その01 ことの始まりとカモ
六龍歴1022年、秋。中原の支配者オールガス帝国が、甲雲戦争の疲弊から回復しようともがく時勢。
八年後に始まるオールガス侵略戦争までの谷間となったこの時代を、後世の歴史家は『十年の平和』と呼ぶ。
かりそめの平和と呼ぶなかれ。当時の人々は平和の到来を心から願い、信じ、必死に生きてきた。
これは平和と幸福を、そして再起を信じる者たちの物語である。
物語はオールガス帝国領東部に位置するムスカ伯爵領から始まる。
ムスカ伯爵領南東にはクジャン族と呼ばれる蛮族の縄張りがある。蛮族とは、唯一にして至高の神ではなく六龍を崇める人間であり、往々にして同じ龍を崇める亜人と共存していた。
ムスカの街がオールガス帝国の法律に従い運営されているとしたら、クジャン族は山の掟で動いている。
両者の関係は長年冷え切っており、小競り合いが続いていた。
しかし、甲雲戦争で疲弊したムスカ伯爵はさらなる消耗を避けるために休戦を申し出、クジャン族の縄張りを侵さないことを条件に、ここ数年は小休止が続いている。
だが、ムスカの街では当然クジャン族は仮想敵であり続けた。
戦争はもう終わった。しかし、次なる戦火に備えねばならぬ。そんな街の片隅、うらぶれた酒場に三人の男が現れたことから、物語の幕が上がる。
「一週間ですよ一週間、たった六日預かってもらうだけで金貨一枚はボり過ぎですよ。そう思いませんかカルマさん」
「仕方ないだろメリーくん、ここでケチっても良いことなんて何もない。これを機会に白浪号にはゆっくりと羽根を伸ばして貰おうじゃあないか」
「メリルです。メリーじゃなくてメリル。メリーじゃまるで女の子みたいじゃないですか」
文句たらたらで現れたのは、場末の酒場に似合わない三人組。先頭に立つのは山高帽にコートの青年、カルマ。
旅慣れた旅装。編み込みブーツを履いていて、片手にステッキ、もう片方の手には山高帽を持っている。
その後でブチブチ文句を垂れているのは青みがかった黒髪の少年、メリル。十歳前後の見た目だが、それに似合わぬ大人びた口調。
履き旧した木靴は旅慣れた雰囲気だが、真新しいキルトのジャケットとカンカン帽という出で立ち。
二人の背後に静かに立つのは黒檀色の肌の巨漢。南国シートランにはしばしば見かけられる、彫像のように美しい肌の色。
軽装の革鎧で身を鎧い、鎖の巻かれた杖を持った寡黙な戦士は、名をアガスという。
「金貨一枚分の価値はあるんだ。必要経費だし、それくらいじゃ赤字にもならないだろ?」
「なりませんけれど、節約したい所は節約するべきてましょう?」
三人が場末の酒場に訪れたのも、まさにそのため。
安く買える消耗品を揃えるためだ。
酒場というものは、安価で流れ者に優しい食事処である。傭兵やならず者も御用達の施設であり、多くは治安の悪い地域にある。
提供するのは酒と食事だけではない。旅をする者に必要な消耗品も取り扱っている。
「オヤジさん、保存食はあるかい?」
「もちろんだ。干し肉、腸詰め、チーズ、干し果物、酢漬け野菜、黒パン、酒。
火口箱やランタン油、ロープや毛布もあるぜ?」
「そりゃいい、三人分を三日分で包んでくれ」
「はいよ」
カルマが取り出した袋に、パンの塊や干し肉が手際よく詰められる。
その横で、メリルが背伸びをしながら値段交渉。
「ロープはあると助かりますね。細めと太めを二束ずつお願いできますか?」
「そんなに要る?」
「山を登るんですから、あった方が安心ですよ」
雑談をしながら、支払いに入る。品質は安かろう悪かろうだ。これ以上安くできないだろう値段をさらに値切り、その代わりに三人は食事を頼むことになった。
「ボクは初めてなんですけれど、本当に大丈夫なんですか?」
「もちろん。帝国とは違うだけであちらさんも立派な文明人だぜ?」
安いコマ肉と野菜クズのスープと、円パンにチーズを乗せて炙ったもの。そして雑味の多い安っぽいエール。
場末の酒場にふさわしい食事だ。
「念の為確認しておきますけれど、悪いことじゃないんですよね?」
「悪いどころか誰からも感謝される素晴らしい仕事だよ。必要とされる品物を届け、他にはない商品を仕入れる。
これから仕入れる商品は他ではそうそう手に入らないんだぜ? もちろんそれなりの苦労はするけれど」
おしゃべりをしながら、カルマは周囲に目を配る。しかし、こんな治安の悪い安酒場には女性客などいない。給仕も態度の悪い中年男性だ。
「僕はこの仕事は二度目だが、教えてくれた先代はきちんとしたヒトだった。だが歳が歳で険しい山道は登れない。
話によれば同じような商人は他にも何組もいるらしいし、それで咎められたこともない。心配はいらないよ」
カルマは酒で軽くなった舌で、たしなめるようにそう語る。メリルは少なからず不満げに、しかし諦めたようにため息を吐いた。
「大丈夫、取って食われたりなんかしないから。何もなければ」
「それ、何かあったら取って食われるってことじゃあないですか」
「まあ、そうとも言えるかな?」
そんなカルマたちの話に、少し離れた席で聞き耳を立てる二人連れが居た。
ずる賢そうな顔の小男と、ビール腹のスキンヘッドである。
「聞きやしたかエブのアニキ」
「ああ、聞いたぜジード」
小男のエブは意地悪く笑い、スキンヘッドの弟分に囁やきかけた。
「カモが来やがったぜ」




