久遠ひさめの独占欲5
この辺りには民家はない。
頼れる場所は、村の入り口にある派出所だけだった。
ひさめは、すぐに最短距離を頭に描く。
崖を駆け上がり、古い山道を抜け、橋をひとつ越えて。
「走る」
そう決めた瞬間、彼女の身体は弾かれたように前へ飛び出していた。
短距離は得意だ。
だが、これはそういう類の走りではない。
お医者さまは言っていた。
長期間の激しい運動は避けるように、と。
けど、関係ない。
あのときの優奈の姿が、頭の中に焼き付いていた。
夕焼けの世界で、血に染まる彼女。
その姿が彼女に力を与えていた。
心臓が、ドクンドクンと鳴る。
それはもう心臓というより、全身の肉が鳴動しているようだった。
熱い。
熱いのに、身体が軽い。
熱ければ熱いほど、速くなれる気がした。
河川敷を横切ったとき、前方に数人の影が見えた。
いじめっ子たちだ。
いつもなら、遠回りして避けるところだ。
でも今日は違った。
ひさめは、そのまま直進した。
迷いなく。
相手も、こちらに気づいた。
最初は、ニヤリと笑っていた。
「ひさめがひとりだ」と、理解したからだろう。
だが次の瞬間、彼らの顔色が変わった。
そのまま、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
何が起こったのか、ひさめにはわからなかった。
走りながら、顎に落ちてきた雫をぬぐう。
手を見ると、真っ赤だった。
——鼻血。
どうやら、知らぬ間に出ていたらしい。
赤い液体を顔に垂らし、息を荒げて走る姿。
彼らには、まるで本当に吸血鬼が襲ってくるように見えたのかもしれない。
「……ふふ」
クスリと笑えた。
けれど、それでも心臓は、潰れそうなほど脈打っていた。
身体がはじけそうだった。
走れ。
走れ。
走れ。
息絶えるまで、いや、息絶えても、走れ。
視界が狭まる。
喉が焼ける。
頭の奥が、熱で破裂しそうだった。
それでも、前だけを見つめる。
——派出所の明かりが見えた。
そのまま、扉を押し開けて中に飛び込む。
誰かが、何かを言っている。
けれど、耳がツンとして、何も聞こえない。
声を出そうとしても、掠れて言葉にならない。
喉が、唇が、乾いて動かない。
だめだ。
このままじゃ、伝わらない。
目に飛び込んできた、壁の地図。
村の全体図。
事故現場の位置に、拳を叩きつけた。
何度も、何度も、そこを。
血に濡れた拳が、地図を赤く染める。
そして、精一杯の声で。
「……おんなのひとが……しにかけてる……」
その言葉を最後に、ひさめの意識は、ふっと暗闇に落ちた。