第200話 昔の僕とは違うんだ at 1995/9/2
――はっ、はっ、はっ。
僕は視線の先で左右に揺れるポニーテールだけを見つめ、息を切らし、ひたすらに走った。
くっ……そ……!
いくら木曽根が築二十五年経つ団地で、寸法が当時の基準だからって、二階のベランダから飛び降りるだなんて、アイツはサルかなんかなのかよ!? フィジカル・モンスターか!
しかし、速い……本当に速い……!
そういえば、追いかけっこでアイツに勝ったこと、結局一度もなかったんだっけ。よく一緒に遊んでいた近所の連中も、ロコが鬼になったとたん決まって絶望的な表情を浮かべてたなぁ。
(だが……っ! 二周目の僕を舐めるなよ……ロコォオオオ……ッ!)
速さでこそまるで太刀打ちできないものの、持久力ならば少しばかり自信がある。小山田たち、そして室生たちとの勝負が決まってからは密かにトレーニングも続けてきた。この頃の僕は確かに多少ふとめぽっちゃりではあったけれど、元々持っているポテンシャルは決して低くなかったのだ。それが、二周目の、ここ最近になってようやく気づけた僕の武器のひとつだ。
「――!?」
ホー1号棟からホー3号棟まで続く芝生の上を走り抜けたロコは、左に曲がろうとした瞬間、ふとうしろを振り返って、ぎょっ、とした表情を浮かべた。ざっと二〇〇メートルはあっただろうか。その距離を、まさかこの僕が全力で追いかけてきているとは思わなかったらしい。
「おい! 待てよ、ロコ! そこで止まれぇえええ!」
「――っ!!」
僕の叫びに、ロコは一瞬、怯えたような、明らかに動揺した表情を浮かべ、たじろぐ。
――が、弾かれたように走り出した。
(まあ、そんなにカンタンに捕まえられるとは思ってないけど……な!)
僕の方はその間も休まず足を動かし続けていたのだから、多少なりと差は縮まったはずだ。再びロコの背中を睨みつけて追いかける。憎くはない。けれど、言いたいことが山ほどある。
左に曲がったロコは、一旦ホー3号棟の脇を通ったものの、生垣をぐるりと回り込むようにして、僕らの住む棟の前に広がる貯水池の横の道を駆け下りていく。そして、次はどっちに、と思っていると、そのまま信号で右に折れて、貯水池沿いの長くゆるやかな坂道を登っていく。
――はっ、はっ、はっ。
――はっ、はっ、はっ。
僕たちの息遣いが徐々に近づき、重なり合っていく。
残念ながら、ロコが右に曲がるのを選択した時点で、ほぼ僕の勝利は確定していたのだ。いくらスピードで優るロコでも、永久にその速さを維持できるわけじゃない。そして、毎日まさにこのコースを走っている僕にはまだ充分なスタミナが残っており、ペースにも余裕があった。
そして――。
「おい! もう逃げるのはやめろ! 捕まえたぞ、ロコ! ……うわっ、あぶな――!?」
「きゃっ!?」
僕の差し出した手がかすかに触れた時、ロコがバランスを崩した。ほぼ反射的に僕はロコのカラダを引き寄せ体を入れ替えると――くそっ――顎を引いて衝撃に備えた――どん。
「い、痛ててて……。おい、大丈夫か、ロコ?」
「だい……じょうぶ。……って!」
腕の中のロコは、恐る恐る返事をしつつ、背をさする僕を見るなり目を丸くして這い寄った。
「お、おいこら、まずはどけ! 重いっつーの!」
「だ、だって、ケンタ! 怪我して……! 血が出てる……! ああ、どうしよう!」
どうやら僕は、落下の衝撃で後頭部こそ打たなかったものの、口を切ったらしい。
そして、傷を癒そうとしたロコは――優しく静かに、僕と唇を重ねる――苦い血の味がした。





