その03 新入りの挨拶
オールガス帝国領の中でも南部シートランに面した比較的暖かい土地に、メリアの屋敷は建っている。
菜食主義のメリアは果樹園を買い取り、自分のために新鮮なフルーツを用意させていた。
果樹園の管理は元々の持ち主たちに任せて、彼女は隣接する土地に屋敷を建てた。
周辺からは偏屈なババアだと言われているが、果樹園の小作人たちからの評判は良い。
メリアは足と目が悪いため、日の出直後に果樹園を散歩する。
そこで出会った小作人と雑談し、どの木が良いとか、楽しみだとか、美味しい食べ方の話とか、場合によっては食事に招いたりもするのだ。
いつも理不尽に不機嫌な老婆の、唯一穏やかな時間こそがこの朝の散歩であった。
「メリアさん、このオレンジ少し青いがいかがですか?」
「おや、いいねぇ。アタシゃ甘いのも好きだが酸いのも大好きさ。朝食に頂くよ、ありがとうね」
小作人からオレンジを受け取り、メリアは微笑んだ。逃げた小間使いが見たらたまげるだろう程に穏やかな笑顔。
ゆっくりと半刻(一時間)ほどかけて果樹園を歩き、メリアは屋敷に戻る。
メリアは睡眠時間が少ない。真夜中まで動いて、日の出より早く起きる。迷惑な事に、屋敷の使用人たちも同様の生活を余儀なくされる。
「おはようございます」
「ああ、おはようスィ」
「今日は面接が一件あります」
スィと呼ばれたのは、男のような服を着た女である。褐色の肌にブルーの瞳、黒い巻き毛を細く編んで頭の後ろで束ねている。
女性にしては大柄であるが、豊かに実った曲線が、彼女の性別を間違えさせない。
年齢は二十代後半。いわゆるアラサーである。メリアの秘書兼護衛であり、足音を立てずに歩く姿は黒豹のようにしなやかだ。
「面接だぁ?」
「新しい小間使です。ただ、少々問題があります」
情報が書かれているのであろう木板を一瞥し、スィが眉をひそめる。
「問題ね、アタシ以上に問題があんのかい?」
「失礼いたしました。無いですね」
主人に向けた言葉とは思えないことを平然と言ってのけるスィ。
「これをご確認ください」
「どれどれ……おやおや、確かに」
木板に書かれた『問題』に目を通し、気難しそうに眉をひそめるメリア。
「ひとまず、会ってみようじゃないか」
屋敷に通された子供は、小綺麗だが明らかに着慣れていない服を着ていた。身体のサイズに合っておらずブカブカ。裾は長すぎて紐で縛っている。
その上で髪の毛を隠すような大きな帽子をかむり、右も左もわからない様子でキョロキョロと周囲を見回していた。
「新入りか、おれはヘン。よろしくな」
「……?」
声をかけたのはがっしりした身体つきの少年だった。あどけなさの残る十代前半、頬には絆創膏を張り、短く刈り込んだ赤毛と日焼けした肌を持っていた。
やんちゃの盛りといった風貌である。
元気な挨拶に対し、子供は戸惑ったように小首を傾げた。むっとするヘン少年。
子供を案内していたスィが、その背中を押す。
「挨拶をなさい」
「え? あ、アイサツ……?」
しばしの沈黙、スィは嘆息して子供の背を押し進むよう促した。
おどおどとした態度で、奥へ進む子供。ヘンは舌を打った。
「ヘン。何やってるの? 洗濯物を運んでって言ったでしょ!」
「なんでもねーよ」
洗濯物の籠を抱えた少女の言葉に、ヘンはふてくされたように答えた。
「なぜ挨拶をしないのですか?」
「…………ば、バツをおあたえください」
「は?」
服の裾をぎゅっと掴み、震える身体で上目遣いの子供。スィはあ然とした。この子は何を言っているのだ? 理解に苦しんだ。
「挨拶には挨拶を返すものてしょう。なぜ返さないのです?」
「も、もうしわけありません。どのようなこともいたします」
子供。ヘンより少し年下だろうか、十歳前後だと踏んでいた。しかしおかしい。会話が噛み合わない。イントネーションもおかしい。
どんな環境で育ってきたのだ。スィが身震いすると、子供はひざまずいて服を脱ぎ始めていた。
「何をしているのです!!」
「バツををあたえください」
「そのようなことはしなくていいのです!!」
雪のように白い肌、天使のような顔立ち、恐怖に怯えた赤い瞳、痩せて細い手足。
「バツを……」
「必要ありません!!」
「スィが怒鳴るとは珍しいねぇ、こりゃ筋金入りだ」
奥のドアが開き、外の眩しさに目を細めながら老婆が姿を現した。
長身の秘書は自分が取り乱していた事に気がついて、慌てて子供の服を拾った。
「『虐待から保護』『日常生活困難のおそれ』おそれどころか無茶苦茶じゃねえか……あの木板を寄越した野郎は締め上げんとな」
老婆メリアは少年の前に座り込み、目を合わせた。
「アタシはメリア。アンタは?」
「…………?」
不思議そうに小首を傾げる子供。さっきと同じだ。まるで獣に話しかけているかのような反応。
泥沼に杭、カーテンを押し込む。いくつかの慣用句がスィの脳裏をかすめる
「名前だよ、『それ』とか『お前』じゃないのがあるだろ」
「…………か」
だが、短気で癇癪持ちの老婆は、その扱い方を心得た様子で優しく、ゆっくりと、言い含めるように語りかける。
「カク、タス……と、昔」
「カクタスか。へえ、北の子かと思ったら東出身かねえ」
「…………?」
女の子にしては少し不思議な語感だが、別に変な名前でも珍しいものでもないだろう。スィはメリアの言葉に首をひねった。
「『偉大なるもの』『不滅の覇王』『あたたかな愛』その名を与えてくれた誰かは、お前さんをとても愛していた」
「…………?」
「まあ、分かんねえよな? だがいつか分かる」
カクタスの頭を軽く叩くと、メリアはよっこらせっと立ち上がった。
「スィ、採用だ。部屋を用意してやれ。そこの資料部屋を軽く片付けてベッドを置きゃいい。元からあったものは適当に片しちまいな。
あとお古でいいから着替えと、生活雑貨だな。その辺りは順次でいいか。仕事はアタシの小間使い。朝から晩まで付き合ってもらうよ。
給金とかは任せるが、口入屋には文句を言って渡さないようにしとけ。好きなだけ脅していいぞ」
この子のどこがそんなに気に入ったのか。
スィは主人の考えがまるで分からず首を傾げた。




