【 プロローグ 】
考えてみれば、それ程ひどい暮らしではなかったとも言える。
お屋敷から出ることは許されないが、それは飢えることも凍えることもないという事だ。
服も寝床も清潔で、昼間はニコニコしながら命令に従っていればいい。
夜は毎晩男爵様に呼ばれてひどいことをされるが、それでも、飢えて凍えないための対価みたいなものだ。
そうずっと思っていたし、ずっとそのままだとも思っていた。
それがある晩、一変した。
「やめろ貴様! 私を誰だと思っているんだ!」
「違法薬物の密輸と奴隷売買で私腹を肥やしとったクソ野郎やろ? 公爵殿も伯爵殿も、口裏合わせて自分のことなんて知らん言うとったで、もうすぐ国軍も来るんとちゃうん? 知らんけど」
男爵様が、屠殺の豚みたいな悲鳴をあげる。
突き放すような女の声、大陸南部にある海洋大国シートラン訛りり。
違法薬物。奴隷売買。男爵様は悪いことをしていたのか。ぼんやりと考える。興味は薄い。
この先どうなるかも分からない。どうでもいい。
「や、やめろ! おい! 勝手なことをするな!」
「命令できる立場やないんとちゃう? 帳簿と隠し部屋の鍵はどこやろな〜」
「それを見つけてどうするつもりだ!?」
「扉見っけ……って、なんなん!?」
ガチャガチャと音を立てて扉が開く、光が差し込む。
覗き込むオレンジ色の瞳。そこに燃える激しい怒り。
「兎人までおるやん! この腐れ外道がッ」
「亜人を奴隷にして何が悪いッ、あ、さては貴様泥棒か奴隷商人だな!?」
何かを打ち付ける音と、男爵様の悲鳴。
「言うに事欠いてナニ言うとんねん。僕のことはそうさなァ」
女は、あろうことか男爵様を足蹴にして、薄くなった髪を掴んでこう言った。
「冒険商人……冒険商人とでも呼んだってや!」
それが、最初の記憶である。