侯爵令嬢ヴィオラは踊れない人形と呼ばれた。
じっとりとした熱が肌にまとわりつく。
季節はまだ初夏だというのに、ファルコーネ侯爵家の庭園は、まるで真夏の温室のようにむせ返る空気に満ちていた。
熟れすぎた薔薇の芳香が、私の思考を鈍らせようとする。
私は、回廊の柱に片方の肩を預け、手にした紫檀の杖をぎゅっと握りしめていた。大理石の床から伝わる冷たさだけが、今の私を支える唯一の現実のように感じられる。
中庭に設えられたテラスでは、父が雇った楽団が、今をときめく宮廷作曲家による最新のワルツを奏でている。
『愛しき小鳥の戯れ』
目まぐるしく変わる技巧的なリズムと、甘ったるく軽薄な旋律。それがこのリベルタニア王国の社交界で今、最も称賛される芸術だった。
その調べに乗り、二つの影が完璧な円を描いて旋回している。
「ご覧になって。テオドール様とブランシュ様。まるで一対の白鳥ですわ」
「ええ、今年の建国祭の夜会では、間違いなくあのお二人が『デビュタントの華』に選ばれましょう。リシュリュー公爵家もさぞお喜びになること」
回廊の端で扇をぱたぱたと揺らしながら交わされる会話は、私を存在しないかのように通り過ぎていく。
白鳥。
確かに、純白のドレスを翻すブランシュと、紺青の礼服に身を包んだテオドールの姿は、この上なく美しく調和していた。
彼女の金髪がテオドールの肩にふわりとかかり、彼が彼女の腰を支える手つきは、教科書に載せたいほど完璧な角度を保っている。
一糸乱れぬステップ。寸分の狂いもない回転。
彼らは、この国が求める踊り――いや、芸術の理想を体現していた。
このリベルタニア王国において、芸術は信仰に近い。
そして、数ある芸術の中でも「踊り」は絶対的な頂点に君臨している。
貴族の血筋は、どれほど優雅に踊れるかで証明される。
領地の豊かさとは、どれほど完璧な楽団を雇い、夜会を開けるかで示される。
ここで生まれ育った者は、物心ついた時からダンス教師の厳しい指導を受け、骨の髄まで完璧なステップを叩き込まれるのだ。
社交界とは、その成果を披露し合う品評会の場に他ならない。
そして、その頂点たるワルツ『エトワール・フィランテ』。建国祭で選ばれた者だけが踊ることを許される、この国で最も格式高い曲。
踊れない者は、貴族として扱われない。
もっと言えば、人間として扱われない。
それは、この国の貴族社会を縛る、冷たくて強固な呪いだった。
だから、私はここにこうして立っている。
侯爵令嬢ヴィオラ・ファルコーネ。
社交界における私の通り名は「踊れない人形」。
衣装を着せられ、ただそこに置かれているだけの、魂のない置物。それが私の評価だった。
曲がクライマックスに達し、テオドールがブランシュを高くリフトする。ブランシュは白鳥の羽ばたきのように両手を広げ、歓喜の表情を中庭の賓客たちに振りまいた。
嵐のような拍手。
ブラボー、という野太い声。
私は、その光景から目をそらすように、自らの左足に視線を落とした。
レースの靴下に隠された足首には、今も生々しい傷跡が残っている。
四年前の、あの日のことだ。
私は、馬が大好きだった。特に、父が誕生日に贈ってくれた白馬「白銀」は、私にとって何よりも大切な相棒だった。
白銀の背に乗って風を切る感覚は、窮屈な淑女教育や、複雑なダンスのステップから私を解放してくれた。
あの日の空は、今日とは比べ物にならないほど高く、澄み切っていた。
いつものように白銀と森の小道を駆けていた。その時だった。
突然、白銀が甲高い嘶きを上げ、激しく跳ね上がった。
「どうしたの、白銀!」
必死にたてがみにしがみついたが、振り落とされた私は、地面に強く左足を打ち付けた。
意識が遠のく中で最後に見たのは、茂みの向こうに隠れる、見慣れた水色のリボンの残像だった。
命に別状はなかった。
けれど、私の左足は、完治することなく不自由さを残した。
杖を使えば歩ける。日常生活には大きな支障はない。
ただ一つ、この国で最も重要とされる行為を除いて。
私はもう踵を高く上げたり、複雑なステップを踏むような「踊り」を踊ることができなくなってしまった。
私の人生は、あの日を境に音を立てて崩れ落ちた。
侯爵家の跡取り娘。公爵家のテオドール様との婚約。輝かしい未来。
その全てが、「踊れない」という一つの事実によって、私から剥奪されていった。
両親は、私の足の怪我よりも、私が踊れなくなったことに絶望した。
「ファルコーネ家の娘が、踊れない……だと?」
厳格だが優しかった父の冷たい声は、今も耳の奥にこびりついている。
母は、私を見るたびに泣いた。私の不運を嘆くのではなく、自らの社交界での体面が失われたことを嘆いて。
そんな時、ホールに彗星のように現れたのが、彼女だった。
ブランシュ・ヴァリエール。
私の従姉妹。分家の伯爵令嬢で、いつも私の後ろを金魚のフンのようについて回っていた、ひとつ歳下のブランシュ。
彼女は私の療養中にお見舞いと称して、この侯爵家に入り浸るようになった。
「ヴィオラお姉様、お可哀想に。でも、ご安心になって。私、お姉様が元気になられるまで、おじ様とおば様のお側でお慰めいたしますわ」
幼い頃に母を亡くしている彼女への同情心もあったのだろう。
その甘い声で、彼女は私の両親の心を巧みに掴んでいった。
そして彼女は私が持っていたものを、一つ、また一つと奪い取っていった。
ブランシュは、私が着るはずだった最新のドレスを身にまとった。
「ヴィオラには、もうこんな派手なドレスは必要ないでしょう? あの子は、目立たない方がいい」
母はそう言って、私には地味な灰色のドレスばかりをあてがった。
ブランシュは、私に仕えるはずだった優秀な家庭教師たちも自分のものにした。
「ブランシュ様は、本当に素晴らしい才能をお持ちです。特に踊りの才能は、ヴィオラ様とは比べ物になりませんな」
かつて私を天才と持て囃した教師は、手のひらを返したように彼女を絶賛した。
そして、ついに。
私の婚約者、テオドール・リシュリューまで。
テオドールは、事故の直後は私を哀れんでいた。
「ヴィオラ、大丈夫だ。足が治ったら、また一緒に踊ろう」
彼はそう言って、私のベッドサイドに毎日花を届けてくれた。
けれど、私の足が完治しないとわかるにつれて、彼の足は遠のいていった。
そして、代わりにブランシュが彼の隣に立つようになっていた。
ブランシュは、踊りの才能を開花させた。彼女の踊りは周囲から称賛された。
テオドールは、リシュリュー公爵家の次期当主。
彼には、社交界で最も輝く華が必要だった。そう、「踊れない人形」ではなく。
ついにあの日、父の書斎で、三者の合意がなされた。
「ヴィオラ、お前も分かっているな。テオドール様には、我がファルコーネ家の血を引く、完璧な妻が必要だ。
ブランシュは、お前の従姉妹。あの子がテオドール様の妻となれば、ファルコーネ家も縁を結べることになる。
ヴィオラ、お前は……」
父は、そこで一度言葉を切り、書斎の窓の外に目を向けた。
「……お前は、ブランシュの幸せを、陰ながら祝ってやりなさい」
「お父様……! なぜ、そのような……!」
私がかすかに抗議の声を上げると、父は窓の外に目を向けたまま、絞り出すような声で言った。
「……ヴィオラ。お前はもう、踊れぬ」
「……っ」
「踊れぬ者が、この社交界でどう扱われるか……お前が一番わかっているはずだ。リシュリュー公爵家の次期当主の隣に立つことが、どれほどの苦しみになるか」
父の横顔は、私に非情な現実を突きつける当主のものでありながら、娘の未来を奪う父親としての苦渋に、唇がわずかに歪んでいるように見えた。
「これは……お前を、これ以上惨めな晒し者にしないための、当主としての……いや、父としての、最後の務めだ」
私の意思など、最初から存在しなかった。
婚約の破棄と、新たな婚約の成立。
全てが、私の知らないところで決められていた。
中庭での演奏が終わり、万雷の拍手の中、二人がこちらへ向かってくる。
私は背筋を伸ばし、杖を握る手に力を込めた。
不自由な足を引きずりながらも、侯爵令嬢としての威厳だけは、失ってはならない。
「ごきげんよう、ヴィオラお姉様」
ブランシュがテオドールの腕に絡みついたまま、勝ち誇った笑みを私に向ける。汗一つかいていない、陶器のように滑らかな肌。
「こんな日陰の特等席で、私たちの練習風景をご覧になっていたのね。熱心なこと」
その声には、隠そうともしない嘲りが含まれている。
「ごきげんよう、ブランシュ。テオドール様も。素晴らしい踊りでしたわ」
私は、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けた。不自由な足で淑女の礼をとる。ぐらりと体が揺れそうになるのを、杖の力で必死にこらえた。
「ああ、やあ」
テオドールが興味無さ気に目をそらした。
かつて、私を「僕のヴィオラ」と呼び、森で花を摘んでくれた面影は、もうどこにもない。
彼は今や、リシュリュー公爵家の跡取りとして、最も価値のあるものを選んだのだ。
「テオドール様、そんなに照れなくてもよろしいのに。ヴィオラお姉様も、私たちの踊りを褒めてくださっているわ」
ブランシュは、私の皮肉など全く意に介していない。いや、気づいていないふりをしている。
彼女は、私がどれほど屈辱を感じているかを知った上で、私を玩んでいるのだ。
「そういえば、ヴィオラお姉様。もうすぐ建国祭の夜会ですわね」
来た。
私は息を詰めた。
「今年は、私が『デビュタントの華』の最有力候補だと、皆さんがおっしゃってくださるの。本当に光栄なことだわ」
「……そうですわね。ブランシュの踊りは、王国一ですもの」
「ありがとう、お姉様。でも、お姉様もいらっしゃるのでしょう? 夜会」
彼女は、わざとらしく首を傾げた。
「ええ、もちろん。ファルコーネ侯爵家の娘として、当然の務めですわ」
「まあ、無理はなさらないで。だって、お姉様は踊れないのですから」
ブランシュの声が、一瞬、氷のように冷たくなった。
「ぜひ、その目で私たちの踊りをご覧になってくださいね。うふふ」
彼女は、テオドールの腕をぐいと引いた。
「さあ、テオドール様、参りましょう。次の曲が始まってしまいますわ。ヴィオラお姉様、ごきげんよう」
テオドールは、私に一瞥もくれず、ブランシュに引かれるままにテラスへと戻っていった。
二人の後ろ姿を見送りながら、私は奥歯を噛み締めた。
悔しい。
悔しくて、今すぐにでも杖を投げつけてやりたい。
けれど、そんなことをすれば、私は踊れない嫉妬深い女として、さらに嘲笑われるだけだ。
私は、この侯爵家で「踊れない人形」として、息を潜めて生きるしかない。
再び、楽団が次の曲を奏で始めた。
今度は、荘厳なガヴォット。これもまた、完璧な型を要求される、貴族のための踊りだ。
テオドールとブランシュは、寸分の狂いもないステップで、再び中庭の主役となった。
彼らの踊りは、確かに完璧だ。
技術的には、非の打ち所がない。
この国が求める芸術そのものだ。
けれど。
私の胸を打つものは、何もなかった。
なぜだろう。
あれほど完璧なのに、まるで機械仕掛けの人形が二体、決められた通りに動いているようにしか見えない。
そこには、熱が感じられない。
魂の叫びが聞こえてこない。
喜びも、悲しみも、怒りも。人間の持つ、どうしようもない衝動のようなものが、あの踊りには決定的に欠けている。
ただ、決められた型を、流行の衣装を着て、寸分違わずになぞっているだけ。
それは、魂の抜けた流行への迎合に過ぎない。
私は、密かにそう思っている。
もちろん、こんな言葉を口が裂けても言えるはずがない。
「踊れない人形」が、何を言っても。
それは、ただの悔し紛れの負け惜しみ。
そう思われるだけなのだから。
私は、中庭から背を向けた。
むせ返る薔薇の香りと、軽薄なガヴォットの旋律から逃れるように。
不自由な足を引きずり、杖が大理石の床を打つ音だけが、回廊に冷たく響く。
カツン。カツン。
私の足音は、あの軽やかな音楽とは決して相容れない。
建国祭の夜会まで、あとひと月。
ブランシュがデビュタントの華として、テオドールと共に『エトワール・フィランテ』を踊る日。
それは、私がファルコーネ侯爵令嬢ヴィオラとして、完全に過去の存在となる日だ。
私は、屋敷の奥深く、父の書斎へと続く廊下を歩いていた。
誰も近寄らない、埃っぽい書庫。
表向きは、夜会に向けた準備を手伝うふりをしながら。
私は、そこで、私だけの準備を進めている。
ブランシュ。テオドール。そして、私を人形と呼ぶ、この国の全ての人々。
あなたたちが信奉する芸術が、どれほど脆いものか。
建国祭の夜。
この杖をつく足で、私は、それを証明してみせる。
*
建国祭の夜会が近づくにつれ、ファルコーネ侯爵家は尋常ではない熱気に包まれていた。まるでこの屋敷だけが、季節を先取りした真夏を迎えたかのように、誰もが浮き足立ち、紅潮した顔で廊下を駆け回っている。
客間に新しく掛けられたタペストリーは、この国の英雄譚を勇壮に織り上げたものだが、それすらも今の私には、来たるべき夜会の前座に過ぎないように思えた。
その熱狂の中心は、言うまでもなく私ではない。
「まあ、ブランシュ様! このカナリア・イエローのシルク、まるで光そのものを纏うようですわ!」
「素敵!でも、やはり月の光を思わせる、あの純白のサテンがよろしいのではなくて?」
母のサロンは、連日、王都中から呼び寄せられたデザイナーや宝石商で溢れかえっていた。
彼らが恭しく広げる最高級の布地、眩いばかりの宝石の数々。それらは全て、ブランシュ・ヴァリエールという今年のデビュタントの華を、最も輝かせるためだけに集められたものだった。
「ファルコーネ家の威信にかけて、ブランシュを王国一の淑女にしなくては」と、母は自分が再び社交界デビューするかのように目を輝かせ、その選定に没頭している。
彼女にとって、私はもう「ファルコーネ家の娘」ではなかった。
私は、そのサロンの隅。窓から差し込む光がギリギリ届く、小さな書き物机で、夜会の招待客リストの最終確認という役目を与えられていた。
インク壺にペンを浸し、羊皮紙に記された格式張った貴族の名前を、一つ一つ確認していく。シャカ、シャカ。ペン先が紙を擦る、乾いた音だけが、私の世界のすべてだった。
「次は、ボルドー子爵。ご夫妻でご出席」私が抑揚のない声で読み上げると、母は扇で顔を半分隠しながら、くすくすと笑った。
「ボルドーですって? あの方、去年の夜会で、まだ毛皮の襟を付けていらしたわ。なんて時代遅れ。席は柱の陰、楽団の真横でよろしくてよ」
「まあ、おば様ったら。でも本当に。芸術を解さない方に、良席は与えられませんものね」
ブランシュが、銀盆に載せられた大粒の宝石の首飾りを手に取りながら、嘲笑に同調する。
このリベルタニア王国では、芸術のセンスが、そのまま家格の評価に直結する。流行遅れの装いは、下手をすれば領地の経営に失敗するよりも嘲笑の的となるのだ。
そして、その芸術の頂点に立つのが踊りであり、踊れない私は、このサロンにおいてどのような扱いを受けるか。
「ヴィオラお姉様、ありがとう。そんな地味な仕事、本当にお姉様にぴったりですわ」
ブランシュが、選定を終えた首飾りを自分のデコルテに当ててみせながら、私を振り返った。その目は、あからさまな優越感と、私に対する憐れみで歪んでいる。
「お姉様も、夜会に着ていくドレスはもうお決まりになって?」
「……ええ。母様が選んでくださった、灰色のシルクのものを」
「まあ、灰色!なんてこと。でも、お姉様にはそれが一番よろしいわ」
彼女は、わざとらしく両手を胸の前で合わせた。
「だって、お姉様は主役ではないのですもの。目立ってはいけませんわ。壁の花……いいえ、壁の染み、かしら? うふふ」
ふと、サロンの入り口で、父が腕組みをしてこちらの様子を眺めているのに気がついた。
目が合うと、父はすぐに厳しい顔で視線をそらし、踵を返した。だがその口元が、ごくわずかに「くだらん」と動いたのを、私は見逃さなかった。
父は、母やブランシュの浅薄な狂騒に気づいていながら、当主としてそれを止めない。私を「踊れない人形」として扱うことを容認している。それが私には何よりも冷たい仕打ちに感じられた。
その時、半開きのままだったサロンの扉がノックされ、テオドールが長身を滑り込ませてきた。
彼は、窓際に座る私のことなど、最初から存在しないかのように、まっすぐブランシュの元へと歩み寄る。
「やあ、ブランシュ。準備は順調かい? ああ、その首飾り、君の白い肌によく映える。素晴らしい」
「テオドール様! ちょうど今、これに決めたところですの。私に似合いますかしら?」
「世界で一番、君に似合っている」
テオドールは、うっとりとブランシュを見つめ、その手を取った。
「夜会が楽しみでならない。君と二人で、あの『エトワール・フィランテ』を踊る、その瞬間が」
「ええ、私もですわ、テオドール様。皆が、私たちの踊りに息をのむでしょう」
二人の世界が、私の目の前で完璧に閉じられていく。
私が踊るはずだった曲。
私が立つはずだった場所。
私が受けるはずだった称賛。
その全てが、今はブランシュのものだった。
私は、手の中のペンを握りしめた。インクが指に滲み、黒い染みを作る。
悔しい。その一言では言い表せないほどの、冷たい炎が腹の底で燃え上がっていた。
だが、私は顔を上げない。「踊れない人形」は、感情を持つことを許されないのだから。
「あら、ヴィオラ。まだそんなところにいたの」
母が、ようやく私の存在に気づいたように、眉をひそめた。
「リストの確認は終わったのでしょう? それなら、もうお部屋に戻ってちょうだい」
「……はい、母様」
「夜会当日まで、なるべく人前に出ないように。特にテオドール様やブランシュの前では、その不自由な足でうろうろしないでちょうだいね。見ているこちらの気分が滅入るわ」
冷たく、鋭い刃のような言葉。それは、もう何度も聞かされてきた、私にとっての日常だった。
「ごきげんよう、皆様」私は立ち上がり、杖を頼りに、精一杯の淑女の礼をとった。また体が揺れそうになるのを、杖に体重をかけて必死にこらえる。
その瞬間、テオドールが私を一瞥し、フン、と鼻を鳴らした音が聞こえた。それは、私の心を抉るのに、十分すぎる一撃だった。
サロンの重い扉を閉め、私は逃げるように廊下を歩く。背後からはブランシュと母の楽しそうな笑い声が、いつまでも追いかけてくるようだった。
「あなたは隅で見ていなさい」
廊下の角を曲がったところで、不意に背後から声がした。ブランシュだった。
いつの間にか私を追いかけてきた彼女は、意地の悪い笑みを浮かべて、私の前に回り込む。
「夜会では、あなたはただ、隅で私たちの踊りを見ていればいいのよ」
サロンでのやり取りではまだ生ぬるかったとでも言うように、彼女は今、私に真正面からその刃を突きつけてきた。
「……忠告ありがとう、ブランシュ」
私は、努めて冷静に返した。
「でも、心配しなくても、私は私の役目を心得ているわ」
「役目? あなたの役目なんて、あるのかしら? 踊れない人形には、お飾りの役目さえ与えられないわ」
彼女は、私の足元、杖の先に視線を落とした。
「ああ、そうね。せいぜい、転ばないように気をつけること、かしら。私とテオドール様の晴れの舞台に、泥を塗らないようにね」
彼女は、私が落馬したあの日のことを知っている。
私の脳裏に、あの日の茂みに消えた水色のリボンが、一瞬よぎった。
「……ごきげんよう、ブランシュ。夜会の準備、頑張って」
私は彼女の横をすり抜けようとした。
「ヴィオラ」
ブランシュが、今度は真剣な、冷たい声で私を呼び止めた。
「一つ、勘違いしないで」
「勘違い……?」
「私は、あなたに勝ったのよ。踊りの才能だけじゃない。家柄も、美貌も、そしてテオドール様の愛も。私があなたから奪ったんじゃない。最初から、私にこそふさわしいものだったの」
「……」
「あなたは、ただ、私が輝くための引き立て役だった。それだけよ、最初から」
言い終えると、彼女は満足そうに踵を返し、サロンへと戻っていった。
私は、その場に立ち尽くした。杖を握る手が白くなっている。引き立て役? 私が? ファルコーネ侯爵家の、正統な娘である私が?
私は、もう、屋敷の自室には戻らなかった。その足で、まっすぐ西棟へと向かう。使用人たちの喧騒から最も遠い、屋敷の最奥。
今や、ファルコーネ家代々の古い書物や記録が、埃をかぶって眠っているだけの、忘れ去られた場所。
重い樫の扉を開けると、古い紙とインクの、懐かしい匂いが私を迎えた。
私は、誰にも見咎められないよう、素早く中に入り、内側から鍵をかける。カツン。杖の音が、高い天井に響き渡り、静寂に吸い込まれていった。
ここだけが、私の聖域だった。ブランシュやテオドールの嘲笑も、ここまでは届かない。
逆に、ここの音が、部屋の外に漏れることもない。
私は、窓から差し込む月明かりを頼りに、書庫の奥深くへと進んだ。
表向きは、夜会の準備を手伝う従順な人形。だが夜が訪れ、そして今のような束の間の時間に、私はこの場所で、私だけの準備を進めていた。
目指すは、棚の一番上、一番奥に隠された、一抱えもある重い革表紙の書物。『リベルタニア王国建国儀典書』。
私が事故の後、絶望の中で見つけたのは、踊りとは全く別の力だった。この国は踊りを花形としている。それは事実だ。
だが、それは、いつから?
この書物によれば、建国当初の儀典において、最も重要視されていたのは踊りではなかった。
踊りが花形となったのは、わずか百年ほど前の、享楽的な国王の治世から。それ以来、貴族たちは競って踊りの技巧を磨き、本来の儀典のあり方を忘れてしまった。
私が探しているのは、踊りがすべてとされる今の流行ではない。
私は、羊皮紙の束を取り出し、インク壺を開ける。私がやっているのは、単なる復讐ではない。これは、失われたこの国の魂を取り戻すための戦いだ。
ペンを置いた。窓の外は、すでに闇に包まれている。
私が書き上げた計画書。それは、誰にも見せるものではない。ただ、夜会当日、私が行動を起こすための、私だけの設計図だ。
私は、杖を頼りに立ち上がった。
カツン。私の足音は、決してワルツのリズムを刻むことはない。
だが、この一歩一歩が、古い秩序を打ち破る、確かな槌音なのだ。
私は、書き上げた羊皮紙を慎重に丸め、書庫の奥深く、あるべき場所へと隠した。
そして羊皮紙と取り替えるように、引き摺りながらそれを取り出す。
夜会の日まで、あとわずか。私の静かな戦いは、もう始まっている。
*
王宮の夜会。
それは、このリベルタニア王国における、全ての貴族の存在価値が試される場所。
馬車が王宮の正門をくぐり抜けた瞬間、私は窓の外に広がる非現実的な光景に、眩しさと、それ以上の冷たい決意を抱いていた。
何千もの蝋燭が、白亜の宮殿を夜の闇から浮かび上がらせ、それはまるで、宝石を敷き詰めた巨大な怪物のように、訪れる者たちを飲み込もうと口を開けている。
馬車を降り、不自由な足で最初の一歩を踏み出す。
カツン。
紫檀の杖が、磨き上げられた大理石の床に、場違いなほど乾いた音を立てた。
今夜、私が身にまとっているのは、母が「お前にはそれで十分」と言い放った、灰色のドレス。
光を吸い込むような、影の色。
ブランシュが言った壁の染みという言葉を思い出す。
「まあ、ファルコーネ侯爵家の……」
「噂の『踊れない人形』ですわ。本当にいらっしゃったのね」
「なんて痛々しい。お可哀想に」
エントランスホールを進むだけで、四方八方から突き刺さる視線と、扇の影で交わされる容赦のない囁き声。
私は、背筋を伸ばす。
顔を上げ、一歩一歩、杖の音を隠そうともせずに、大広間へと続く階段を登った。
私の前を、両親が歩いている。
父は、まるで私の存在などないかのように、国王陛下の側近である公爵と、この国の芸術の未来について、朗々と語り合っている。
母は、その隣で完璧な淑女の笑みを浮かべていた。
彼らは、一度も私を振り返らなかった。
そして、彼らの数歩前。
今夜、この夜会のために集められた全ての光を一身に浴びて、彼女が立っていた。
「ブランシュ様! なんてお美しい……!」
「ああ、まるで月の女神のよう!」
純白のドレス。
金色の髪には、ファルコーネ侯爵家に代々伝わる、花嫁しか身につけられないはずの金剛石の髪飾りが輝いている。
母が、それをブランシュに与えたのだ。
私という失敗作の代わりに、彼女こそがファルコーネ家を継承したのだと、この国の全ての貴族に示すために。
「ごきげんよう、皆様」
ブランシュは、集まった人々に向かって、練習通り完璧な淑女の礼を返す。
その隣には、当然のようにテオドールが控えていた。
紺青の礼服は、彼の銀色の髪と冷たい青い瞳を、より一層際立たせている。
彼らは、今夜の主役だった。
「ヴィオラお姉様」
ふいに、ブランシュが私に気づいた。
彼女は、意地の悪い、それでいて完璧に計算された憂いの表情を浮かべ、テオドールの腕に絡みついたまま、私に近づいてくる。
「まあ、本当にいらしたのね。体調はよろしいの? 無理はなさらないで」
その声は、甘く、蜜のようにねっとりとしていた。
周囲の貴族たちは、私たちが仲の良い従姉妹であると信じ込んでいる。
「ありがとう、ブランシュ。あなたこそ、今夜は大変ですわね。王国中の期待を背負っているのですから」
私は、灰色のドレスにふさわしい、影のような笑みを返した。
「まあ、お姉様ったら。でも、そう。私、頑張らなくては。ファルコーネ家の名誉のために」
彼女は、あえてファルコーネ家という言葉を強調した。
もはや、この家を代表するのは、分家である自分なのだと。
「テオドール様も、そうお思いになりますでしょう?」
「ああ、もちろんだ、僕のブランシュ」
テオドールが、私を値踏みするように一瞥した。
その目は、かつて森で花を摘んでくれた少年のものではない。
自らの家名と、自らのパートナーの価値を冷徹に計算する、公爵家次期当主の目だった。
「ヴィオラ。今夜は、目立たないようにしていると聞いていたが。その杖の音は、少々響きすぎるんじゃないか?」
「申し訳ございません、テオドール様。ですが、これがないと、私は立っていることさえできませんので」
「フン。……ブランシュ、行こう。こんなところで油を売っていても仕方ない。陛下にご挨拶を」
テオドールは、私を汚物のように振り払い、ブランシュの手を取った。
二人の背中が、大広間の光の渦の中へと消えていく。
私は言われた通り、ホールの一番隅、巨大な大理石の柱の陰に、そっと身を寄せた。
ここが、私の指定席。「踊れない人形」が、主役たちの邪魔にならない、唯一の場所。
ファンファーレが鳴り響いた。
国王陛下と王妃殿下の入場。
そして、今夜の夜会が、国王陛下の高らかな宣言によって幕を開けた。
「今宵、若き才能たちが、この国の芸術の未来を照らしてくれることを期待する!」
楽団が、軽快なワルツを奏で始めた。中庭で聞いた、あの『愛しき小鳥の戯れ』だ。
貴族たちが、待っていましたとばかりに、一斉にダンスフロアへと滑り出していく。
色とりどりのドレスが回転し、宝石が光を反射し、むせ返るような香水の匂いと、熱気が、ホールを支配していく。
私は、ただ、その光景を眺めていた。
この国がいかに踊りというものに狂信的であるか。
踊りの輪に入れない者は、この熱狂の輪の外にいるしかない。
何曲かのワルツと、荘厳なガヴォットが過ぎた。
人々は、完璧なステップを踏む相手を称賛し、少しでもリズムが乱れた者を嘲笑する。
あれは、母が時代遅れだと嘲ったボルドー子爵。
彼は新しいステップについていけず、妻のドレスの裾を踏んでしまった。
周囲から、くすくすという笑い声が漏れる。
ボルドー子爵夫妻は顔を真っ赤にして、フロアの隅へと逃げていった。
踊れない。それは、この国では死刑宣告に等しい。
私は、柱の陰で、自らの手のひらを強く握りしめた。
足が、痛む。
四年前の古傷が、この熱気の中で、疼くように存在を主張していた。
――そして、ついにその時が来た。
楽団の演奏が、ふと止んだ。
ホールが、一瞬の静寂に包まれる。
宮内卿が、フロアの中央に進み出た。
「皆様、お待たせいたしました! これより、今宵の『デビュタントの華』を選定する、メインのワルツに移らせていただきます!」
待ってました、と、ホールがどよめいた。
「今年のデビュタントの皆様、どうぞ、フロアの中央へ!」
数名の令嬢たちが、緊張した面持ちでフロアに進み出る。
だが、その中で、一人だけ、圧倒的な自信と輝きを放っている存在がいた。
ブランシュ・ヴァリエール。
彼女は、テオドールにエスコートされながら、まるで自らの庭を散歩するかのように、優雅にフロアの中央へと歩みを進めた。
「ご覧ください、ブランシュ様ですわ!」
「なんと美しい……! まさに一番星!」
「相手はリシュリュー公爵家のテオドール様。もはや、結果は見えていますわね」
その通りだった。
これは、選定ではない。
ブランシュがデビュタントの華であることを、王国中に知らしめるための儀式だ。
ブランシュは、テオドールと向き合い、完璧な礼をした。
今夜のために用意された楽団が、最も格式高いとされるワルツ、エトワール・フィランテを奏で始めた。
二人の踊りが、始まった。
それは、中庭で見た練習風景とは、比べ物にならないほどの完成度だった。
テオドールの力強いリード。
ブランシュの、まるで重力がないかのような軽やかなステップ。
二人は、寸分の狂いもなく、音楽と一体化していた。
完璧だ。誰もが、そう思っただろう。
この国の貴族たちが、百年かけて磨き上げてきた踊りという芸術の、一つの到達点。
熱狂が、ホールを包む。
「ブラボー!」
「素晴らしい! これぞリベルタニアの芸術だ!」
人々は、二人の踊りに酔いしれていた。
私の父も母も、誇らしげな顔で、ブランシュを見つめている。
彼らにとって、ブランシュこそが、ファルコーネ家の真の娘なのだ。
私は、柱の陰で、そっと目を閉じた。
あの踊りは、確かに完璧だ。
けれど、やはり、私の心を揺さぶるものは、何もない。
熱を感じない。魂が、そこにない。
決められた型を、寸分違わずになぞるだけ。
それは、私が「踊れない人形」と呼ばれるのと同じ。
彼らもまた、「完璧に踊れる人形」に過ぎない。
曲が、壮大なクライマックスを迎えた。
ブランシュが勝利の女神のように両手を広げる。
嵐のような拍手。
音楽が止み、二人は、息一つ乱さぬまま、深い礼をした。
「素晴らしい! 実に、素晴らしい!」
宮内卿が、感極まったように声を張り上げた。
「これ以上の『華』が、ありましょうか! 今年の『デビュタントの華』は、もはや……!」
彼が、ブランシュの名前を口にしようとした、その時だった。
カツン。
静まり返ったホールに、乾いた、場違いな音が響いた。
カツン。
全ての視線が、音のする方へと集まる。
柱の陰から、灰色のドレスを引きずり、杖をついた女――私が、ゆっくりとフロアの中央へと歩み出していた。
心臓が喉から飛び出しそうだった。足が鉛のように重い。
だが、私は、止まらなかった。
一歩、また一歩。カツン。カツン。
私の足音だけが、この世界で唯一の音だった。
「な……」
「あれは……ヴィオラ様?」
「何をなさるおつもりだ?」
嘲笑が、さざ波のように広がっていく。
「ヴィオラお姉様……?」
ブランシュが、目を丸くして私を見ている。
その表情は驚きから、すぐに侮蔑と怒りへと変わった。
「ヴィオラ! 何をしている!」
父の、雷鳴のような声が飛んだ。
だがその声は、単に公の場を乱されたことへの怒りというよりも、全てを失った娘が、今まさに公衆の面前で取り返しのつかない醜態を晒し、完全に破滅してしまうことへの、悲痛な焦燥にも似た響きを含んでいた。
「見苦しい」
テオドールが、吐き捨てるように言った。
「衛兵、あの女をつまみ出せ。神聖な場を汚す気だ」
私はフロアの真ん中、ブランシュとテオドールから数歩離れた場所で立ち止まった。
そして震える声で、だが、ホール全体に響き渡るように、言った。
「どうか、お待ちくださいまし」
ホールは、水を打ったように静まり返った。
嘲笑も、怒声も、ピタリと止む。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
国王陛下、王妃陛下。
怒りに震える父と、蒼白になっている母。
そして、憎悪に顔を歪ませるブランシュと、テオドール。
全ての貴族たちの、好奇と侮蔑に満ちた視線が、私一人に突き刺さる。
「私は、踊れません」
私は言った。その言葉に、くすくすという笑い声が漏れ始めた。
「何を今さら」
「知っておりますわ」
「踊れない人形が、いったい何の用ですの?」
私は、その嘲笑を、真正面から受け止めた。
「ええ。私は、皆様がご存知の通り、踊れません。この足では、皆様が愛するワルツのステップを踏むことは、金輪際かなわないでしょう」
私は、杖を、ぎゅっと握りしめた。
「ですが……」
私は、国王陛下に、そして、ホールにいる全ての人々に向かって、宣言した。
「ですが、この国の芸術は、踊りだけではございませんでしょう?」
その言葉の意味を、誰も理解できなかった。
人々は、ただ、呆気に取られて私を見ている。
私は、彼らに、そして、ブランシュとテオドールに背を向けた。
今、私が行くべき場所は、ここではない。
私は、杖をつきながら舞台へと向かった。
カツン。カツン。私の足音が、再び、ホールに響き渡る。
「おい、止めろ!」
「楽団に近づけるな!」
衛兵が、慌てて私を捕まえようと走り出す。
だがその衛兵の前に、一人の男がそっと手を差し出して制止した。
楽団の指揮者だった。
彼は、何も言わず、ただ、私を真っ直ぐに見つめている。
私は舞台の端、最も大きく荘厳な楽器の前で、足を止めた。
グランド・ハープ。
この国の儀典において、本来、最も神聖な音を奏でる楽器。
そのハープの前に座っていたのは、白髪の皺深い老いた演奏家だった。
マエストロ・ジラール。王宮楽団に五十年の長きにわたり仕えてきた、この国で最も老練なハープ奏者。
彼は私を見ても、驚いた様子を見せなかった。
ただ静かに、私を待っていたかのように、そこに座っている。
「ジラール様」
私は、彼にだけ聞こえるように声をかけた。
「ファルコーネ侯爵家の、ヴィオラにございます。先日、お手紙と楽譜を……」
ジラールは、ゆっくりと、私を見た。
その目は、長年、この国の移り変わりを見てきた者だけが持つ、深い洞察力に満ちていた。
「……『アルア・ルスの叙事詩』。で、ございましたかな」
彼の声は、乾いていたが、力強かった。
「はい。この国を建国した伝説の英雄を讃える、あの叙事詩を」
「正気ですかな、お嬢様」
彼は私の不自由な足と、灰色のドレス、そして私の背後で、怒りと混乱に満ちた声を上げている貴族たちを、ゆっくりと見渡した。
「あの者たちは、踊りを求めている。華やかで……軽薄で、享楽的な踊りを。今ここで、古臭い叙事詩の弾き語りなど……」
「だからこそ、なのです」
私は、彼の言葉を遮った。
「踊れない私が、ここで示すのです。建国祭の夜会とは、本来、そのための儀式であったはず」
ジラールは、私の目を、じっと見つめた。
彼は、私がただの嫉妬深い踊れない令嬢ではないことを見抜こうとしていた。
私の覚悟を、試していた。
そして彼は、私の背後、顔を真っ赤にして私を罵倒しようとしているブランシュとテオドールを見た。
彼はこの百年、この国の芸術がどれほど表面的で、中身のないものになってしまったかを、誰よりも知っていた。
ジラールは、ふう、と長い息を吐いた。
それは諦めではない。
彼が何十年もの間、胸の内に秘めていたであろうものの、解放の吐息だった。
「……長年の鬱憤を晴らす、か」
彼が、小さく呟いた。
「お嬢様。私は、このハープと共に五十年、国王陛下に仕えてきました」
「はい」
「奏でてきたのはいつも、あの者たちが望む甘ったるいワルツばかり。私が本当に奏でたかった音楽は、とうに埃をかぶっていました」
彼は、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、私に向かって、深く、深く、頭を下げた。
侯爵令嬢に対する礼ではない。
それは、芸術に挑もうとする者への、畏敬の念だった。
「このハープを、貴女に」
彼は、私に、ハープの前の椅子を、敬意を持って手渡した。
「マエストラ・ヴィオラ。存分におやりなさい。忘れ去られた魂を、今ここで、解き放ちなさい」
私は震える手でその椅子に座った。
杖をそっと、ハープの脇に立てかける。
もうこれに頼る必要はない。
私がハープを前にした姿に、ホールはまたも静寂に包まれた。
今度の静寂は、嘲笑ではない。
「何が起こるのか」という純粋な、そして、残酷な好奇心だった。
「まさか、弾く気か?」
「踊れないから楽器に逃げたのね」
「楽器なんて踊りの添え物、いくら演奏したところで……」
ブランシュが信じられないという顔で、私を指差している。
「何を! およしになって! ファルコーネ家の恥ですわ!」
私は、目を閉じた。
父の書斎で埃にまみれながら、血が滲むほど練習した日々を思い出す。
踊れない足。
だが私には、この指がある。この声がある。
私は、息を吸い込んだ。
そして、指を、振り下ろした。
それは、ワルツの甘く軽やかな音ではない。
それは、太古の風が戦場を駆け抜けるような、荒々しく荘厳な和音。
ホールが、その音の圧力に震えた。
私は、歌い始めた。
踊れない人形。誰かがそう言った。
衣装を着せられ、ただそこに置かれているだけの、魂のない置物。
違う。
私は、魂がなかったのではない。私を表現する術が、この国では踊りしかなかっただけだ。
この指が、私の魂。この声が、私の意志。
私はもう、誰かに踊らされる人形ではない。
私は今、私の意志で、私の魂を奏でている。
「北の山脈氷を溶かし――我らが英雄、アルア・ルス――剣を取りて……」
私の声はもう震えていなかった。
書斎で磨き上げた私のすべて。
それは、貴族の令嬢が、サロンで披露するような、か細い歌声ではない。
それは、物語を、魂を、聴衆に叩きつける弾き語りの、力。
技巧の全てを、この一曲に込める。
めまぐるしく変わるリズム。
ハープの弦を、指が切り裂くように駆け上がる。
貴族たちは、呆然と私を見ていた。
彼らが知っている芸術ではない。
彼らが信奉する、型にはまった美ではない。
これは荒々しい、生の魂の叫びだ。
その時。
隣でジラールが、別の楽団員たちに目配せをしたのを見た。
最初に気づいたのは、第一ヴァイオリンの首席奏者だった。
彼は私の演奏を、私の技巧と精神性を、食い入るように見つめていた。
彼の目が、カッと、見開かれた。
彼は弓をそっと、弦に当てた。
私の演奏と歌声に、一本の細く、しかし、芯のあるヴァイオリンの音色が絡みついた。
それは私の演奏を、歌を、そっと支える装飾的な伴奏。
次にチェロが加わった。
重く低い音で、叙事詩の大地の響きを補強する。
フルートが風の音を奏で始めた。
彼らは楽譜を見ていない。
彼らは私を見ている。
私のハープを、私の歌を、聴き、感じ、そして自らの楽器でそれに呼応している。
彼らはジラールと同じだった。
踊りのための軽薄な伴奏を弾かされる日々に、鬱憤を溜めていた音楽家たち。
彼らは私の挑戦に、この国の失われた希望を重ねたのだ。
音楽が、うねりとなってホールを満たしていく。
それはもはや、私一人の演奏ではない。
私と魂を共鳴させた楽団員たちの、連帯の響きだった。
私は歌う。英雄アルア・ルスの孤独を。彼の絶望を。
そして彼が、それでも国のために立ち上がった、その魂の雄叫びを。
それは、私自身の叫びだった。
ホールは水を打ったように静まり返っていた。
あれほど私を嘲笑していた貴族たちが、今は一人残らず息を飲み、この享楽的な舞踏会とはかけ離れた合奏に圧倒されていた。
私は、見た。
ブランシュが、顔面蒼白になって震えているのを。
テオドールが、信じられないものを見るかのように、私から目を離せないでいるのを。
私は最後の和音をホールに叩きつけた。
――ジャン!
音の残響が、ゆっくりとシャンデリアの水晶に吸い込まれていく。
そして完全な静寂が訪れた。
私が弦から指を離した後、ホールを満たしていた圧倒的な音の奔流は、まるで最初から存在しなかったかのように完璧な静寂へと吸い込まれていった。
シャンデリアの水晶が、最後の残響をきらめきと共に飲み干していく。
私はまだハープを抱えたまま動けないでいた。
全身の血が指先に集まってしまったかのように、手足が熱く、そして冷たい。
全てを出し切った。
父の書斎で、埃と孤独の中で、磨き上げた私の全てを。
ホールを見渡す。
誰も動かない。
あれほど私を嘲笑し侮蔑していた貴族たちが、今は皆幽霊でも見たかのように口を半開きにして、舞台の上の私を見つめている。
扇を動かす者も、咳払いをする者もいない。
この静寂は称賛か、それとも、理解を超えたものに対する新たな拒絶か。
カツン。
私の杖の音ではなかった。
それはホールの最も奥、玉座が置かれた一段高い場所から響いた、重く厳かな音。
静寂を破ったのは、この国の頂点に立つお方。
国王陛下だった。
陛下がゆっくりと、その玉座から立ち上がられた。
その手に握られていた黄金の儀礼用の杖が、再びカツンと床を打つ。
全ての貴族たちの視線が、私から国王陛下へと一斉に移動した。
誰もが息を飲んでいる。
陛下の次の一言が、この国の芸術の価値を決定づけるのだ。
私は舞台の上から国王陛下を見上げた。
陛下は私を見ていた。
その表情は、厳格な統治者としてのいつもの仮面ではなかった。
「……ヴィオラ・ファルコーネ嬢」
陛下の声は大広間の隅々にまで朗々と響き渡った。
「そなたに問う」
私はハープの椅子から慌てて立ち上がろうとした。
だが不自由な足が演奏の緊張から解放された今、言うことを聞かない。
ぐらりと体が傾いだ。
「そのままでよい」
陛下の制止の声。
私はハープにしがみつくようにして、なんとか体勢を立て直した。
「陛下……」
「そなたの今の演奏。そして、そなたの呼びかけに応えた楽団員たちの、あの魂の応酬。あれはまさしく、そなたが歌い上げた『アルア・ルスの叙事詩』そのものであった」
陛下の言葉にホールがわずかにどよめいた。
「流行の旋律も、技巧的な踊りも、決して悪しきものでは無い。それはそれとして素晴らしいものだ。だが……」
陛下は私だけではなく、ホールにいる全ての貴族たちに向かって、語りかけるように続けた。
「……私は、恥ずかしながら忘れていた。このリベルタニア王国がいかにして建国されたか。それは技巧的な踊りのステップによってではない。それは享楽的なワルツの旋律によってでもない。それはまさしく今ヴィオラ嬢が示したような、困難に立ち向かう、荒々しくも気高い魂の連帯によって成し遂げられたものであったはずだ」
陛下の視線が、私と共にこの無謀な演奏を支えてくれた、ジラールと楽団員たちに向けられた。
「楽団員たちよ。そなたたちは楽譜になき音を奏でた。本来ならば、王宮楽団として規律違反であろう」
楽団員たちの顔に緊張が走る。
「だが!」
陛下の声が一転して熱を帯びた。
「そなたたちの音は、ヴィオラ嬢に見事に応えていた。それは久しく、この王宮が忘れていた芸術の真の姿であった!」
陛下は私にそして楽団員たちに向き直り高らかに宣言された。
「踊りこそが社交界の華であると、私もまたそう信じて疑わなかった。だが今宵、私は目が覚めた思いだ。真の芸術とは、流行を追うことでも、型をなぞることでもない。それは魂を震わせることであり、その魂に応えようとする連帯の輝きのことである!」
陛下は右手を、私に向かって差し出された。
「ヴィオラ・ファルコーネ嬢。そして、勇気ある王宮楽団の諸君。そなたたちに私は、この国を代表し最大級の称賛を贈る!」
その瞬間。静寂は破られた。
パチパチパチ……
最初は小さなまばらな拍手だった。
それは国王陛下の側近たち――ジラールのように、この国の芸術の行く末を密かに憂いていた年配の貴族たちからだった。
だがその拍手は、国王陛下の絶対的な「称賛」というお墨付きを得て、一気にホール全体へと広がっていった。
ワアアアアアアアアアアアアア!!
それは、先ほどのブランシュとテオドールの踊りに対するものとは明らかに質の違う熱狂だった。
流行に対するものではない。
目の前で起きた奇跡と、畏敬の念を含んだ爆発的な喝采だった。
「ブラボー! 真の芸術家よ!」
「なんと、なんと素晴らしい!」
「あれこそが建国祭にふさわしい、リベルタニアの魂の体現者だ!」
「踊りではなかった! 我々は間違っていた!」
手のひらを返すとはまさにこのことだった。
つい十分前まで私を「踊れない人形」「ファルコーネ家の恥」と嘲笑していたその同じ口が、今や私を「真の芸術家」「リベルタニアの魂の体現者」と絶賛している。
私はその嵐のような喝采の中でただ呆然と立ち尽くしていた。
脇に立てかけていた私の杖。私をこの舞台へと導いたあの紫檀の杖。
それをジラールがそっと拾い上げ、私に恭しく差し出してくれた。
「マエストラ・ヴィオラ。貴女の勝利です」
彼の皺深い目には光るものがあった。
私はその杖を受け取り、彼と、そして私と共に戦ってくれた楽団員たちに深く頭を下げた。
私一人では何もできなかった。
彼らの鬱憤と誇りがあったからこそ、私の音楽は届いたのだ。
その時、私はホールの中央で立ち尽くしている二人の姿に気がついた。
ブランシュとテオドール。
彼らはこの熱狂の輪から完全に取り残されていた。
嵐の中心にいる台風の目そのものだった。
ブランシュは蒼白という言葉では生ぬるいほど色のない顔をしていた。
血の気が完全に引いている。
彼女は、自分がこの夜会の絶対的な主役であると信じて疑っていなかった。
私がハープの前に座った時でさえ、彼女は私を愚かな道化として見下していたはずだ。
だが今。国王陛下が私を称賛した。
貴族たちが私に熱狂している。
デビュタントの華。
その座はもはや彼女のものではなくなった。
この建国祭の夜会の主役は私に完全に奪われてしまったのだ。
「そん……な……」
ブランシュの唇が震えているのが遠目にも分かった。
「うそ……よ……こんなこと……。だって私は……私がデビュタントの華なのに……」
彼女の隣でテオドールもまた、信じられないという表情で私を、いや私に向けられる熱狂的な喝采を見つめていた。
彼の冷たい青い瞳が、焦りと混乱で揺れている。
宮内卿が国王陛下の側近から何かを耳打ちされ、慌てたようにフロアの中央へと進み出た。
彼はこの異常な事態をなんとか収拾しようと必死だった。
「み、皆様! ままことに素晴らしいヴィオラ様の演奏でございました! まさに建国祭の余興として……」
「余興だと?」
国王陛下の地を這うような低い怒りの声が宮内卿の言葉を遮った。
「陛下、いいえ、これはその……」
「あれが余興だと申すのか。宮内卿。そなたの目は節穴か」
「も、申し訳ございません!」
宮内卿がその場に平伏する。
「今宵の建国祭の儀典は、ヴィオラ・ファルコーネ嬢の演奏と、楽団のあの魂の響きをもって完成した! デビュタントの華などもはや些末なこと!」
陛下のその一言がブランシュの最後の望みを打ち砕いた。
「いやああああああああ!」
ブランシュが甲高い耳障りな叫び声を上げた。
「そんなの認めない! 認めないわ! デビュタントの華は私よ! 私がブランシュ・ヴァリエールがこの夜会の主役なの! あんな足の不自由な、踊れない人形なんかが主役だなんて、そんなことあってたまるもんですか!」
彼女は取り乱していた。
今まで完璧な淑女の仮面の下に隠していた、彼女の醜い本性が白日の下に晒された。
「なんで! なんでよぉぉ! なんでヴィオラは私に無いものばかり持っているのよぉぉぉ! 仕方ないじゃない! 優しいお母様も、素敵な婚約者も、私にはいなかったんだものぉぉぉ!」
泣き喚くブランシュ。
ホールは再び静まり返った。
今度は国王陛下への畏敬の念からではない。
ブランシュのそのあまりにも見苦しい狂乱ぶりに対する、軽蔑と呆れの静寂だった。
「ブランシュ! 控えよ!」
テオドールが慌てて彼女の腕を掴んだ。
彼はまだ、公爵家の次期当主としての体面を保とうとしていた。
ここでブランシュと共に狂乱しては自分も破滅する。
彼の冷徹な計算がそう告げていた。
「離してテオドール様! なぜあなたまで黙っているの! あの女が私から全てを奪ったのよ! 私たちの完璧な踊りを台無しにしたのよぉぉ!」
「黙れと言っている!」
テオドールの怒声が響いた。
その醜い言い争い。
それこそが彼らが今まで必死に隠してきた、魂のない、中身のない芸術の正体だった。
その時。
ホールにもう一つの声が響いた。
それは国王陛下でもブランシュでもない。
私の父だった。
「陛下。恐れながら、申し上げたき儀がございます」
私は息を飲んだ。
父が私を振り返った。
その目はもう私を「踊れない人形」として見下す冷たい目ではなかった。
厳しい父の目の端には――光るものが浮かんでいた。
父ファルコーネ侯爵が、国王陛下の前に進み出た。
彼は国王陛下に深く一礼すると、懐から一通の古い封筒を取り出した。
「何をなさるのですおじ様!」
ブランシュが、父のそのただならぬ様子に、怯えたような声を上げた。
「陛下。今宵、私の娘ヴィオラが、この国の真の芸術の魂を呼び覚ましてくれました」
父が、私を娘と呼んだ。
「ですが陛下。芸術の名誉が回復された今。この場で正さねばならぬ、もう一つの罪がございます」
父の冷たく厳格な声がホールを支配する。
「罪……? な何のことですのおじ様!」
ブランシュが後ずさる。
父はブランシュには一瞥もくれず、国王陛下にその封筒を差し出した。
「陛下。これは四年前。私の娘ヴィオラが落馬事故に遭ったのち、見つかった証拠の品にございます」
私の心臓が大きく跳ねた。
四年前。落馬事故。
あの日の水色のリボン。
「ファルコーネ侯爵。それはいったい……」
国王陛下が眉をひそめ、衛兵にその封筒を受け取らせた。
「それは当時、我が家で馬の世話をしておりました、一人の厩務員に宛てられた手紙にございます」
父は言った。
「そこにはヴィオラの愛馬『白銀』の馬具に、細工を施すよう指示する内容が記されておりました。そしてその報酬が同封されていたと」
ホールが今夜何度目かのどよめきに包まれた。
「な……」
ブランシュの顔から、本当に最後の一滴の血の気までもが失われた。
「そ、そんなもの……わ、私は知りませんわ……! おじ様何を仰って……」
「侯爵」
国王陛下が衛兵から受け取ったその手紙を開き険しい顔で父を見据えた。
「この手紙の差出人は誰だ」
父はゆっくりと振り返った。
そして今この瞬間に、この国で最も醜く哀れな存在と成り果てた、一人の少女を指差した。
「そこにいる私の姪――ブランシュ・ヴァリエールにございます」
「うそよおおおおおおおおおおお!」
ブランシュの絶叫が再びホールに響き渡った。
だがそれはもはや誰の同情も引かなかった。
「違います! 陛下! 私はやっていない! それはおじ様とヴィオラお姉様の罠ですわ! 私がデビュタントの華に選ばれるのが妬ましかったのよ! だから私を陥れようと……!」
「黙らぬかブランシュ!」
父の雷鳴が落ちた。
「その手紙には記されていた。お前の母上の形見である、ヴァリエール伯爵家の紋章が入ったブローチが報酬として同封されていたと! 厩務員は自らの罪を悔い、そのブローチと共にこの手紙を私に提出し姿を消した! これが動かぬ証拠だ!」
「あ……ああ……」
ブランシュが膝から崩れ落ちた。
それは、彼女が言い逃れできない決定的な証拠だった。
私はその衝撃的な事実に言葉を失っていた。
知っていた。
あの日の水色のリボンはブランシュのものだと薄々気づいていた。
だが私を害するために、母の形見さえ差し出すことさえできるのか。
彼女の恨みの深さに、私は思わず身震いした。
しかし父が。
あの冷徹な父が、その証拠を四年間も握りしめていたとは。
なぜ今になって。私は父を見た。
父は、私と目を合わせないまま言った。
「陛下。私はこの四年間、侯爵家としての体面を、醜聞を恐れ、この事実を隠蔽してまいりました。踊れないヴィオラよりも、踊りの才能があるブランシュを、家の後継者として利用しようとしてしまった私の愚かさゆえに」
父は国王陛下の前で自らの罪を告白した。
「ですが今宵、ヴィオラが示してくれた真の芸術――いや、この国の建国の魂そのものの前で、私は、自らの過ちを深く恥じ入る次第にございます。我がファルコーネ家は、ブランシュ・ヴァリエールという偽りの芸術に加担し、真の芸術を不当に貶めた。この罪は、ファルコーネ侯爵家当主である私一人が負うべきものです。
今更、ヴィオラにはあわせる顔も、かける言葉もございません。見せかけの技巧的な言葉を凝らした謝罪をするのではなく、このブランシュの罪を、ファルコーネ家の罪を、今ここで明らかにすることこそが、真の芸術と、我が娘ヴィオラの名誉に対する、ファルコーネ侯爵家としての唯一の贖罪であると信じます」
父の贖罪。
それは私のためというよりも、彼自身の「ファルコーネ侯爵」としての、最後の誇りを守るための行為だったのかもしれない。
もしくは潮目が変わったからこそ、勝ち馬に乗る狡猾な貴族として、今この事実を明かすことにしただけなのかもしれない。
だがそれでも。血を分けた父が、もう一度私を娘と呼んでくれたことが、ただ、嬉しかった。
厳格だが優しかった父。誕生日には馬を贈ってくれた父。
幼い日の思い出が頭の中に溢れ出した私は、必死で目元に力を入れて、込み上げてくるものを抑えた。
国王陛下は目を閉じ、深く息を吐き出された。
そして目を開けた時、その瞳には統治者としての冷徹な光が戻っていた。
「ブランシュ・ヴァリエール」
陛下が、床に崩れ落ちたまま泣きじゃくるブランシュに判決を下す。
「そなたはヴィオラ・ファルコーネを謀り、その未来を奪おうとした。その罪、万死に値する」
「ひ……ぃ……」
「だがファルコーネ侯爵の今宵の功績に免じ、そなたの命までは取らぬ。……衛兵!」
陛下の声と共に、屈強な衛兵たちがブランシュの両脇を固めた。
「ブランシュ・ヴァリエール! そなたの貴族の身分を剥奪し、リベルタニア王国から追放処分とする!」
「いやあああああ! 助けて! 助けてテオドール様ぁぁぁ!」
ブランシュが最後の望みをかけテオドールに手を伸ばした。
彼女の婚約者。彼女と共に完璧な踊りを踊ったあの男に。
だが。テオドールはその手を取らなかった。
彼はブランシュから一歩後ずさり、まるで汚物でも見るかのように彼女を見下した。
「……触るな、罪人め」
冷たい一言。それがブランシュが愛した男の最後の言葉だった。
「あ……」
ブランシュの目から光が消えた。
彼女は、衛兵に両腕を引きずられるようにホールから連れ出されていく。
純白のドレスが大理石の床に無様に擦れて汚れていく。
デビュタントの華になるはずだった彼女の哀れな末路。
だがその姿に同情する者は、このホールにはもう一人もいなかった。
私はその光景を、舞台の上からただ静かに見つめていた。
ブランシュが追放されたところで、私の足が治るわけでもない。
それにようやく、この足でも輝ける場を見つけたのだ。
犯人が明らかになれば少しは胸のすく思いがするのかと思ったが、ただ虚しさが広がっていく。
心の中が、急速に冷めていく気がした。
その時、私は視線を感じた。
ホールの中央でただ一人、男が立ち尽くしている。
テオドール・リシュリュー。
私の元婚約者。
そしてついほんの数分前まで、追放されたブランシュ・ヴァリエールの完璧なパートナーだった男。
彼が私を見ていた。
舞台の上ハープの傍らに杖を頼りに立つ私を。
いつもは冷徹なほど静かな青い瞳に今、燃え盛るような信じられないほどの熱が浮かんでいるのを、私は遠くからでもはっきりと感じ取っていた。
あれは、なんだ。
私に向けられた賛辞の熱なのか。
それとも自らの完璧な計算が、踊れない人形によって打ち破られたことへの怒りか。
いや……違う。
私は背中に氷を差し込まれたように震えた。
私にはわかってしまった。
あの熱は、彼がブランシュの完璧な踊りを見ていた時と同質の熱だ。
芸術を愛する熱ではない。
それは価値あるものを、自らのコレクションに加えたいと欲する所有者の熱だ。
ブランシュが最高の価値を持つと信じていたから、彼は彼女にあの熱を注いだ。
そして今。
国王陛下が私を真の芸術と称賛した。
貴族たちが私に熱狂している。
私の価値が、ブランシュのそれを上回ったと彼が判断したのだ。
だから、彼は私を欲している。
嵐のような喝采はまだ鳴り止まない。
私はジラールと楽団員たちに、もう一度深く頭を下げた。
彼らがいなければ、私のこの小さな反乱はただの道化で終わっていただろう。
彼らは私に力強く頷き返してくれた。
その目にはもう鬱憤の色はない。誇りを取り戻した芸術家の輝きがそこにあった。
「マエストラ・ヴィオラ」
ジラールが私の杖をそっと差し出してくれる。
「杖をお返しいたします」
「ありがとうございますジラール様」
私はその紫檀の杖をしっかりと握りしめた。
ジラールは深く何かを噛みしめるように目を閉じ、そして私に舞台の階段へと道を開けてくださった。
私は杖をカツンと鳴らし一歩踏み出す。
舞台からこの熱狂の中心地へと降りていく。
私が階段の最初の一段に足をかけたその時。
人垣が割れた。
貴族たちが私を恐れるように、あるいは私を崇めるように道を開けていく。
そしてその道の先に、彼が立っていた。
テオドール・リシュリュー。
彼は、ブランシュが引きずられていったホールの出口には目もくれず、まっすぐに私だけを見つめ近づいてくる。
彼の銀色の髪が、シャンデリアの光を反射して冷たく輝いている。
だが、その瞳は燃えている。
彼は私が階段を降りきる最後の一段、その手前で立ち止まってた。
そしてまるで今、初めて私という存在に出会ったかのように、その青い瞳を見開いた。
「ヴィオラ」
彼が私の名前を呼んだ。
その声は甘く、熱に浮かされたように震えていた。
「君は……君はなんということをしてくれたんだ……!」
私は彼の言葉の意味を測りかねて、ただ黙って彼を見つめ返した。
「素晴らしかった。ああ本当に素晴らしかった!」
彼は両手を広げ、まるで役者のように芝居がかった仕草で、私の演奏を称賛した。
「あの音楽! あの魂の叫び! 陛下があれほどまでに称賛されるとは! あれこそが真の芸術だ! 私は今夜、目が覚めたよ!」
周囲の貴族たちが息を飲んで、私たちのやり取りを見守っている。
国王陛下も、玉座からこの茶番を静かに見下ろしている。
「私は……間違っていた」
テオドールは今度は声を潜め、私にしか聞こえないような親密な声色で続けた。
「私はずっと、騙されていたんだ。ブランシュのあの表面的な技巧に。あの中身のない踊りに。……いやあの女は罪人だった。私はあんな恐ろしい女に利用されていたんだ!」
彼は自らを被害者の位置に置いた。
なんという変わり身の早さ。なんという厚顔無恥。
「だが君は違った。ヴィオラ」
彼は私に一歩近づいた。
私は思わず杖を握る手に力を込める。
「君はずっと、わかっていたんだな。この国の芸術が間違っているということを。そして君は、たった一人でその才能を磨き続けていた。この私でさえ気づかなかった、その偉大な魂を……!」
彼の熱のこもった賛辞。
それはかつて私が、喉から手が出るほど欲しかった言葉だったのかもしれない。
彼がまだ私の婚約者だった頃。
森で花を摘んでくれた、あの優しいテオドールだった頃。
だが、もう遅い。
私の目はもう、彼の見せかけの熱に騙されはしない。
「ヴィオラ。私は君に謝らなければならない」
彼は私の手を取ろうと、自らの手を差し伸べてきた。
その白い手袋に包まれた手。
それはブランシュの腰を支え、彼女を高くリフトしたその手だ。
「私と君は元々結ばれる運命だったんだ。この私が愚かにもその運命を見誤っていた。だが今ならわかる。私たち二人こそが、このリベルタニア王国の芸術を導く、真のパートナーとなるべきなんだ!」
彼は言った。
「さあヴィオラ! 私の手を取ってくれ! もう一度私と二人で、陛下のお墨付きを得た、新しい芸術を築こうではないか!」
彼は私の演奏を称賛しながら、その根本にある私の苦悩も絶望も、何もかも理解してはいなかった。
彼はただ、国王陛下に称賛されたという新しい価値に手を伸ばしているだけなのだ。
ホールは静まり返っている。
誰もが私の返事を待っている。
私がこの、リシュリュー公爵家次期当主の手を取るのかどうか。
「踊れない人形」が全ての名誉を取り戻し、完璧な逆転劇を迎えるのかどうか。
私は差し出された彼の手を見つめた。
そしてゆっくりと顔を上げた。
「テオドール様」
私は、静かに彼の名前を呼んだ。
「あなた様のそのお申し出、まことに光栄に存じます」
彼の青い瞳が、喜びと勝利の確信に輝いた。
彼は、私が当然その手を取ると思ったのだろう。
「あなた様の手はとても大きく、そして温かそうですわね」
私は私の手を差し出す代わり、自らの杖をカツンと一寸床に打ち付けた。
「ですがテオドール様。私は踊れませんの」
「……何?」
彼の顔から笑みが消えた。
「何を言っているんだヴィオラ。踊りのことなどもういいんだ。君には音楽がある! 私が言っているのはパートナーとして……」
「いいえテオドール様」
私は彼の言葉を今度ははっきりと遮った。
「あなたはわかっていらっしゃらない。あなたは今も、私と踊ろうとなさっている」
「……どういう意味だ」
「あなたはいつだって、その時代の流行と踊っていらっしゃる。その時代の価値あるものと、完璧なステップを踏んでいらっしゃる」
私の言葉にテオドールの顔が次第に白くなっていく。
「かつてはブランシュの踊りがあなたのパートナーでした。そして今、私の音楽があなたの新しいパートナーにふさわしいとお思いになった」
「ち、違う! 私は君の魂に感動して……!」
「私にはわかりますの。テオドール様」
私は彼に一歩近づいた。
今度は彼が一歩後ずさる。
「あなたには熱がない。魂がない。あなたもまた私と同じ、完璧に踊れる『人形』でしかありませんのよ」
人形。それは私がずっと言われ続けてきた呪いの言葉。
今私はその言葉を彼に返す。
「わ、私を……! このリシュリュー公爵家の私を人形だと言うのか!」
プライドが傷つけられた怒りが、その顔を歪ませる。
「ええ、そうですわ」
私は彼から視線を外し、私をずっと見守ってくれていた国王陛下の方へと向き直った。
私は国王陛下と、ホールにいる全ての人々に向かって宣言する。
「私はもう、あなた様の手を取って踊ることはできませんの。テオドール様」
私は彼を一蹴した。
「私は、この杖の音と共に歩いていきますわ」
「な……!」
テオドールが屈辱に顔を真っ赤にして震えている。
公衆の面前で、しかも「踊れない人形」と蔑んでいた私に拒絶されたのだ。
リシュリュー公爵家の次期当主としてこれ以上の恥はないだろう。
彼は何か私を罵倒しようと口を開いた。
だがその声は、別の声によってかき消された。
「見事だヴィオラ・ファルコーネ嬢!」
国王陛下の声だった。
陛下は玉座から立ち上がられ、私を称賛したあの時と同じように厳かに杖を床に打ち鳴らした。
「そなたの芸術は、その指先と声だけではなかったな。その魂、その生き様そのものこそが真の芸術であった!」
国王陛下が私に歩み寄られる。
テオドールは国王陛下の威光の前で、なす術もなく道を開けるしかなかった。
「陛下……」
私は杖をつきながらもできる限り深く礼をしようとした。
「よい、そのままで」
陛下は私の目の前で立ち止まり私の目を真っ直ぐに見据えられた。
「ヴィオラ嬢。私はそなたに任せたいことがある」
「私に、でございますか?」
「そうだ。そなたのその音楽を、そなたのその魂の音を、この王宮で奏でてはくれぬか」
その言葉にホールが再びどよめいた。
「そなたに王宮演奏家、および芸術を育む施設で勤務することを頼みたい。そなたのその音で、忘れ去られていた芸術の本当の意味を取り戻させてはくれまいか」
それは望外の申し出だった。
私はただ、ブランシュを見返すためにこの舞台に立ったはずだった。
だが私の音は、私の知らぬ間にこの国の王の心さえも動かしていたのだ。
私は私の両親を探した。
ホールの隅。
父が立っていた。
母が立っていた。
父は私を見ていた。
その厳格な顔は今、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
彼が四年間隠蔽していた罪。
彼が私を捨て、ブランシュを利用しようとした事実。
その父が、私に小さく頷いた。
母は泣いていた。
顔をハンカチで覆い泣きじゃくっていた。
私はもう彼らに縛られる必要はない。
私は私の意志で決める。
私は国王陛下に向き直った。
「陛下。そのあまりにも身に余るお言葉、感謝の言葉もございません」
私は杖を持ち替え私の右手を自らの胸に当てた。
「このヴィオラ・ファルコーネ。この足では陛下に完璧な礼を捧げることはかないません」
私の言葉に陛下は穏やかに微笑まれる。
「ですがこの指が、この声が続く限り。私の魂の全てをもって、陛下がお求めになるこの国の芸術のために、奏でることをお誓いいたします」
「おお……!」
陛下が満足げに頷かれた。
「それでこそマエストラ・ヴィオラよ!」
その瞬間。心からの称賛の拍手がホール全体から沸き起こった。
国王陛下の決定に対するものではない。
それは、私の覚悟に対する真の喝采だった。
私はその拍手の中で、そっと目を閉じた。
ジラールが楽団員たちと共に、私に向かって祝福の笑みを送ってくれている。
ホールの隅ではテオドールが、誰にも見られることなく顔を青ざめさせ、打ちひしがれた様子で立ち尽くしている。
彼の時代は終わったのだ。
いや、彼が信奉していた表面的な芸術の時代が終わったのだ。
*
あの建国祭の夜会から、季節は一巡りした。
リベルタニア王国の王宮には新しい風が吹いていた。
王宮の一角。東の離宮。
そこは今「王立芸術院」として生まれ変わっていた。
私が国王陛下から任された新しい職場だ。
そこにはもう、踊りのためだけの軽薄な楽団はいない。
ジラールを筆頭に、あの夜、私と共に戦ってくれた楽団員たち。
そして家柄や流行に囚われず、真の芸術を志す若者たちが集う場所となっていた。
カツン。カツン。
私の杖の音が、磨き上げられた木の床に心地よいリズムを刻む。
「ヴィオラ先生! ここの和音の繋がりがどうも……」
「ヴィオラ様! この詩に曲をつけたいのですが、ここの感情はどのような旋律がふさわしいでしょうか!」
集まってくる若者たちに、私は一つ一つ応えていく。
「あなたの感情をそのまま音に乗せなさい。技巧はその後からついてきます」
「その詩の主人公は悲しんでいるだけ? いいえ、その悲しみの奥に、怒りがあるのではなくて? それを表現しなさい」
私がハープの前に座ると、練習室は水を打ったように静まり返る。
私が奏でる一音一音を、彼らが聞き逃すまいと集中しているのがわかる。
私の演奏はもう、あの夜の荒々しい叙事詩だけではない。
喜び。悲しみ。愛。
この国に生きる人々の魂の全てを、音楽に乗せて奏でる。
社交界のあり様も少しずつ変わっていった。
もちろん今でも夜会で踊りがなくなることはない。
だが人々はもう、ただステップの正確さや流行の型だけを追い求めることはしなくなった。
「あの踊りには魂が感じられない」
「あの演奏はヴィオラ様の音楽に触発されている」
「魂」という言葉がこの国の芸術の新しい価値基準となったのだ。
私は演奏を終え窓辺に立った。
杖をつきながら窓の外を眺める。
中庭では若い踊り子たちが、私のハープの新しい曲に合わせてステップの練習をしている。
それは型にはまったワルツではない。
喜びを全身で表現する新しい踊りだ。
ふと、芸術院の入り口で、見慣れた人影がためらうように立っているのに気がついた。
母だった。落ち着いたドレスを身にまとった母は、恐る恐る練習室を覗き込んでいる。
私が視線を送ると、母はビクリと肩を震わせ、気まずそうに目をそらした。
だが、すぐに彼女は私に向き直った。そして、とても小さな声で、こう言ったのだ。
「……ヴィオラ。その……あなたの音楽は、わたくし、嫌いでは、ないわ」
それは、流行がどうとか、家名がどうとかではない、母が生まれて初めて口にした、彼女自身の感想だったのかもしれない。
私は、母にそっと微笑みかけた。
そして母が、逃げるように芸術院を去った日の夕暮れ。
今度は父が一人で、芸術院の私の執務室を訪れた。
父は、王宮演奏家としての私の活躍を称賛するでもなく、ましてや過去の罪を謝罪するでもなく、ただ腕を組み、窓の外……活気に満ちた芸術院の練習風景を、厳しい顔で眺めていた。
「……陛下は、お前に過度な期待を寄せておられる」
沈黙の末に父が口にしたのは、不器用な言葉だった。
「お前は今、新しい流行の先頭に立たされている。だが、流行とは移ろうものだ。いつか必ず、お前を『古い』と呼ぶ者たちが現れる」
「……はい、お父様。存じております」
「だが」
父は、ゆっくりと私に向き直った。
「お前が奏でるものは、流行ではないはずだ」
それだけを言うと、父は私の返事も聞かず、執務室を後にして行った。
私は、父の去った扉を静かに見つめた。
私の足は、あの日から変わらず不自由なままだ。
私の左足が完治することはもうないだろう。
だが私はもうそのことを嘆いてはいない。
侯爵令嬢ヴィオラ・ファルコーネ。
社交界で「踊れない人形」と嘲笑された私。
私は今、この国の誰よりも自由に生きている。
カツン。
私は杖を一度床に打ち付けた。
それは私の始まりの音。
私は私の音と共にこれからも歩いていく。
この愛すべきリベルタニア王国で、私の魂を奏で続けていくのだ。
了




