第9話 幼馴染で、兄貴分で at 2021/03/30
繁華街のキラキラした灯から遠ざかるように、逃げるように、俺は広子を背負ってホテルの裏に建つ鹿島神社へと歩を進めていた。町田に住む者なら誰もが知る名社だが、実際にはここは神奈川県内である。一歩、また一歩と進むたび広子の身体が背中で弾み、獣じみたすえた臭気と、彼女が使っているボディソープの香りの入り混じった空気が漏れ出て、ふと、鼻をかすめる。
あれだけ大騒ぎしていたっていうのに、外の通りに出た途端、広子は何も喋らなくなった。
ときおり、右耳の後ろあたりに溜息のような、甘くて熱い息を感じる程度だ。
広子――上ノ原広子。
広子とは二年十一組で一緒だった。それも確かにそうだけれど、小学二年生の夏に古ノ森家が区内から町田へ引っ越してきた頃からの付き合いであり、同じ棟に住むご近所さんという間柄でもあった。
幼少期からマイセンの白磁のごとく整った滑らかな顔立ちをしていた広子だったが、中学になる頃には徐々に大人っぽさがブレンドされてその魅力はさらに増した。持ち前の分け隔てない人当たりの良さも手伝って、学校全体でも一、二を争うほどの美少女として人気を誇っていた。はっきりとした性格で、間違っていると思えば直球で伝える。スポーツも得意で、俺も通っていたバレーボールのクラブ活動では、いつも花形のエースアタッカーを務めていた。
ならば当然、俺にも広子への憧れの念があったかというと、案外そうでもなかったりする。
都会からやってきたもやしっ子を一人前、いや、半人前程度に鍛えてくれた兄貴分、それが俺から見た広子像だ。当時の広子も確かに美少女には違いなかったのだけれど、まだ男女の違いすらあやふやだった小さい頃は、いつも浅黒く日焼けしてニカっと笑う中性的な存在だった。
「……ふぅ。やっと着いた。なんだか懐かしいな、ここ」
足を止めて見るその先に、無垢の素材のままの鳥居が聳え立っていた。朱塗りもいいけれど、ここの鹿島神社の鳥居にはなぜか特別の風格を感じる。そのまま視線を遠くへ向けると、石段を登っていった先に立派な本殿があって、夜目にも鮮やかな新緑の注連縄が飾られていた。
すると、唐突に背後の気配がもぞもぞと蠢きはじめた。
「……ちょっと! もう子供じゃないんだから、降ろしなさいよ。降ろしてってば、早く!」
「うわわっ!? あ、暴れるなよ! 今降ろす! 降ろすから、ちょっと待てって!」
丸めた拳でさんざん背中を叩かれ、腿の脇をクロックスで蹴りつけられながら苦心して広子を降ろすと、さっきの一件が嘘のように平然と広子は参道の石畳の上をぺたぺた歩いていくではないか。
「お、おい、お前……酔ってたんじゃないのかよ?」
「へーきへーき。さっきのは演技だって。酔っぱらうほど飲んでないからさ」
「飲んでは、いるんだな」
「……うっさいな、ケンタのくせに。まだ大した量じゃないって言ってるじゃん!」
「わ、わかったわかった! じゃあ、なんであんなみっともない真似して大騒ぎしたんだ?」
「うーん……。勘違いかもしれないんだけどね」
くるり、と広子が振り返り、ぼさぼさの長髪の間から白い歯が、にかっ、と覗いた。それは確かに、俺だけが知っている『頼れる兄貴分』の広子らしい笑顔そのものだった。
「だってさケンタ、今にも泣きそうだったじゃん? そう見えたんだもん。仕方ないじゃん」
俺はしばし声を失った。
それでも口を開いて言う――震えた声で。
「俺はちゃんと笑えてたはずだ。少なくとも周りの奴らからはそう見えてたはずなのに……」
「じゃ、あたしの勘違いだったのかもね」
「………………いや、勘違いじゃないよ」
「そ?」
「助かったよ、広子」
「ん」
軽く肩をすくめながらも満足そうに口元に笑みを浮かべると、広子は再び前を向いた。
それから本殿に続く石段をゆっくりと昇り、振り返ることなく俺に向けて言葉を投げる。
「あたしも助けられちゃったからさ。ケンタがいてくれて本当によかった。……ありがとね」