でゞこのこと
〈首を捥ぐ「時」よサヨナラ春椿 涙次〉
【ⅰ】
話は前後するが、ジョーヌの亡骸は荼毘に付され、骨灰は動物靈園に収められた。
葬儀には、テオも勿論參列した。その時、一欠けらの、遺灰をテオは貰つてきた。その譯は、後ほど話す。
テオは、カンテラ事務所員としての身入りも、谷澤景六としての印税も、殆ど「トラバサミ被害野良猫基金」に寄付してゐた。トラバサミ- 人間の發明としては、最惡のもの、テオは固くさう信じてゐた。
安保さんに依頼して、トラバサミから猫を救ふ装置を造つて貰つたのも、その信念から來た事だ。
こゝ、中野區野方には、それ程壮麗な花園を持つてゐる邸宅は、ない。しかし、トラバサミ被害に遭ふ猫たちは、後を絶たない。テオは獨自に、「パトロール」をする事、決めて、それで先の装置、安保さんに製造を委託したのだ。
【ⅱ】
これ、と目してゐる、ボタニカル愛好者の花壇があつた。テオが或る日、そこを通り掛かると、「フギャー!!」と悲鳴が聞こえる。猫だ。またしてもトラバサミの罠に掛かつてしまつた、猫がそこにゐる... 急ぎ、花壇の花を掻き分けると、妙齡の雌猫一匹、トラバサミに前脚を挾まれ、呻吟してゐる。
先の装置を使つて、何とか事なきを得た。(猫語で)「危ないとこだつたね、きみ」「助けてくれたの? あなた」「助けたつて程でもないけど... 何事もなくて、幸ひだつた。きみ、帰る家は?」「迷子になつちやつたの」「それぢや、僕に着いてきて。美味しいごはん、出してくれるよ、おいでよ」「ぢやお言葉に甘えて」
それが、でゞことの出逢ひだつた。
【ⅲ】
「迷ひ猫、預かつてゐます」貼り紙をしても、SNSで呼びかけても、應じる者はなかつた。でゞこ「くすん。わたし、忘れられちやつたのね」「そんなに悲観しないで。おうちの人が現れる迄、こゝに置いて貰ひなよ」こゝ、と云ふのは、勿論、カンテラの事務所である。
あゝさうさう、ジョーヌの遺灰は、でゞこがトラバサミにやられた家の周りに、撒いたのだ。カンテラに云はせると、それが「猫除け」になる、らしい。犬の臭ひがすると、猫は警戒心を持つものだ。テオとしては、その道、遠回りして! と云ふ、赤信號になつて慾しかつた。
でゞこは、シャム猫の血が色濃いミックスだつた。立ち振る舞ひは優雅で、こんな可愛いコが野良では、痛まし過ぎる。それにしても、ボタニカル愛好者つてのは、魔道一歩手前の惡行をしてゐる事、自分で気付かないのであらうか。平和共存、が一番だ。一度、カンテラに祓つて貰はうかな- そんな事をつらつら考へつゝ、でゞことの日々は過ぎた。
【ⅳ】
「それにしても」と、じろさんが云つた。「猫が猫拾つてくるなんて、前代未聞だなあ」。嗚呼じろさん、貴方は暢気過ぎるよ! テオは内心むつとしたが、長年ジョーヌとの親愛を培つてゐたじろさんは、動物の友だちなのだ。惡い人、ぢやない。
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〈孕み猫通れば皆が敬礼す 涙次〉
【ⅴ】
訊けば、でゞこの元の飼ひ主は、相当な老齡のお婆さんだつた、と云ふ。一人暮らしで、我が子の如く、でゞこを可愛がつてくれたらしい。そんな人に限つて、でゞこを忘れる筈は、ない。或ひは、近頃流行りの「孤獨死」... テオは自分の、想像力を呪つた。一般猫と云ふものは、その日その日が良ければ、それで良し、とするものだ。だから、その想像は、でゞこには黙つて置いた。
事務所の近隣、カンテラ一味を胡散臭ひ者ら、とする勢力があるのは、否めなかつた。何せ、事務所の面々が個性粒だつた面子過ぎる。やはり、と云ふか、先のジョーヌの遺灰を撒いたその家の持ち主が、最右翼だつた。
く、あの「天才猫」とやらが、うちの大切な花々を滅茶苦茶にする猫どもを、助けてゐる! これは由々しき事だ!
と云ふ譯で、有志を募つて、「カンテラ一燈齋事務所叛對同盟」なる、狼煙を上げた。さて、カンテラ、事務所のリーダーとして、だう出る? 近隣の皆が固唾を呑んだ。
【ⅵ】
或る日、「同盟」の者らが集まつて「カンテラ排斥」の氣勢を上げ(その實は、茶飲み話)てゐると、「ご免下さい」と云つて、カンテラその人がつかつかと上がり込んできた。「あ、あんた!」カン「いや、あのトラバサミつて奴は、捕まるとなかなか逃げられない。私も捕まつてしまつて、腕を犠牲にして命からがら逃げてきたんですよ」
見ると、カンテラの両腕が、胴体から離れ、ひらひらと彼らの眼前を泳いでゐる...「わ、わ、」
これは勿論、カンテラ一流の「修法」による幻覺なのだが、その両腕が今にも彼の太刀を拔き放たうとしてゐるではないか!
連中色をなし、這ふ這ふの體で逃げてしまつた。
カンテラ一味に好意を持つ家々にしても、その「好意」の内容は、カンテラ取材に來るテレビクルーが目当て- に過ぎぬ。そんな中、カンテラは、一味のリーダーとして、やるべき事をやつた迄。でも、テオにはそれは嬉しい「ボーナス」だつた。
【ⅶ】
そんな譯で、でゞこはカンテラ一味のマスコットとして、由香梨の良き遊び相手として、皆に愛される事となつた。
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〈愛すれば愛する程に淺き縁怨めしくあり今日を生きなむ 平手みき〉
お仕舞ひ。