セメントマッチグルテンフリー
トングでクロワッサンをつかもうとすると、店主の厳がそれを止めた。
「すいませんね。閉店時間なんです」
「なんだい。まだパンあるじゃないか」
厳ベーカリーの夜8時1分。俺は小学校からずっと同級生の巌に文句を言った。
「もうレジを締めちゃったんだよ。閉店ガラガラ!終了!」
「えーっ、何だお前。堅いこと言うなよ。パン柔らかめが多いくせに」
「やめなさいってば。いいのよ。ごめんね、巌さん。ほら、行くわよ」
妻が俺のトングとトレイをひったくって元に戻すと、袖を引っ張る。巌の奥さんも済まなそうに謝った。
「ごめんね、柔田さん。また来てね」
「はい、おやすみなさい」
そのまま妻に引きずられて店外へ出たが、ドアのところで巌がニヤリと笑った。
「気に入らないな」
俺は妻に零す。妻はしょうもない、という顔を隠さない。
「閉店時間なんだから、しょうがないでしょ。クロワッサンくらいで拗ねないの」
「いいや。時間なんか、たった1分しか過ぎてないじゃないか。パンもたくさんあったし」
「それだって、レジ締めてたら店は困るでしょうが。あんたも事務所へ来たお客さんに勤務時間外に仕事頼まれたら困るでしょ。『まだそこにコンクリート余ってんじゃないか』とか言われて。ププッ」
妻は何がおかしいのか、じぶんで言って自分で笑っている。
「あいつ、俺が店を出る寸前ニヤリと笑って『ヘッ』とか言いやがった。明らかにケンカ売ってるだろ」
「あんたが幼なじみだから気安くて、そういうのも遊びのうちなんでしょ」
俺と巌はいわゆる腐れ縁だ。高校出てから俺は親父の工務店を継ぎ、巌はパン屋を継いだ。柔らかい柔田がコンクリ扱って、硬い巌は柔らかいパン屋になったと周囲からからかわれたが、お互い家業なんだからしょうがない。
「明日仕返しに行ってやる」
「やめなさいよ。大人げない」
翌日俺は妻の意見は無視して、夕方に巌ベーカリーへ行った。時刻は午後7時57分、山のようなパンを抱えてレジに持っていく。奥さんが不在で、巌だけがレジにいることも確認済みだ。巌が俺をチラリと見て、嫌な顔をした。てめ、客にする顔じゃないだろ。
「はい、200円が1点、180円が2点、250円が1点…」
巌がレジを終えたところで8時ジャストとなった。
「あっ、閉店時間だ。残念。このパン、キャンセルね」
「何をっ!」
「じゃあな。巌くん、…ヘッ!」
俺はレジで何かを言いかけた巌を残して、素早く店を出た。ワハハハハ、痛快だ。
そんなこんなも、すっかり忘れて2週間ほど後、俺はまた巌ベーカリーに入った。昼時だったので少し混んでいる。俺が店に入ってきたのを見て、巌の眼が険しくなった。俺は構わずパンをいくつか選んでレジに並んだ。
「突然ですが、本日は開店35年と3ヶ月2日記念です。今、店にいるお客さんは無料です」
突然、巌が言い出して、客がワッと沸き返る。
「店長、半端な記念日だねえ」「よっ、太っ腹!」「ホントにいいの?」
「いいって、いいって。はい毎度あり」
機嫌良く巌がパンを袋に詰めては客を送り出す。俺の番が来た。
「はーい。無料セール、ここまで-!ここから有料でーす!」
「おい、どういうつもりだ。嫌がらせかよ」
俺の抗議に巌はあっさりと頷いた。
「そうだ。いやがらせだ。…ヘッ!」
頭に血を登らせながらも俺は勘定を終えた。工務店で午後の来客がある。腹は立つが、時間をかけていられなかったのだ。店外に出た俺の耳に巌の声が響いた。
「はい、すいません。ここからまた無料セール始まりでーす!」
店内の客の歓声を後に俺は歯ぎしりし、そして地団駄を踏みながら事務所への道を急いだ。
「キーーーッ、悔しいっ!絶対仕返ししてやる!」
それから俺と巌の間で、妻に言わせると「大人げないどころか、子供でも呆れるレベル」の嫌がらせ合戦が続いた。
ある時は俺が巌のパン屋でカレーパンを買い占めて店頭で配ったり、巌が俺の工務店の前にキッチンカーを借りて乗りつけ『新発売!コンクリートのひび割れパン』を販売したり、という具合だ。
そんなある日、妻が俺を睨んで言った。
「いい加減にしなさい。近所迷惑です」
「元はと言えば巌が俺に販売拒否をしたことから始まったんじゃないか。あいつが謝ってくるなら考えてもいいよ」
妻はそれを聞いてホーホーと実に嫌な眼で俺を眺めた後、とりあえず俺のスネを蹴飛ばした。
「ぎゃっ」
翌日俺が工務店に出勤すると、事務員の女の子が笑いを堪えながら電話を差し出した。
「社長、大変です。倉庫の方へいらしてください」と社員の声。
「何事だ」
俺が倉庫へ行くとセメントの袋がひとつもなくなって、替わりに全部小麦粉の袋になっている。
「どういうことだ。誰が小麦粉を発注したのだ」
どういうわけか、この社員も肩を震わせながら首を振った。
「どういうわけでしょう」
事務所に戻ると巌がカンカンに怒ってやってきた。
「おい、お前の仕業だろう。うちの小麦粉をどこへやった」
「何だと。お前か、俺のセメントを盗んだのは」
「言いがかりもいい加減にしやがれ。パン工房の小麦粉を全部セメント袋にするなんてお前のいやがらせ以外考えられないだろう」
「何ぃ。お前こそ俺のセメントを返せ」
そこまで怒鳴り合い、声を出し疲れて、俺たちは顔を見合わせる。
「何か変だ。俺とお前以外は誰も慌てていない」と巌。
「うむ。どう考えても、これは内部の犯行だな」と俺。
そこに妻が顔を出した。巌の奥さんも一緒だ。二人がニヤリと笑った。
「う、お前たち、まさか」
「そうよ。私たちが社員と店員の皆さんにお願いして、入れ替えたのよ」
巌が赤い顔で怒鳴った。
「どうすんだ。今日の営業ができないだろうが」
俺も青い顔をしてなじった。
「工事の進行に差し障りがでるぞ。やっていいことと悪いことがある」
巌の奥さんが鬼のような顔を巌の顔に近づけた。
「近所の方には臨時休業を連絡済みです。本日来店してもセメントを練ったパンが出ますと」
俺の妻も悪鬼のような形相で俺の眼前5㎝まで近付く。俺は思わず後ずさった。
「こっちもよ。現場には小麦粉が届いてるわ。今頃社員がパンを焼いてる頃よ」
俺は二人の迫力にたじろぎつつ、ようやく声を振り絞る。
「だって、お前、あの、その、…き、近所迷惑だろう」
巌もそれにかぶせる。
「そうだ。近所迷惑だ」
妻と巌の奥さんが同時に怒鳴る。
「どの口が言うか!」「あんたらが一番迷惑だ!」
俺たちは事務所で正座させられ、女達から説教されている。部屋の外で社員と店員がクスクス笑って覗いている。
「しかし、ちょっとやり方が酷いのでは…」
俺が言うと妻の眼に本当に炎が見えた。
「ああん?」
「いいえ。何でもありません」
巌の奥さんが巌を冷たい眼で見る。
「ちゃんと仕事する?柔田さんにもちょっかい出さない?」
「いや、あれは、その、こいつが妙な嫌がらせを…」
バシッ!「ぎゃおうっ!」
巖の奥さんが角形ファイルを巖の脳天に振り下ろした。俺までビクンと背筋が伸びる。
女達二人が声を合わせて言う。
「反省してるの?」
「反省しました」「深く」
そんなわけで俺たちは強制的に仲良しになった。仲良しになりすぎ、それを女達にアピールするため、二人の家の間にある公園横へ俺が施工した巌ベーカリー2号店を新規開店させた。たった2ヶ月後のことである。
「君たち二人で店を経営したらどうだろう。きっと上手くいくような気がする」
「本当だ。僕たちも協力を惜しまないよ」
ワハハハハハハとわざとらしく笑って、俺と巖は肩を組んだ。けっして妻をよそへと遠ざけたかったわけではない。本当だ。
小麦粉とセメントの粉を取り替えるような事はもう決して起こってはいけない。粉骨砕身努力する。
タイトルと設定と導入を思いついたので、どんどん書き出し、書き終わって読み返してみたら、どうにも盛り上がらず、オチもつかず、残念。