はじめまして、皇子様 2
「君の名前は?」
「僕はナミ」
「ナミ……?」
聞き慣れない名前に小首を傾げる、僕よりも少し背の低い男の子。
僕は不安げに問いかける綺麗な顔を覗き込んで優しく微笑んでみせた。
「そう、ナミだよ。よろしくね、皇子様」
*
帝都の中央、鬱蒼とした森を抜けた先の丘上に建つ宮殿へと向かう道すがら、僕は考えあぐねていた。
一体どうしたら自然に皇子様と出会うことができるだろうか。
数時間前の出来事のように、皇子様が突然僕の目の前に現れて、木の根に足でも引っかけて転んでくれたらよっぽど簡単に事が進むのに。
まるで僕が旧くからの友人であったかのように、魔法で皇子様を洗脳させてしまおうかとも考えたけれど、それにしては皇子様はあまりに有名すぎる。
周囲の人間の記憶とも辻褄を合わせるには、きっと帝国中に魔法をかけなければいけないだろう。
「面倒だなぁ」
口をついて出た言葉は紛れもない僕の本心だった。
そして、好き好んで人間に関わろうと思えない僕が、どうやって人間に取り入るべきか考えているのはひどく滑稽な有り様だった。
「捕まえて!」
自らの行動を自嘲しながら、舗装された小道をぼんやりと歩いていると、どこからか劈くような叫び声が聞こえた。
声の元を辿ると、脇道に生い茂った草村から一人の少年が現れる。
太陽の光を受けて黄金色に輝く髪も、吸い込まれるような深い青色の瞳も、皺ひとつない上質なシャツも、その全てを雑草だらけにした少年は、なりふり構わない様子で僕のいる方向を指差した。
「その蝶、捕まえて!」
「え?」
突拍子もない言葉に数秒呆けた後、僕は視界の端でゆらゆら揺れる紫色の生き物を捉えた。
「……おいで」
元来、魔法使いは自然界と調和した存在だ。草花も木々も、蝶さえも、そこに存在する全ての生き物は魔法使いと相性がいい。
僕が立てた人差指に、紫色の美しい蝶が止まった。
「……じっとして!」
少年は金色の髪を靡かせてこちらへと駆け出し、その瞳を輝かせながら僕に叫んだ。
「ゆっくりおいで」
蝶が怯えてしまわないよう、僕は興奮気味の少年を諭すように声をかける。
思いの外素直な反応をみせた少年は、足の動きを緩め、小さな足音を立てて僕の人差し指に止まる蝶へ近づいた。
「……綺麗」
人間の子どもはみんな、綺麗なものや不思議なものを見ると、こぼれそうなほど大きな瞳を開いて、まるで宝石箱のように鮮やかに瞳を輝かせる。
僕はその輝きを目にするたびに、そんな子どもたちが不思議でたまらないのだ。
「こんなところで何しているの?」
蝶の羽に触れながら未だ惚けた表情を浮かべる少年に僕は問いかけた。
「蝶と追いかけっこしていたの」
蝶に追いつけて安堵したのか、少年は屈託のない笑みを浮かべて僕を見上げた。
しかし、少年が纏う仕立てのいい服は、森の中でひとりで蝶と追いかけっこをするにはあまりに不釣り合いで、少年の位が決して低くはないこと、そしてひとりでここにいてはいけない存在であろうことを暗に物語っていた。
「おとなの人は?ひとりで森で遊んではいけないよ」
「さっきまでいたけど、いなくなっちゃった」
迷子じゃないか。
そう言いたげな僕の表情に気づかないふりをして、少年はさらに一歩踏み出し、蝶を止めた僕の人差し指にそっと触れる。
「ねえ、どうやって蝶を捕まえたの?」
「さあ。僕は生き物に好かれるんだ」
それらしい言い訳を考えるのも面倒で、僕はぶっきらぼうに答えて笑った。
少年はそんな僕の投げやりな態度を気にする素振りもなく、むしろ蝶を捕まえた時よりもさらに鮮やかに瞳を輝かせて僕を見上げた。
「すごい……!そうだ。ねえ、僕のお家で一緒に遊ぼう!」
「え?」
驚いて素っ頓狂な声をあげた僕を無視して、少年はお気に入りのおもちゃを見つけた時のような、嬉しさを噛み締めた表情を浮かべて僕の腕を強く引っ張る。
「ちょっと待って、どこに行くの?」
素性も知らない少年に引っ張られながら、僕はしずかに蝶を逃して、そのまま何でもないように問いかける。
しかし、気の抜けた僕の質問に対して、少年から返ってきた言葉は思いもよらないものだった。
「あそこだよ!」
少年は丘の上にそびえる城壁を指差し、満面の笑みを浮かべて僕を振り返る。
「……あそこ?」
「そう!あそこが僕のお家なんだ」
「……君の?」
「うん、そうだよ」
僕を見つめる曇りのない眼差しをまじまじと見返して、やや確信に近い答えを持ちながら、それでも僕は問いかけた。
「……君、名前は?」
「ウィリアム・カタリスト。ウィルって呼んで!」
そう言って微笑んだのも束の間、少年は僕の人差し指にいるはずの生き物がいないことに気づいて、その表情を一変させた。
「あれ、蝶は!?せっかく捕まえたのに、蝶は……!?」
少年は瞳の端に涙を浮かべて、僕の服に掴みかかった。
しかし僕は、耳元に聞こえる少年の悲痛な叫び声も、そして揺らされる体も、視界に映る全てがどこか他人事のように頭の中を通り過ぎて、ただ僕を見上げる小さな少年を黙って見つめることしかできなかった。
「……そうか、君が……」
少年は動かしていた手を止めて、上の空で小さく呟く僕を心配そうに覗きこむ。
僕は一度強く瞬きをして、開けた視界に映る黄金色の髪と、その隙間から覗く太陽の光を反射した海面のように美しい碧眼を見つめた。
「……ウィリアム・カタリスト」
そして意を決して、少年の手をとり優しく握りしめる。
「ウィルって呼んで!」
「……ウィル」
少年は不満げな表情をころりと変えて満足そうに微笑むと、僕の手を強く握り返して問いかけた。
「君の名前は?」
長い眠りから目覚めて早々、僕に二度目の機会がやってきた。
「僕はナミ」
「ナミ……?」
少年の瞳の縁にたまる涙を優しく拭って、僕は努めて優しい笑みを作る。
「そう、ナミだよ。よろしくね、皇子様」
ごめんね、ウィル。
君には悪いけど、僕は蝶を捕まえられたみたいだ。