ろせない。名義の不整合による口座凍結。本人だと説明しても聞き入れてくれない。
12:31:仕事仲間や取引相手の様子がおかしい。忘れてしまっている、というより、完全に初対面の反応だ。
15:12:誰にも相手されない。まるで背景のように、存在しないかのように扱われる。なんだこれは。
18:05:今朝表示されていた意味不明な通知の意味を理解した。もう手遅れだ。
20:09:同期完了まであと4時間を切った。自分のことを上手く思い出せない。
23:40:もし間にあうならば、という一縷の望みに賭けて、自分宛にメッセージを送信してみることにした。期待はしていないが、同期ってのは、そういう意味なんだろう?
数日前まで自分の人生を成功へ導くためのログだった情報が、今は無情にも絶望的事実を突きつけるログへと変貌を遂げていた。このログが正しいとすれば、「奪われる側」にとっての時間的猶予は、たった24時間しか無い。
いや、正しいに決まっている。
だってこれは、あの『Beta Log』なんだから。
その時、オフィスの重厚な扉が開いた。
「……失礼ですが、どちら様ですか?」
数年来の付き合いであるはずの秘書が、見たこともない不審者を睨むような目でこちらを見ている。
「まさか、もう……?なあ、俺だよ。宮代だ」
「……っ!警備!警備を呼んで!」
ああ、駄目だ。もう始まったのだ。世界が「異物」として処理し始めたのだ。直樹は混乱する秘書を振り切り、更に奥の部屋へと逃げ出し、鍵をかけた。
もはや、逃げ場はない。猛烈な虚無感に打ちひしがれながらも、震える指でメッセージアプリを起動した。次の『俺』が成功のステップを一段登るたびに、こちらの俺の指先が、記憶が、陽炎のように薄れていく。
「……次の俺に、伝えなきゃならない」
どうせ間に合わない。それは俺自身が経験したから、よく理解している。仮に早く届いたとしても、次の俺が「攻略本」に可能性を感じた時点で終わりだ。それでも、彼は呪いのような、あるいは祈りのような遺書を打ち込み始める。
スマートフォンから放たれる青白い光は、崩壊していく男の顔を冷たく照らし続けていた。その画面の隅で、同期を示す進行度は、無情にも上昇を続けていくのだった──。
《データ同期進行度:24%》
『パラレル・アップデート』── 完 ──




