第161話 僕らの『がっしゅく!』最終日(2) at 1995/7/30
帰路は、意外なほどあっという間で、拍子抜けするほど何も起こらなかった。
というのも、なにも僕だけが特別だったわけでもなく、もれなく全員が帰りの小田急線の車中で居眠りしてしまったからだ。それくらい合宿旅行が楽しかったのだという証拠なのだろう。
――いや。
「……ご、ご相談があります、古ノ森リーダー。少し、よろしいでしょうか?」
そう。
いつだって例外はつきものだ。
ついさっきまでカーブする車両にあわせて揺れていたように思えた五十嵐君のアルカイックスマイルが僕を見た。僕はうなずき、ちょこりと頭を載せて眠っている純美子を起さないようにリュックサックのベルトから慎重に抜け出すと、無言の合図を送って隣の車両へと移った。
「こっちの方がいいだろ、ハカセ? ここなら僕だけだ。さあ、ご相談とやらを聞かせてくれ」
「は――はい」
五十嵐君は、それでもまだためらうようにきょときょとと視線を泳がせると、下がりかけていたトレードマークの丸眼鏡を元の位置まで押し上げた。そして、ごくり、と唾を飲み下す。
「そ、その、た、たとえばの話なのですが――」
「……らしくないな、ハカセ。君が『もしも~なら』の話をするだなんてさ。夢があっていいけどね」
珍しくふにゃついた言葉を操る五十嵐君のセリフに、わざとからかうように僕が割り込むと、さすがの鉄壁ポーカーフェイスにもひびが入った。たちまち子どもっぽい仕草でむくれる。
「……意地が悪いですね、悪趣味です」
「ほんの軽い冗談だって。そんなに拗ねるなよ、ハ・カ・セ」
しばらくは、むすり、と眉をしかめたままネイビーグレーの床を見つめていた五十嵐君は、やがて溜息をこぼして再び僕の目をまっすぐに見つめた。そして、ゆっくりと喋り出す。
「僕は……どうやらなんらかの病気に感染したようなのです……。頭はぼうっとして、微熱があります。動悸がして、ときおり胸が、きゅうっ、と締め付けられます。これは恐らく――」
「恋、だよ、ハカセ。君は恋をしたんだ」
僕の言葉は、案外優しく響いた。
思わず言葉を失った五十嵐君だったが、やがて、くるくる跳ね散らかした髪を掻き毟り出した。
「お、面白くもない冗談ですよ、古ノ森リーダー。この僕が? 人間らしさも知らない僕が?」
「恋をするのに、普通らしさも人間らしさも関係ないって。君は……水無月さんに恋をしてる」
五十嵐君の手が止まった。
「なにも驚くことはないさ。だって、僕と同じなんだから。僕も同じだ。だから、わかるんだ」
「そう……でしたか……」
がくり、と肩を落とし、チカラなくうなだれる五十嵐君。
しかし、珍しく嬉しそうに笑っていた。
「水無月さん――いえ、ツッキーは、この夏合宿旅行を楽しいと思ってくれたのでしょうか? 僕と乗った遊覧船、あの時ツッキーのことが、本当に可憐で愛らしいと思えたのです。最高のひとときでした! だからこそ、守れなかった自分が本当に悔しくて……悔しくって……!」
――だんっ!
足が踏み降ろされた。彼が感情をあらわにするのは、きっとこれが最初で最後になるだろう。
「おいおい。一人で背負い込むなって。あの時も言ったろ? ハカセのせいなんかじゃない」
「そう……でしたね。すみません、古ノ森リーダー」
「僕は応援する。ハカセがこれまでそうしてくれたようにね。これから、一緒にがんばろう!」
僕はひとり思うのだ。
たとえあの『時巫女・セツナ』の正体が、『水無月琴世』という名の、本来『二年十一組』にいなかったはずの少女であろうとそうでなかろうと一切関係ない。僕らが見てきた、感じてきた『水無月琴世』は、間違いなく僕らの大切な仲間なのだということ。
それだけはまぎれもない事実なんだ。