第71話 その9「好きな子と鎌倉の町を散策しよう」(4) at 1995/5/31
ここ鎌倉は、三方を山に、一方を海に囲まれた、三浦半島の付け根に位置する古都である。源頼朝が創設し、北条時政、北条義時らによって実権が継承された鎌倉幕府が置かれた地だ。
特異な立地から『天然の要害』とも呼ばれ、山で囲まれた東・北・西のいずれからか鎌倉に入ろうとするならば、『鎌倉七口』と呼ばれる山を切り開いて作られた狭い切通しを通らねばならない造りになっている。初代将軍である源頼朝がここ鎌倉を拠点としたのは、代々ゆかりの地であったことに加え、こういった戦略的地理条件があったことも大きいのだろう。
三方の山々の標高は一〇〇~一五〇メートルとさほど高くはないものの、その割に急な坂があったかと思えば今度は下りと、意外とアップダウンが激しいのが鎌倉の町の特徴でもある。早くもこの高低差にメンバーたちはうっすらと汗をかきはじめていた。
「ふーっ。ねえ、ケンタ君? 他の班の人たちは、あんまり見かけないね?」
「かもね。やっぱり、源頼朝や義経ゆかりの場所を巡る人たちの方が多いかもしれないから」
大船から一駅、JR北鎌倉駅で下車した僕たちは、駅から南東方向にある総門をくぐり、六国見山を見上げるようにして境内を歩いていた。ここが一番目の目的地『瑞鹿山円覚寺』だ。
「ふわぁ……。すごく……大きいです」
「ふむ、三門ですね。あそこに……見えますか? 額には『円覚興聖禅寺』と彫られていて、貞時公の時代に伏見上皇より賜ったものだそうです。天皇直筆の看板、といったところです」
「へー。ハカセ、くわしいじゃーん」
「いえいえ。古ノ森リーダーから予習はしておくように、と言われましたからね」
実にありがたいことに、見た目を裏切らぬ博識さを惜しげもなく披露する五十嵐君がロコと佐倉君を引き受けてくれているおかげで、僕は自然と純美子と二人で散策することができた。
「木々の深緑が目に鮮やかだねー! なんだか心まで安らぎそう……」
「ここが臨済宗の寺院、禅寺だからかな? 自然とそういう気持ちになるんだと思うよ、うん」
そう手短に解説を入れながら、ちらり、と隣で気持ち良さそうに伸びをする純美子を見る。
思えば中学校の頃の僕は、どうして自分の恋心に気づけなかったのだろう。
今隣にいる純美子は、わずかな雲の隙間から溢れ降りてきた陽光に照らされ、艶めいた黒髪には天使の輪のような輝くリングを宿しているようだ。星々を散りばめたようにキラキラとした、大きくて垂れ目がちな瞳。ちょこんと愛嬌のある鼻。目まぐるしく形を変えては、僕の心を優しく揺り動かす金糸雀の囁きに似た声。僕を『ケンタ君』と呼ぶ照れたような微笑み。
ほんの少しの勇気があれば。ほんの少しのチャンスがあれば。
ただそれだけで、こんなにも幸せな日々があったはずだったのに。
いいや。
本当はとっくの昔に、中学二年の始業式の日に一目見た時から、僕は恋に落ちていたのだ。ただそれを、その『事実』を、『事実』として認めてしまうことが怖かったのだ。ひたすら恐れ慄き、何度も忘れようとして、自分を騙し、まんまと忘れたフリをしていたのだ。
僕ごときがあの純美子と釣り合うわけがない、そう自らを卑下して貶め、他人と断絶し、分不相応な自惚れを嗜め、やがて誰かを愛しいと夢想することすら罪であると自分を戒めて、ただ自分に許されたひとつのこと――勉学に没頭することでアイデンティティを保とうとした。
そして、ついに僕の夢が叶った時――無事難関大学に合格した時――にそれまで辛抱強く見守り、細いながらもつながりを絶やそうとしなかった純美子は、卒業式の前日、あの夕暮れ差し込む教室に僕を呼び出して、永年心に秘めていた想いを打ち明けてくれたのだった。
もちろん、僕は迷わなかった。
天にも昇る気持ちだった。幸せだった。
違う――そんなのは嘘っぱちだ。
見栄の塊。大嘘もいいところだ。
僕はその時その瞬間、途方に暮れてしまったのだ。頭の中は真っ白で、一切の思考が止まっていた。純美子の気持ちをどう受け止めたら正解なのか、それすらわからなくなっていたのだ。
僕にとって、現役大学合格は唯一かつ絶対の選択肢だった。そのためにずっと、ずっと努力してきた。それがゴールと狙いを定め、必死で、血反吐を吐くように貼りし続けてきたのだ。
そして――。
悲願のゴールテープを切った先に、まだまだ無数にそれがあるのだと気づいてしまったのだ。