第514話 ネゴシエーション at 1996/3/19
「やあ……。ようこそ、いらっしゃい。昨日はすまなかったね」
まるで僕の訪問を予期していたかのように目の前の鉄製のドアが開き、迎え入れるように手を広げている水無月笙氏――つまりはツッキーパパだ――の姿が見えた。口元には笑みが浮く。
僕は視線を外すことなく頭を下げると、笑顔にはこたえずに、硬い表情を崩さずに尋ねた。
「いえ。……お邪魔してもいいですか?」
「イヤだ――と言っても、素直に帰る気はないんだろう? ん?」
「ええ」
「じゃあ、仕方ないね。遠慮なく上がったらどうだい、みんなのリーダー・古ノ森健太君?」
僕はあらためて一礼すると、スニーカーを脱いでキッチンの床へ、そろり、と足を降ろした。
昨日の月曜日、『電算論理研究部』の部室で恒例のテストの振り返りと復習をすませたあと、まだそれぞれ用事があるというみんなより先に、僕はひとり水無月家を訪問したのだった。
しかし、それすらも予定されていたかのように、辿りついた先のドアには『明日、また』と書いた貼り紙があった。もしかすると別の目的で、とも思いかけたが、僕宛だったようだ。
「さあ、奥に入ってくれ。飲み物は何がいいかな? また『オレンジジュース』にするかい?」
「いえ――いりません」
戸棚からグラスを取り出そうとするポーズのまま、ツッキーパパの動きが止まった。後ろ姿なのに、あたかも逆に凝視されているような圧力さえ感じる背中だ。
「――ツッキーが帰ってくる前にハナシをすませたいんです。お互いにその方がいいでしょう」
「ふぅん」
ゆるくウェーブのかかった前髪をうっとうしそうに首のひと振りではねのけると、束ねてポニーテールにした濃栗色の髪を揺らしながら、手にしたグラスを少しずつ回転させる。そこに映る光と、まっすぐ見つめる僕へ交互に視線を向けながら、ツッキーパパはため息をついた。
「……忘れたワケじゃないよね、古ノ森君? 僕はあの時伝えたはずだよ? 『誰にも邪魔させるわけにはいかない、誰かに気づかれては意味がない』と。まさか、忘れちゃいないよね?」
「僕は……僕らは、邪魔をするつもりなんて――!」
「つもりがなくてもだよッッ!!」
ビリビリッ――僕の弱々しい弁護は、ツッキーパパの悲痛なまでの叫びに打ち消されてしまう。窓ガラスが震え、今にも手の中のグラスが粉々に砕け散りそうなまでのその叫び。
「くそっ!! どう説明したらいい!? どう説明したら理解してくれるんだ!?」
たんっ!
ついにグラスは、テーブルの上に叩きつけられた衝撃で、ぴき、とひびが生じた。
「僕がどれだけの苦しみと失望と味わってきたか、君にわかるのか!? いいや、違う。その苦しみは、琴ちゃんのそれの半分にすら届かない! 僕が代われるものならとっくにしてる!」
まるで、荒れ狂う嵐だ。
髪を振り乱し、とめどなく流れる涙を拭こうともせず、前衛舞踊のダンサーのように大胆で気まぐれなステップを踏み、舞い、回転するその姿は、滑稽なようでいて、やはり悲しかった。
それでも――僕は言わなければならない。
「あの絵はどこにあるんですか? あれは……あの絵は完成させてはいけないモノなんです」
その直後、
「どこで知ったッッッ!!」
「ぐっ!?」
まばたきよりも素早く狡猾に、彼の細い腕でつかみ上げられた僕のカラダが宙に浮く。このカラダのどこにこんなチカラが――いや、そんな余裕なんてない。急がねば僕はこのまま――。
ガチャリ――ドアの開く音と、聞き慣れた声が。
「ああ、やめて、パパ。お願いよ、このあたし――コトセからのお願いをどうか聞いて――!」





