第3話
――その日、世界は一瞬だけ、確かに揺れた。
ある者は気のせいと笑い、別の者は胸騒ぎを持て余した。
魔に通じる才を持つ者だけが、本能で危機の匂いを嗅ぎ取る。
世界は少しだけ、変わろうとしていた――。
◆
暮れなずむ空を、濁った風が渡る。
薄暮の光に染まる街の門を、鎖帷子を軋ませながら一人の男が駆け込んできた。
その顔は蒼白、泥と血に汚れたマントがずたずたに裂けている。
「魔獣です! 森から――”魔の出ずる森”から魔獣どもが一斉にこちらへ向かって来ます!」
兵舎に飛び込んできた伝令の叫びに、周囲の兵士たちは一瞬呆気に取られた。
隊長格の大男が歩み寄り、低く問う。
「数は?」
「分かりません! 地も、空も、影で埋まるほどです!
それに――普段は絶対出てこないような個体も混ざっています。まるで森から逃げ出したかのように……!」
「聞いたか!急報を街中に伝えよ! 魔獣群が来るぞ! 」
◆
非常鐘が重苦しく鳴り響いた。
街の名は【トラギエル】。ヴァルマリス王国の南端に位置し、国境と“森”を見張る要塞都市である。
”森”から魔物が出てくることは時々あった。
しかし今回のような大規模な氾濫は、一度も経験したことがない。
衛兵たちが走り、冒険者ギルドの扉が叩かれる。
街を覆う空気は一変し、人々は店を閉じ、荷をまとめ、静かに避難所へと向かっていた。
混乱はない。
だが、その分だけ、事態の深刻さが浮き彫りとなっていた。
「王都からの援軍は間に合わぬ。各自、召集された部隊に加われ」
「C級以下は後衛に回れ。A・B級冒険者は前線防衛に出る!」
「ギルド契約書はこの場で即時発行する。支払いは王国が保証する!」
市の広場では、軍装の列のほか、職能ごとの隊が急ぎ編成されていく。
それは“軍”ではない。――抗うと決めた者たちの連帯だった。
物々しい空気の中、この都市の長にしてトラギエル防衛軍総司令【オルレオ・バルヘイム】が壇上に立つ。
「諸君、すでに報せは届いているはずだ。
――“魔の出ずる森”より、かつてない数の魔獣が、我らの地に向かって押し寄せている。」
オルレオは一歩、檀上を踏み鳴らす。
その声音は重く、だが確かに兵と冒険者たちの胸に響いた。
「今、我らが守るこの都市は、未曽有の災厄に晒されている。だが、忘れるな。
ここには家があり、家族があり、暮らしがある。剣を取らねば、戦わねば、無辜の民が、血の雨に沈むことになる。」
間を置き、将は剣を掲げた。
「――戦え! 誇り高き戦士たちよ、ここに立つ者は皆、ただの兵ではない。
この地を守る“砦”であり、“壁”であり、“楯”だ。貴殿らの奮闘が、未来を繋ぐ。
我らの命運は、今この瞬間にかかっている!」
風が吹き抜ける中、兵たちの瞳が燃え上がった。
「いざ、前へ! 奴らに見せてやれ、人の意地というものを!!」
その言葉が大気を裂いた瞬間――沈黙していた広場に、雷鳴のような咆哮が巻き起こった。
「ウオオオオオッ!!」
無数の喉が叫びを上げ、剣が抜かれ、槍が天を突く。
それは恐怖の声ではない。
覚悟を超えた者たちの、魂の叫びだった。
◆
大地が揺れ、空は黒く染まっている。
地平に砂煙が立ち上り、黒の帯がこちらへ押し寄せる。
「来たぞ――全軍、備え!」
四肢で大地を割る巨獣、鉤爪の猛禽、有毒の霧を撒く有翼獣、蠢く蛇群、蟲の黒潮。
群れ、などという生易しい量ではない。
――“森”そのものが、牙を剥いて押し寄せてくるような光景だった。
前衛が防壁線を築き、矢と魔法が降り注ぐ。
だが魔獣は怯まない。痛みを知らぬ狂気の勢いで、ただ押し寄せた。
画して戦端は開かれた。
◆
ほどなく戦場は地獄となる。
地を割る咆哮。空を裂く悲鳴。
剣を握る者たちは、汗と血に濡れた顔を上げ、倒れた仲間の上を踏み越えて刃を振るう。
炎の呪文が魔獣を焼き、氷の矢がその脚を封じ、だが――倒しても倒しても、後から続く群れに押し潰される。
「くそっ、このままじゃ持たねぇぞ……!」
「手の空いてるやつは負傷者を回収しろ!急げ!」
「前衛――引くな! ここで通したら市街まで雪崩れ込むぞッ!」
防衛線は既に限界を迎えつつあった。
大狼の魔獣が南門の外壁にまで迫り、その巨体をぶつけて石の壁が軋む。
鉄のように固い爪に斬られ、喉元を穿たれ、仲間の死体の上で吠える魔獣たち。
それに対抗する人間たちは、もはや限界だった。
そして――
「《凍えて眠れ》」
短い詠唱とともに、魔獣が次々と氷の彫像に変わった。
「強い魔力を感じて来てみれば、あんたらもっとちゃんとしなさいよね!」
空から声が聞こえた。
皆が見上げると、淡く光る蒼髪を靡かせた少女が宙に浮いていた。
「あぁ……【蒼光王女】だ……。S級が帰ってきたぞー!!」
安堵が走る。
1人の兵が叫ぶ。
「フィリス様! 後ほど報酬を払いますので、加勢をお願い致します!」
「ふん! しょうがないから、弱いあんた達を助けてあげる。」
そう言って魔獣の群れを見下ろし、
「《凍えて眠れ》」
再び放たれた冷気が、前列を一掃。
続けざまに――
「《蕩けるような甘い死を》」
足元に甘い匂いの沼が開き、触れた魔獣から音もなく溶け落ちる。
「《汝の敵を愛しなさい》」
光る巨大な胸と腕が現れ、魔獣たちを抱きかかえ、圧殺する。
「《楽園の守護者よ、来たれ》」
十翼の天使が列を成し、光刃を携えて魔獣に襲い掛かっていく。
いずれも最高位の術。
それを涼しい顔で連ねる。
S級冒険者――人類の到達点。
まさに一騎当千。
彼女が来てから押されていた戦線が、一気に押し返されていく。
――だが
「おいおい、嘘だろ……!?」
「なんで【鉄殻竜】が動いてんだよ!?」
鼓膜の奥に響く、地を裂くような重低音。
濃灰色の甲殻に覆われた巨影が遠くに見えた。
鱗ではない。鉱石質の、金属を思わせる殻。
物理は当然、魔法もほとんど効果がないほどの硬さ。
異様なほど鈍重な足取りで、それはこちらへと向かってくる。
本来は森や山からほとんど動かず、足に生えた根から地面の栄養を吸収して暮らす。
それがこんな平原まで出てきている。
「……はは、終わったな……。」
絶望。
戦士たちは諦めの表情を浮かべていた。
「何諦めてんのよ!! ほんっと、弱いのばっか!!」
悪態を吐いて、フィリスは鉄殻竜へと向かう。
「《凍えて眠れ》!
《蕩けるような甘い死を》!
《晴れ時々雷》!
《融解熱線》!
《女性に重いって言うな》! 」
氷、土、雷、熱、重力――多属性の術式が連打され、確かに命中する。
だが傷は浅く、瞬く間に再生が追いつく。
わずかに苛立ったのか、鉄殻竜が口腔を開き、ブレスを放つ。
「っ!」
フィリスに当たる寸前で、天使の1体が間に入る。
ブレスの当たった天使は光となって消滅した。
フィリスと鉄殻竜の攻防が続く。
フィリスの攻撃は全て命中するも、致命打にはならない。
対する鉄殻竜の攻撃は、空を自由に飛ぶフィリスにはほとんど当たらず、当たりそうになれば天使がかばう。
膠着状態を先に破ったのは、鉄殻竜だった。
足に生えた根を地面に突き刺し、特大のブレスを真上へと放つ。
ブレスはフィリスの頭上高くまで届き、無数の矢雨となって降り注ぐ。
ブレスの雨を必死に掻い潜る。
フィリスをかばうため、天使がブレスを受け次々と消滅していく。
最後の1体もブレスを受け、地に墜ちていく。
避けるのに精一杯のフィリスに、鉄殻竜はさらにブレスを放つ。
避けきれなかったフィリスに直撃し爆発を起こす。
決着が着いたように見えた。
だが次に周囲の者が見たのは、鉄殻竜が爆発するところだ。
それも内側から破裂するように。
血の雨が降り注ぐ。
中心にはフィリスが居た。
(一か八か、飛び込んで正解だったわね。)
――鉄殻竜のブレスが直撃したフィリスは《鏡よ鏡よ鏡さん》という魔法によって、フィリスの姿を写された天使だった。
そしてフィリス本人は天使の姿となって、ブレスをわざと受け、鉄殻竜の視界外に離脱。
ブレスの後、わずかな隙を狙って体内へと侵入していた。
もう一度ブレスを放たれていれば、体内で焼け死んでしまう。
だがフィリスは賭けに勝った。
(おばあ様の言う通り、固いやつは中から攻撃するに限るわ。)
鉄殻竜が撃破されたのを皮切りに、残った魔獣は”森”へ退いていった。
「――魔獣が退いていくぞ……!?」
誰かの声がその場に響き、張り詰めていた空気が一気に崩れる。
「……勝った、のか?」
一瞬の沈黙の後、誰かが歓声を上げた。
「うぉおおおおおおおおっ!!」
それを合図に、各所で喜びの声が爆発する。
「フィリスだ! ”蒼光王女”がやりやがった!!」
「鉄殻竜を……あの化物を倒しちまったぞ!!」
「退いていく! 魔獣が退いていくぞ!!」
武器を天へと掲げる者、仲間と抱き合って涙する者、地に膝をついて震える者──それぞれの歓喜が夜空に溶けていく。
そして、誰かが叫んだ。
「勝鬨を上げろォ!! 我らが命を賭けて守り抜いた、この街のためにッ!!」
『おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!』
幾重にも重なった雄叫びが、戦場を揺らす。
血と煙と死の匂いが充満する中、それでも希望の炎が確かに灯っていた。
誰もが知っていた。
この勝利がどれほどの犠牲の上に成り立っているかを。
それでも──いや、だからこそ叫ぶのだ。