第210話 単純な計算でも、しないやつはしない at 1995/9/11
二時間目と三時間目の間の長休みを利用してスクール水着へ着替えた十一組と十二組の生徒たちは、男女でプールの両岸に分かれて集まっていた。男子は道路側、女子は体育館側だ。
「じゃあはじめるぞー。おい、小山田! 号令!」
それまで若干鼻の下が伸びていた小山田は、いきなりのご指名に露骨に嫌そうな表情を浮かべつつも、文句も言わずに号令をかけた。二年男子の体育教師は、サッカー部顧問の『鬼の梅セン』こと梅センの大学時代の後輩であり、サッカー部の副顧問も務める磯島センセイなのだ。
「はい、おはようございます! じゃあ、準備体操からねー。小山田、吉川、前に出て手本!」
今度は吉川まで呼び出された。小山田よりもわかりやすいくさくさした顔でだるそうに前へと出てくる。見知りのサッカー部というだけでいいようにこき使われるのは確かに迷惑だろう。
同じサッカー部顧問であり、敵に回すとどちらも厄介なのは変わりないのだが、梅田センセイが畏怖されながらも敬愛されているのに対し、歳若いゆえに感情に流されやすいところのあるこの磯島センセイは、正直なところ生徒たちからの信頼を集めるまでに至っていなかった。
「……終わった? うん、オッケー。下がっていいよ。えっと、今日何やるかって言うと――」
また、説明も要領を得ないタイプなのだ。長々と『こうなった背景』までごていねいに言い訳――じゃなかった説明されたので内容を要約しよう。一学期にプール授業が満足にできなかったので、既定の指導時間にとても足りない。だから、二つのレーンを使って延々泳げ、と。
「えー!?」
「マジでー!?」
「ええと……何本――合計何メートル泳いだら終わりですか?」
さすがに体力尽き果てるまで、とは言わないだろう。だが、僕が尋ねた直後、磯島センセイは眉をしかめてプールと反対側の団地側の空を見上げて考えた――さては決めてなかったな……。
「まあ……四〇〇メートルくらいは泳いでもらわないとな。25メートルプールだから十六本」
これにはさすがに呆れて渋田と顔を見合わせるしかなかった。
レーンが二つしかないということは、クラスごとにレーンを使うイメージなのだろう。どちらのクラスも、男子だけで約二〇人いる。中学生のクロール25メートルの平均タイムは二〇秒くらいだったはずなので、ただ順番に泳いだだけでもう四〇〇秒、つまり六分半かかってしまう計算である。これでは五〇分しかない授業時間の中では、どうやっても間に合わない。
「い、いや……無理ですよ、磯島センセイ。時間的に――」
「おい、なんだ? やる前からあきらめるのか? ツラいきついは当たり前。気合だよ、気合」
普段なら口答えなどしないはずのクラスの底辺陰キャから意見されたとあってか、見るからにいらだっている様子だ。この調子では、いくら論理的な話をしようと――いや、理屈の通った話だからこそ、磯島センセイはムキになってごり押ししてくるだろう。そういう性格なのだ。
「どうする、モリケン? フツーにやったら絶対タイムオーバーだよ?」
「1レーンの中で、すれ違いで泳ぐしかない。泳げる回数を増やして時間短縮するしかないね。あと、一人が泳ぎ切るまで待たずに、前の奴が半分まで行ったら次の人はスタートするんだ」
そうすれば、理論的には最初の一人に二〇秒、残りの九人それぞれに一〇秒かければ一本泳げることになる。約二分で一本。十六本泳げば三十二分でクリアは可能になる。ただし――。
「休憩は一分半しかないのか……というか、むしろ中途半端に休まない方が疲れないと思うんだけどな」
「いやいやいや。どのみちそんなスタミナある奴なんていないって。途中脱落するよ、きっと」
ウチの中学校には体育委員というの存在しないので、たいていはクラスにいる一番運動が得意な奴が任命される。が、それはあくまで号令や準備体操レベルの話だ。他に適任者がいないとなると、保健委員である僕が一時的にその代わりを務めても文句は言われないだろう。
「あ、あのー! ち、ちょっとみんなに聞いて欲しいんだけど――」
そこで僕はみんなを呼び集めて、手早く今考えたプランの説明をした――途中何度も噛んだが。最初は半信半疑だったクラスの連中も、話が進むにつれ嫌々ながらも納得したようだった。
結果――。
プール授業はあと一回で、追加授業はしない、という成果を勝ち取ることができた。多くの脱落者を生むことにはなったものの、クラス中から感謝されたことはいうまでもないだろう。





